ハンセン病と私  橋爪 長三

去る7月18日、飯島 信牧師から私の経験の中からキリスト教あるいは共助会と関係あることを含め、何でもよいから6000字以内で書くようにと依頼されました。嘗て、尾崎牧師に勧められ〝私の歩いた道〟と題し、共助誌に掲載していただきましたので、今回は前回の続きのようなものとして、日本におけるハンセン病と社会、そして外国、とくにインドにおけるDr. Paul Brand の働きと信仰を紹介、比較し、私が医師として最も影響を受けたハンセン病を病んだ人々に対する感謝と反省の気持ちなど含めて大雑把な経験を書かせていただきました。

さて私に最も近くあって信仰を教えてくださった方はお二人で、第一は和田 正先生、第二は原田季夫先生でした。和田先生は私に聖書をはじめて教えて下さった方、原田先生は愛生園のある虫明で私共一家4人を支えて下さった方です。お二人とも似ておられるところがあり、それはひたむきな愛と真実をもたれ、かつ謙虚であることです。和田先生はイエス・キリストを通して人生における生き方を教えられ、火をつけられた方でした。そしてこの火は約70年後の現在も消えることはありません。私は先生から教えられた〝十字架を負って我に従え〟という聖書の言葉に捉えられ医師となり、昭和38(1963)年1月、国立ハンセン病療養所長島愛生園で働くこととなりました。70年余り前と言えば、当時〝らい〟といわれていたハンセン病に対する偏見は現在では考えられないほど強く、恐れられ、忌み嫌われ、この病気にかかったら一度は死を考えた人も多くみらたようです。

私が昭和38年赴任した時は入所者約1600人、菌陽性の患者さん約3割で、大部分に手足に障害、変形がありました。に整形外科医のみたハンセン病について簡単に説明しますと以下の通りです。ハンセン病は菌の感染によって生じる感染疾患であり、遺伝性疾患ではありません。この菌は抗酸菌といって結核菌と似ておりますが、性質は全く異なり、結核菌は感染力が強いのに対し、らい菌は感染力が弱く普通であれば感染することはほとんどないでしょう。そして結核では呼吸器が侵されることが多いのですが、ハンセン病では末梢神経と皮膚に最初に症状が現れるのが普通です。私は感染力の弱いことは知っておりましたので、〝ひび〟や〝あかぎれ〟のできた手で平気で手袋もせずに診察し膿や血液に触れたりしておりましたが気にもしておりませんでした。そして皮膚の感覚麻痺と末梢神経麻痺で最も多く見られるのが手の神経麻痺によるかぎ爪変形と下垂足です。これに関連して化膿性骨髄炎による手指の短縮を生じます。また足では内反尖足(ないはんせんそく)や足底潰瘍が多くみられ、化膿し容易にはなおりません。私が赴任した頃は下腿義足が約150肢もあったかと記憶しておりますが、これは高度の麻痺による変形、あるいは足関節の破壊、及び化膿のため切断したものと思われます。

薬物治療としては昭和10(1935)年にはドイツ、昭和18(1943)年にはアメリカでプロミンが合成され、日本でも昭和21(1946)年、東大の石館守三教授がプロミンを合成しました。その後、いろいろな薬が作られ、その中とくにプロミンの効果は著名で、これによって失明を免れた患者さんが大勢おりました。しかし、らい菌は死滅しても、末梢神経麻痺となり、筋萎縮を生じた組織は回復せず、手足の高度の変形を残しこれが後遺症となり、差別を受ける大きな原因の一つとなったわけです。顔も顔面神経麻痺のため変形を残します。現在、療養所に入所しておられる人々はすべて治癒し、後遺症をもった方々ばかりで入所者数も私が愛生園に赴任したころのほぼ十分の一位に減少したものと思われます。

次にハンセン病と結核に対する社会的対応を比較してみますと、ハンセン病は大昔から〝らい病〟といわれ、顔や手足の変形が著しいので恐れられ、また強い偏見と差別を受けて来ました。これに対して結核の場合、昔は亡国病といわれましたが、戦後、化学療法や手術によって治癒することが分かり、現在も全国では結核患者は尚大勢発生しているにも拘わらず、治癒すれば何の差別もなく、普通の扱いを受けています。これは顔や手足に変形、不自由がおこらないからと思われます。もし結核がハンセン病のように人の目につく著しい変形や機能障害が後遺症として残ったならば、社会から差別、偏見をうけたのではないでしょうか。更にハンセン病が差別、偏見を受けたのは社会からのみでなく入所してからも同様でした。50~60年前頃は一般的に職員も患者さんを軽蔑しておりましたし、また薬、手術に必要な器具などもなかなか購入してもらえませんでした。医務部長からは政府からの予算がないので余り手術はしないでほしいとさえ言われました。多くの所長はハンセン病を根絶するためには隔離政策が必要と考えていましたので、政府もその進言を受け入れ患者さんの日常生活よりも菌を抑える治療以外の方法にはきわめて消極的だったといわねばなりません。

次に日本におけるハンセン病に対する国の歴史的法的対応は以下のようでした。

明治40(1907)年、「らい予防に関する件」これは明治政府がはじめてハンセン病の対策に手をつけたものであり、以後予防法改正が行われたことがあったがすべて隔離政策に変わりなくこれは戦後も続けられました。

昭和22(1947)年、日本国憲法が公布され基本的人権が認められました。

昭和33(1958)年、第7回国際らい会議が日本で行われ、この際、日本に隔離政策廃止を勧告されました。この時、私の尊敬していたDr. Brand が来日されインド、ベロアで行われていたハンセン病による麻痺手の再建と患者のリハビリテーションについての講演がされたのではないかと思います。

平成8(1996)年、らい予防法廃止。東大石館守三教授(キリスト者)が治らい薬プロミンを合成されてから50年を経る。

平成10(1998)年、違憲国家賠償請求訴訟、熊本地裁に提訴。

平成13(2001)年、原告勝訴の判決。

ここでインドにおいてハンセン病患者のため多大の貢献をされた前記Dr. Brand について書かせていただきます。

ブランド先生はイギリス人で父はバプテスト派の牧師、宣教師として南インドで伝道されており、周囲のインド人やタミル族の人々などから尊敬され、親しまれていたようです。先生がまだ幼い7才の或る時、タミル人でハンセン病の患者さんである3人の男性が助けを求めて自宅にこられました。足に傷があったようだったので父親は医師ではなかったが足を洗い丁寧に処置をして帰ってもらったのでした。その時、患者を優しく扱い、涙を流しておられたのをブランド先生は覚えておられました。伝記によるとこの時が患者さんに接した最初の出会いのようです。9才の時、先生は教育をイギリスに帰って受けられ、当初は建築家を志しましたが、大学を卒業してから医師となり神の召命をうけ、同じ医師でありキリスト者である夫人とともにインドに渡りハンセン病患者の治療、社会復帰のために大変な苦労をされながら、ベロアを中心に世界的な仕事をされました。晩年は子供の教育のこともあり、アメリカに移住、カービルのハンセン病療養所に移られ、研究と治療をされ、最後はシアトルで2003年、88才で天に召されました。私は親しい某大学の名誉教授の案内でカービル療養所を尋ね、ブランド先生にお目にかかりお話しを伺ったことがあります。

ブランド先生のハンセン病患者さんに対する考えと行動は凡そ次のように思われます。

まず第1は、先生の父はバプテスト派の熱心な信仰を持ち、インドへ宣教師として渡り、ハンセン病を始め病を持った人、恵まれない貧しい人達に神の言葉を伝え、愛の心をもって仕えた人 ― 後にブランド先生がイギリスで教育をうけておられる間に、ペストで召天されました ― であり、この父親の志を受け継いでハンセン病の治療のためインドに行かれたのでしょう。

第2に、医師となって神の召命を受けたと信じ、整形外科を研究、インドのカリギリ、ベロアに行き、ハンセン病患者に対しまず治らい薬(おそらくDDS)を投与してらい菌を抑える。

第3に、1947年頃には、ハンセン病患者のかぎ爪変形の矯正に独創的な再建手術を行ない、日常生活や仕事に役立つようにし、さらにリハビリテーション、職業訓練を行い大勢の回復者を社会復帰に導きました。そして多くの優れた論文も書き世界的に知られるようになりました。

にも拘わらず、先生は常に謙虚で〝神の僕〟として一生熱心に働き、己を誇ることのないキリスト信徒でした。このことは国際学会でも大勢の学者達の認めるところでした。ハンセン病患者に対する偏見は、程度の差こそあれ昔からどこの国でもありましたが、彼は信仰と医学及びその技術とを車の両輪として用い、患者を助け、偏見と闘い、インドのハンセン病患者のために多大な功績を残しました。そして最近ではブランド先生が発展させたハンセン病治療部門を含む病院は、Christian MedicalCollege の600床を持つ附属病院となり、世界中から見学、研修者が来られるということです。

日本でも1946年にプロミンが合成され使用されておりましたが、政府、療養所、学会は国際的には批判を受けていたにも拘わらず、隔離政策を継続、1996年になって政府はよう

やくらい予防法を廃止としました。これに対してブランド先生は早くからハンセン病を他の一般感染症と同様のレベルで扱い、化学療法を行い、1947年ころには既に再建手術、リハビリテーション、職業訓練をおこない、社会復帰に導くように戦い、道を開いたのでした。ブランド先生のお考えは、日本のらい学会並びに政府の考えとは全く違っておりました。私も昭和38年以来、日本らい学会会員で昭和55(1980)年にらい学会賞を受け、また国際手の外科学会シンポジウムに出たにも拘わらず、そしてブランド先生の論文も一部は読んではいたのですが、先生の本当の偉さに驚いたのは実際にアメリカでお目にかかり、さらに2003年亡くなられて間もなく出版された『PaulBrand』という伝記(邦訳はない)を読んでかでした。日本ではハンセン病の患者を一生隔離して根絶しようとしましたが、ブランド先生の偉さは、一人一人の患者の人格を大切にし、医学者として優れた研究をなし、実践したばかりでなく、彼らのために社会の差別意識と戦い、患者を社会復帰まで送りだしたことでした。穏やかな方ですが、イエス・キリストに対する厚い信仰に裏付けられた勇気と情熱、そして愛とをもった稀にみる医師でした。これに対して日本では1947年基本的人権を重んじる日本国憲法が公布され、1996年、ようやく予防法が廃止となったのでした。しかし予防法から解放されたといっても、50年も経れば社会に出て生活のために働くことも出来ません。また社会の偏見、差別意識は簡単に変わるものではありません。もし戦後間もなく人権を尊重する憲法とらい菌を確実に抑えられる化学療法とを根拠としてハンセン病を隔離から解放し、結核や他の疾患と同様に扱うように国をあげて社会人を教育してきたならば、現在のような不幸な結果には至らなかったのではないかと考えます。

私はハンセン病療養所で大勢の患者さんの治療をさせていただいたのですが、私にとって感謝すべきことは社会ではなかなか見られないような優れた見識と深い信仰を持たれた何人かの人と出会ったこと、また他の医師が経験出来ないような手足の変形と運動障害の治療にあたることが出来たことでした。前者は私のとても及ばない純粋な信仰、そして忍耐と愛、後者は手足の整形外科学の知識、技術の進歩が与えられたことでした。日本ではおそらくほとんどの整形外科医が経験しなかったことを教えられたと思います。患者さんは私のような未熟な者によく協力し助けてくださいました。この経験はその後の一般障碍者の治療にどれ程役に立ったか分かりません。それ故3年前、日本整形外科学会総会での私の学術講演の最後にハンセン病回復者に対する謝辞と謝罪とをスライドで示して終わりとさせていただきました。

しかし今迄私はハンセン病患者に何をしてきたでしょうか。彼らに仕えるような心で治療してこなかたのではないか。彼らの真の隣人となることが出来なかったのではないか。イエス・キリストが愛し給うた病めるラザロを見棄ててしまったのではないか。その他、明るみで人に言われないような大きな過ちを何度も犯していたのではないか。ブランド先生を知るようになってからつくづくそのように感じます。私の人生は今や終わりに近づいていますが〝十字架に付けられ給いしままなるイエス・キリスト〟をさらに傷つけてきたに違いありません。イザヤの言われるように〝私はいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした。しかし、私を裁いて下さるのは主であり 働きに報いて下さるのも私の神である(イザヤ49:4)。〟いまや私は裁きの座に置かれ、イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しを乞うて祈っている毎日の生活のように思います。

(日本基督教団 長野教会員)