コロサイ人への手紙を読んで考えたこと 齊藤 凛

「佐久学舎聖研 応答文」 より

コロサイ人への手紙は難しく、感想を自分の言葉で書くことはできないと思いました。しかし昨年何も応答を送れなかったことが1年間の心残りだったので、今年は(近況と、書けていなかった佐久学舎の感想も含めて)考えたことを書いてみようと思います。(まとまらなかったので、箇条書きです)

・「福音の希望から離れてはならない」

この手紙の中で、パウロは「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と言い、コロサイの人々を励ましています。パウロは、自らの内で生きるキリストこそが希望であると述べ、その希望は「秘められた計画」であると言います。そして目に見えるもの、幻や影に揺れる生き方ではなく、キリストに根ざしてキリストの内を歩む生き方を示します。「福音の希望」や「秘められた計画」という言葉を深く受け取ることは未だできていない気がしますが、最近「希望から離れてはならない」(自分の言葉でいうなら、「願いから離れてはならない」)ということを知らされた出来事がありました。わたしは4月から保育士として仕事を始めました。子どもと過ごす時間は発見と感動の連続ですが、力仕事が多いため日を重ねるにつれて疲れが溜まっていきました。特に子どもの泣き声や怒りに対して、心の中で苛立ちを感じることが日に日に増えていきました。そんな日々の中で、久しぶりに友人と会う機会がありました。特別な会話でも長話でもありませんでしたが、彼女と話した後の私の心の中には、「一人一人のいのちが本当に尊いのだ」ということと、「過ぎていく一日一日は、かけがえのない時間なのだ」ということが、やさしく、重たく、願いとして残っていました。休みが明けて、また保育園での朝が始まりました。保育室に入って、子どもたちが笑ったり泣いたり喧嘩したりしながら、大騒ぎの中を過ごしている様子を見たとき、わたしは心の底から自分が喜びに満たされているように思いました。かけがえのない、尊くて重たいいのちが在るということに感動しました。ただ目の前にあるものを見たままに受け取ることと、その奥に目に見えない尊さや豊かさがあることを信じることでは、こんなにも自分が変わるのかと驚きました。

一方でパウロは、ロマ書8章の「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」という言葉にもあるように目に見えないものを希望として生きることは忍耐を要することであることも述べています。わたしは、日々の忙しさの中で、大切な願いを忘れ、疲れと不安に引きずり込まれてしまいますが、立ち止まりながら、パウロの「忍耐して待ち望む」という言葉の理解を深めていく歩みをしていきたいと思いました。

・キリストが自分の内に在る、ということ

パウロはこの手紙で、パウロ自身がどんなにキリストに満たされているかを伝えると同時に、「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と書いています。キリストがわたしの内にあるとはどういうことなのか、まだよく分からない気持ちが大きいです。先日、友人と読書会をしながらこのことを話していた際に、キリストが自分の内に住み、自分の内で働くというのは、自分の心から自我や欲望がなくなっていく中で実現されていくことなのではないかと考えました。その次の日に外出した際、ある年配の方が私の隣でハンカチを落としました。わたしは手を伸ばしかけたときに、ふと、今の時期に、他人にハンカチを触られるのは嫌ではないだろうかと思ってしまい手を引っ込めて目をそらしました。その方が時間をかけてハンカチを拾う姿を横目に見ながら、小さな自我に囚われてハンカチを拾うこともできない自分を恥じました。こんな自分の内でキリストが働くことは、とても遠いように思いました。「キリストが自分の内に在る」とはどういうことか、これからも自分の日々の中でゆっくり考えていきたいことです。

パウロは手紙の中で「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」や「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」という言葉も書いています。わたしはこの言葉は、それぞれがキリストと出会っていく歩みをしていくことが、キリストが一人一人のうちに在ることを実感し、キリストに応える生き方をしていくことに繋がっているということを伝えているのだと思いました。昨年、佐久学舎が開催されないと決まったときに、各地でそれぞれ学び会を持つことはできないだろうかという提案がありました。各地で同じ時期に開催するということは叶いませんでしたが、この話を北白川教会でお話ししたところ、片柳榮一先生と井川満さんが応えてくださり、お二人と藤坂一麦くん、辻光一さん、私の5人でマルコ伝を学ぶ時間を持つことができました。金山万里子さんも協力してくださり、マルコ伝をギリシャ語で学ぶ機会もいただきました。この学び会でマルコ伝3章を読んだ際に「彼らのかたくなな心を悲しみながら」という箇所の「悲しみながら」はギリシャ語ではσυλλυπέομαι「一緒に痛い思いをする」という言葉であることを学びました。わたしは、自分が人の目を恐れて繕おうとしたり、意固地になったりしてしまうとき、ハンカチが拾えなかったとき、わたしの隣で共に悲しむイエスがいることを知りました。キリストがわたしの内に在るということの意味は分かりませんが、心をキリストに全て委ねることができない苦しみの内にあるときにも、その状態のわたしを共に見つめる存在が隣にいてくれているということを、覚えておきたいと思いました。

・わたしを生かす希望について

コロサイ人への手紙を読む中で、自分にとっては何がほんとうに生きる希望となり得るかを問われているように思いました。

自分にとって、生きるとは何かを考えるとき、いつも思い出すことがあります。それは2019年の佐久学舎でみた光です。2年目の参加となった夏、私は就職試験に落ちたばかりでした。私は、おそらく生まれて初めて、自分に「なぜ生きるのか」を問いました。左記は、去年の夏にコロサイ書を読み、佐久を思い出しながら書いた文章です。「なぜ生きるのか」という問いに光を与えてくれたのは、わたしの話を隣で真剣に聴いてくれた人の目を見たときだった。わたしにとっての生きる意味は、この人のように話を聴ける人間になることだと思った。わたしの生きる意味は、偉い人になることでも、お金持ちになることでも、他人から評

価されることでもなかった。生きるということは、あったかい手と、やさしい目を持つ人になることだった。それは、今の自分にとっては果てしなく遠いことだとわかった。果てしなさ、だけがわたしに分かることだった。果てしなく遠くにある光に、少しでも近づける生き方がしたいと思った。

このときの「生きたい」という言葉が、わたしをずっと励まして生かしてくれていることを、本当に有り難く思っています。

佐久での時間は思い出すと恥ずかしくなることや後悔もたくさんありますが、わたしにとっては立ち返り場所です。皆さんとまた共に集まれる日を待ちながら、聖書の学びを続けていきたいと思っています。(9月1日)         (修学院保育園)