雅歌の解釈をめぐって(第四回) 小友 聡
雅歌の解釈をめぐって考察をさらに続けます。今回はフィリス・トリブルの雅歌解釈を紹介します。フィリス・トリブルはフェミニスト神学者ですが、旧約聖書学者として大変優れた研究をしています。かつて日本に滞在して大学で教鞭を執ったこともあって、日本でもよく知られる学者です。彼女の『神と人間との修辞学―フェミニズムと聖書解釈』(河野信子訳、ヨルダン社、1989年)という著書の中に、雅歌について注目すべき論考が載っています。雅歌のフェミニスト解釈と言うと、聖書テクストから逸脱したエクセントリックな解釈を予想する人がいるでしょうか。しかし、決してそういう解釈ではありません。トリブルの聖書解釈の方法は修辞批判的方法と呼ばれるものです。テクストの文学的・文体的特徴に注目して、テクストの意味を深く掘り下げて解釈するのです。
トリブルの雅歌解釈で興味深いのは、雅歌の読み方を旧約聖書全体の文脈の中で考えることです。特に、創世記2―3章の創造物語との関連で雅歌を読み解きます。前々回、私はバルトの雅歌解釈を紹介しました。バルトの雅歌解釈は、創世記2章の創造論をばねにして終末論的に読み解くもので、バルトは雅歌を「人間性の第2の大憲章(マグナカルタ)」と呼びました。バルトは組織神学者として雅歌を終末論的に解釈します。その終末論的解釈に対して、私は聖書学的に飛躍があると批判をしたのですが、トリブルは聖書学者としてこの問題に取り組んでいます。バルトの読み取りの線で、雅歌と創世記2章の繋がりを修辞批判的方法で説明するのです。
1 創世記2~3章から雅歌へ
創世記2―3章はいわゆるヤーヴィストの創造物語です。これをトリブルは「つまずいたラブ・ストーリー」と呼びます。トリブルによれば、創世記2―3章は次のような四部構成です。序章(創世記2:4b―7)、第一場:エロスの展開(創世記2:7―24)、第二場:不従順の転換点(創世記2: 25―3:7)、第三場:エロスの破壊(創世記3:8―24)。
以上の創造物語のストーリーは、トリブルによれば、造られたエロス⇨汚されたエロス⇨有罪を宣告されたエロス、という思想的な流れで捉えることができます。つまり、神の創造については、神が男と女を創造し、この男と女の愛の物語として展開するのですが、創造されたエロスは汚され、有罪を宣告され、追放されるという破局で終わるのです。少々長くなりますが、トリブルの言葉を引用します。
「創世記2―3章は、私がこの庭の鍵を開けるために用いる解釈学的な鍵である。その物語は四つのエピソードの中で発展するエロスで始まる。それらは地の生き物を形造り、園をもうけ、動物を造り、そして性別の創造である。しかし、悲しいことに、イシュとイッシャーが一つの体となった時に宣告されたその完成は、不従順によって崩壊してしまった。その結果、ヤハウェ神は包括的な男と、不可視的な女を園から追い出し、『エデンの園の東に、ケルビムとどちらにも回る炎の剣をおき、生命の木に至る道を守らせられた』(創世記3:24、RSV)。あきらかに、創世記2、3章は創造の園への復帰を全く提示していない。しかしながら、聖書が聖書を解釈するのと同じように、それはエロスのもう一つの園、すなわち雅歌に入っていくために私の手がかりを用意してくれる。拡張、省略、逆転を通じて、この詩は骨の骨、肉の肉である愛を取り戻す。言い換えると、雅歌はつまずいたラブ・ストーリーを取り戻すのである。」(209―210頁)
この引用でトリブルが何を考えているか、また雅歌をどのように読もうとしているかが、だいたいわかります。創世記の創造物語はエロスの破綻であり、男と女は楽園から追放されて、もはやそこに帰ることはできません。創世記3章の最後は、ケルビム(神の臨在)によって楽園への復帰が禁じられています。楽園を追放された男と女はもう二度とそこには戻れない。そうい
う意味で、創世記の創造物語は完結しているのです。けれども、いや、だからこそ、この楽園物語はもう一つの「楽園物語」である雅歌への入り口になるのだとトリブルは考えるのです。確かに、創造物語では、男(イシュ)は女(イッシャー)に対して「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言います(2:23)。この愛の声は、親密なささやき、歓喜の叫び、完成の静寂をもって恋人から恋人に語り掛けられるものです。この愛の声、愛のこだまが雅歌に響きわたっているではありませんか。雅歌は創造物語の文脈において解明可能になるのです。トリブルはこういう風にも説明します。「もともと、人間の創造は、性別の創造においてその完成をみたのであり、地の生き物は男と女の二つになり、その二つが一つの体になった。そのような情欲的な完成でもって、雅歌は始まり、持続し、そして完成する。」(211―212頁)
トリブルの雅歌解釈のポイントは明瞭です。つまり、雅歌は、聖書全体の中で、創世記の創造物語に接続する意味を持っていると説明できるのです。前者が「つまずいたラブ・ストーリー」であるのに対して、雅歌は「取り戻された愛の抒情詩」だというわけです。フェミニスト的な解釈に違いありませんが、トリブルはテクストを文学的に、修辞批判的に読み取ろうとしています。
創世記の創造物語について少々コメントを加えておきます。創世記2―3章はいわゆるヤーヴィストによるものだと言われます。その直前にある創世記1章―2章4節前半は、祭司文書による創造物語としてヤーヴィストから区別されます。なにしろ祭司文書とヤーウィストでは神名が異なるのです。祭司文書では神名は「神」ですが、ヤーヴィストでは「主なる神」です。両者は内容的にも異なっています。祭司文書の方では、人間は神にかたどって造られ、しかも最初から男と女として創造されます。これに対して、2章4節後半からのヤーヴィストの創造物語では、人間は土の塵で造られ、命の息を吹き込まれて生きる者となり、この人間(アダム)が眠っている間に、そのあばら骨の一部から、女が造られます。創世記では、この二つの創造物語が並列して記されています。祭司文書とヤーヴィストの相違は文書仮説によって説明できます。ただし、両者の成立、歴史性の問題についてトリブルは踏み込みません。あくまで、文学的な視点でテクストを読み取ることにトリブルの関心があります。この創世記の文脈の延長線上に、雅歌という文書がその射程に入って来ます。
2 雅歌の構造分析と文学的解釈
トリブルによる雅歌の分析を具体的に紹介します。雅歌は愛の交響楽として、五つの主な楽章を展開します。その構造分析は次の通りです(引用は聖書協会共同訳)。
序章(1:2―2:7)
「あの方が私に口づけをしてくださるように」(1:2)
「エルサレムの娘たちよ 、ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください 。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(2:7)
第二楽章(2:8―3:5)
「愛する人の声、ほら、あの方がやって来ます。山々を跳び越え、丘を跳びはねて。」(2:8)
「エルサレムの娘たちよ 、ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(3:5)
第三楽章(3:6―5:8)
「荒れ野から煙の柱のように、上って来る人は誰でしょう。没薬と乳香、商人のもたらすあらゆる香料をくゆらせながら。」(3:6)
「エルサレムの娘たちよ 、私に誓ってください。私の愛する人を見つけたら、私が愛に病んでいる、と伝えると」(5:8)
第四楽章(5:9―8:4)
「女たちの中で誰よりも美しい人よ、あなたの愛する人はほかの人より、どこがまさっているのですか。私たちにそれほどまでに誓わせるとは、あなたの愛する人はほかの人よりどこがまさっているのですか。」(5:9)
「エルサレムの娘たちよ 、私に誓ってください。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(8:4)
第五楽章(8:5―14)
「愛する人に寄りかかり、荒れ野から上って来る人は誰でしょう。」(8:5)
「私の愛する人よ、急いでください。香り高い山々のガゼルや若い雌鹿のようになって。」(8:14)
トリブルは雅歌の構造を見事にとらえています。はじめの四つの楽章の各結論で、女は「エルサレムの娘たちよ、私に誓ってください」という同一の呼びかけを口ずさみます。また三つの楽章の結びでは「愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと」という愛の定型句が繰り返されます。それぞれの楽章は形式が共通していて、全体構成が円環的であることを示します。雅歌全体がリズムを持ち、まるで交響曲のように奏でられていることがわかります。
トリブルは雅歌の内容についても、鋭い考察をしています(223―240頁)。創世記の創造物語との対比において雅歌の思想が浮き彫りにされます。たとえば、雅歌には多くの動物たちが登場し、男は女の美しさを動物の隠喩で描きます。
「なんと美しい、私の恋人よ。
なんと美しい、ベールの奥の目は鳩のよう。
あなたの髪は
ギルアドの山を駆け下りる山羊の群れのよう。
あなたの歯は、洗い場から上って来る
毛を切られる羊の群れのよう。
それらは皆、双子を産み
子を産めないものはありません。
あなたの唇は紅の糸のよう、話す口元は愛らしい。
ベールの奥の頬は、はじけたざくろのよう。
あなたの首は
武器庫として建てられたダビデの塔のよう。
千の盾がそこに掛けられている。
それらは皆、勇士たちの小盾。
あなたの二つの乳房は二匹の小鹿のよう。
百合の間で草を食んでいる双子のガゼル。」(4:1―5)
たくさんの動物たちが比喩的に表現されます。さらには、雌馬(1:9)、山鳩(2:12)、獅子と豹(4:8)もこの世界に住み、雅歌ではすべての自然界が女性と男性の愛をほめたたえます。創世記2―3章ではどうでしょうか。動物たちは人間によって名前を付けられる被支配的存在ですが、3章には人間を騙す悪辣な蛇も登場し、被支配性はあいまいであり、アンビバレントです。それに対して、雅歌ではすべての動物たちが男と女のエロスに仕えています。ぶどう園を荒らすジャッカル(狐)ですら、愛によって捕まえられます(2:15)。そういう意味で、創造物語との対照が明らかです。
さらにまた、創世記の創造物語と比較すると、男と女の関係も対照的です。創世記の方では、女は男の助け手として男から造られます。けれども、雅歌では、男の支配はなく、女の従属もなく、いずれの性においても固定した考え方はありません。女性は自立していて、自ら行動し、男とまったく同等です。女性の行動は大胆で、あけっぴろげです。さらに言えば、雅歌では女は妻(イッシャー)とは呼ばれず、子どもを産むことも要求されません。雅歌は結婚や生殖の問題について語っていないとトリブルは理解しています。フェミニストな解釈ではありますが、なるほどと思わされます。創世記の「つまずいたラブストーリー」は、雅歌の「取り戻された愛の抒情詩」へと確かに展開しているのです。
3 トリブルの雅歌解釈の評価
トリブルの雅歌解釈は見事です。バルトは、「神とイスラエル」という契約の枠組みで、創造物語と雅歌を繋げました。契約という神学的枠組みにおいて、創造とその完成として創世記と雅歌を位置づけるのです。雅歌は徹頭徹尾、終末論的に解釈されます。組織神学的にはこのような雅歌解釈が成り立ちますが、正典として旧約聖書を読む場合には、このバルトの考え方には飛躍があります。雅歌がそもそも終末論的に書かれた文書だと思えないからです。これに対して、トリブルは旧約聖書の文脈において、創造物語と雅歌の関係性を読み取ります。文学的なレベルで分析する修辞批判的な方法ですが、これは今日ではインターテクスチュアリティー(相互テクスト性)と言ってもよい方法論です。雅歌の起源に遡って、雅歌を古代オリエントの愛の歌だと説明するのが最近の聖書学の到達点であり、またこれをどう現在化して解釈するかということが関心事になっています。けれども、トリブルの解釈は旧約聖書の文脈の中できちんと雅歌を位置づけ、これを創造物語との対比で文学的に読み解きます。これのみが正しい雅歌解釈だとは言えませんが、トリブルは正典としての雅歌の意味と面白さを私たちに教えてくれます。フェミニスト解釈の一例として評価されるだけでなく、雅歌の文学的解釈としてトリブルの解釈は大いに意義があります。(東京神学大学教授・日本基督教団 中村町教会牧師)