「敵を愛しなさい」 小笠原 浩平
ルカによる福音書6:27-36
27節。イエスは初めに「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言っている。「敵を愛しなさい」という言葉は、35節にも繰り返し出てくるが、この箇所でイエスが特に言いたかった言葉だとわかる。敵を愛するということは、とても難しい。我々はそのような人をあえて避けたり、あるいは喧嘩になること、しばしばである。あるいは無視する。誰かが「愛する」の反対語は? という問いに「無視することだ」と言ったが、あながち当たっているかもしれない。イエスの言葉、これは普通人の常識と全然異なった意外な言葉である。その後に「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と。また「あなたの頬ほおを打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」と続く。〝ここまで許さなければならないのか〟と思う。しかし、イエスは「そのようにしなさい」とおっしゃった。相手が敵である場合は「目には目を、歯には歯を」という報復の原理こそ、正義原則であるまいか。しかし、キリスト教は〝愛の宗教〟である。イエスは「己を愛するが如く隣り人を愛せよ」と福音書で何度も言っている。
イエスはこの点で革命的であったと言えるかもしれない。パウロもコリントの信徒への手紙一で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と言っている。私の父も亡くなる前「神は愛だ」と何回も言ったそうだ。キリスト教で大切にされている愛は、エロスではなくてアガペーの愛であろう。自分をおろそかにしてまで、相手を愛す。または、屈辱を持っても相手を愛す。これはなかなか出来ないことだと思う。
31 節。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」ここで思うことは、イエス自身、このような自分が損をし、厳しい生き方を実践されたということだ。「愛している」と口でいうのはたやすい。しかしイエスは、人々に憎まれ、遂には十字架刑に至るまで、人々を愛し通したということが言える。イエスは口だけの人ではない。イエスはその人が自分を愛していようがいまいが、自分によくしてくれようと、そうでなくても、また罪人であろうとなかろうと、愛し通された。……そして、十字架刑となったと言える。罪人を特にイエスは目にとめ、愛された。罪人をも弟子にし、遊女なども愛された。ここで言えることは、イエスは蔑さげすまされ、他人から除け者にされ、バカにされているような者ほど愛されたということ、そういう事実である。まるで、迷子の一匹の羊を羊飼いが一晩中探したように……。
この箇所の最後の方に「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」と。それ程何の差別もなく、誰をも神は愛しておられるということだろう。
そして36節。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」で終わっている。どれ程神様の愛が深いか、また、その独り子のイエスの愛が深いか、この箇所を通して知ることができる。
私は「放蕩息子の譬え」を思い起こした。父親の財産で遊び、すっからかんとなって、乞食同然となった息子が「父の所に帰ろう。私は罪を犯しました。雇人の一人にしてください」と帰った。ところが父親は遠く離れていたのに息子を見つけて走り寄り抱きしめた。このような父親の〝愛〟。ルカ福音書では、それが貫き通されている。「己の欲するところ、これを人に施す」ということは孔子の教訓の中にもある。また「己のせられんと欲する如く、人にも為せ」というのはカントの道徳哲学における黄金律でもある。それは人間対人間の交際を規律する正義の原則であった、これによってはじめて愛と秩序は成り立つ。しかし、イエスの教訓の特殊性は、相手の人間が我が「敵」、我を「憎む者」我を「辱はずかしむる者」である点である。自分の敵を愛することは、本当に難しい。自分が変わらなくてはならない。謙虚にならなくてはならない。深い愛を持たなくてはならない。心を開かなくてはならない。自分が変わるということは、たやすいことではない。全てのプライドを捨てなくてはならないかもしれない。慈悲、憐れむ心を持たなくてはならない。
33節。「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」。ここでイエスは「自分によくしてくれない人にも善いことをせよ」と言っているのである。損得なんて全く考えていない。しかし、これがイエスの理想であり、イエスがとった生き方なのである。私たちもイエスに従うため、自分の敵や罪人や侮辱する者のために、心が痛んでも、自分を代えても、親切にし、愛し、また祈るものとなりたい。そうすることが、神様やイエス様が本当に喜んでくれることだと思う。神様に対し恩を知らない者、悪しき者とは、実は我々自身のことではないかという事実に気づく。
そのような神様からの憐れみや愛を受けている者として、この地上で出来ることを精一杯できたらと思う。神が我々を愛したように、我々も他人を愛する。これがキリスト教の基本かもしれぬ。イエスは愛の人だった。イエスは、十字架上で、十字架に掛けた者に対して「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言った。この愛、自分が侮辱を受けてもその人を赦し愛する。私はそこまで出来ませんが、イエス様のこの行為を忘れてはいけないと思います。気に入らない人でも心から赦す。そして仲良くなる。これはイエス様の愛を受けた私たちにだけできることではないでしょうか。
敵を愛することは難しいですが、イエス様を見倣って、その人の友となり、打ち砕かれ、時間が経っても良いから友になれたらと思います。
キング牧師は「愛は敵を友人に変えることのできる唯一の力である」と言っています。「いつかは報われる」。そういう思いを持って敵を愛したいと思います。しかし、現実は実際うまくいっていないのが現状です。「自分を傷つける者をどうして愛すことができるか」、これが本音です。しかし、時間をかけて、いつも心に愛そうとする心を持っていれば、いつかその人とも仲良くなれると信じます。何しろ私は、神様、イエス様から愛を頂いているのですから。これからも、神様、イエス様に従い、真っ直ぐ歩んで行けたらと思っています。
祈ります。 〈青森教会礼拝にて〉(日本基督教団 青森教会員)