使徒言行録(2)12章22~35節― 「キリストの復活」 佐伯勲
前回は、聖霊降臨の直後のペトロの長い説教のはじめ、2章14~21節までを学びましたが、今回は、その続き22 ~35節です。
ペトロは、ペンテコステの出来事は、あなたがたがよく知っている旧約の預言の成就である、神の霊の降臨が成就したことなのである。22節「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と言って説教を続けるわけですが、 何を話すのかと思ったら「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」。その後を読んでいきますと、聖霊の約束について多くを語ることなく、何と主イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天についてを語ってきます。その中で も特に「キリストの復活」について語ります。つまりそれは、 聖霊がいかなる形において働くにせよ、主イエス・キリストとの関係なしに、特に、主の復活を抜きにして理解されるこ とはないということでしょう。ペトロは22節「神は、…… 奇跡と、不思議な業と、しるしとによって」イエスが神から遣わされた者であることを示そうとされた、と言っています が、実は、そういったことどもを真に悟らせるものが聖霊の働きであり、そして、キリストの十字架と復活である、と言うのでしょう。そしてこのところは、使徒言行録、ペトロが 語る「キリストの復活」と言えるものです。わたしたちがよ く知っています福音書の主の復活の記事、また、パウロのⅠ コリント書15章のキリストの復活の記事とはずいぶん違っ ているように思いますが、それだけに丁寧に読まなければな らないでしょう。
ペトロは、「あなたがた」と呼びかけ、ユダヤ人との問題に からませながら、キリストの十字架と復活の事実を述べてい ます。それが、23、24節です。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなた がたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなど ということは、ありえなかったからです。」
そして、キリストの十字架と復活については、預言者ダビ デの明白な預言の言葉がある、そう言って、詩編16編8~ 11節を引用して説教しているのです。
25節~28節「ダビデは、イエスについてこう言ってい ます。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたし の右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、 わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに 生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、 あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない。あ なたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』」
ペトロは旧約聖書ヘブライ語の詩編16編から、そのギリ シャ語訳、2世紀ごろ作られたといわれる70人訳から、驚くほど忠実に1語も変えないで引用して語っています。
旧約の詩編16編8~11節も見ておこうと思います。
「わたしは絶えず主に相対しています。/主は右にいまし/ わたしは揺らぐことがありません。/わたしの心は喜び、魂 は躍ります。/からだは安心して憩います。/あなたはわた しの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に 墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。/わたしは 御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜び をいただきます。」
稀に見る、神との親しい交わりが神秘的に歌われている、 と言われる詩編です。この詩編は元来、重い病から回復して、 助かった、死から逃れることができたことを喜び祝って歌っ たものだと言われます。
死の不安、恐れ、困難の中にあっても、主なる神を見失う ことのなかった者、神の絶えざる御守りを確信しえた者が、 その信仰のゆえに「からだは安心して憩う」(16編9節)こ とができたのです。ここのギリシャ語訳、使徒2章26節は「体も希望のうちに生きる」と訳していまして、ここからこの 詩編16編のもう1つの解釈がなされます。それは、実際に 死んでもなおその体は腐敗することなく、神の御顔を仰いで 満ち足り、そして、神の右の御手から永遠の喜びをいただくことができる、つまり、死後の希望を、死んでもなお生きる、 永遠の命の喜びを歌ったものという解釈ができるわけです。
しかしペトロはそれをもう1度解釈しなおします。この詩編を、キリストの復活の事実の証言として読もうとするので す。ペトロはこの詩編の作者はダビデであると考えておりま した。そこでこの詩の本当の意味を明らかにするためには、 ダビデの生涯を考えてみる必要があるとして、それが使徒2 章29節からです。
「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。」そのことはあなたたちもわたしもみんながよく知ってい る事実だというのです。
ネヘミヤ記3章16節に「べト・ツル半地区の区長アズブクの子ネヘミヤは、ダビデの墓地の前まで、次いで貯水池まで、 更に兵舎まで補強した。」とあります。
また、列王記(上)2章10節「ダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。」と記されておりまして、 今日ダビデの墓地と言われるものが、シオンの山、エルサレム南方シロアムの池近くにあって、観光地として人々が訪れ るということですが、そこが本当にそうなのか、別の場所な のかはわかりません。それはそうとして、ペトロが言うよう に、はっきり言えることは、使徒2章29節「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます」つまり、ダビデは死んで葬られ、肉体は朽ち果ててしまったのであると。
そうしま すと、この詩編はダビデのことをさして言ったものではない (ダビデは自分について言っていない)ことがわかります。それは、 使徒2章30節「ダビデは預言者だったので、彼から生まれ る子孫の1人をその王座に着かせると、神がはっきり誓って くださったことを知っていました。」だから、31節 「キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、 その体は朽ち果てることがない』と語りました。」と使徒2章 27節を再び繰り返します。 そうすると、ダビデが自分のことを語ったのでなければ、 いったい誰のことを語ったのかということになりますが、それは、ダビデの末、子孫の1人イエス・キリストを(キリストの復活を)預言していたのである、これが、ペトロのこの詩 編の解釈です。つまりペトロは、この詩編を歌った〝わたし〟 主語、主格と考えられるダビデ自身が、キリストの復活を預 言する者、証人であることを示したかったのです。ですから、 使徒2章32節「神はこのイエスを復活させられたのです。 わたしたちは皆(ダビデも!)、そのことの証人です。」
ダビデについては、普通は「ダビデ王」と言われるように、 イスラエルの理想的な王、政治家、将軍として、また「ダビデの詩編」と言われるように、詩人の代表、しかしまた一方で、 詩編51編の罪人の代表でもあります。
しかし、例えば、詩編22編2節「わたしの神よ、わたし の神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。」これは、マタイ 27章46節、十字架上の主イエスの叫び言葉です。「イエス は大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、 『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』 という意味である。」 さらに、詩編22編7、8、9節「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、 わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救っ てもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。』」
さらに、詩編22編18、19節「骨が数えられる程になっ たわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。」 もう1箇所、詩編69編22節「人はわたしに苦いものを 食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」 ですから、これらの詩編の言葉は、もうイザヤ書53章「主の僕の苦難と死」に負けず劣らずです。 この詩人はダビデであるとして、詩人にとどまらず、聖霊によって預言する者、ダビデは預言者、キリストを預言する 者と言ってよいでありましょう。
また、使徒2章30節で「ダビデは預言者だったので、彼 から生まれる子孫の1人をその王座に着かせると、神がはっ きり誓ってくださったことを知っていました。」 この「神の誓い」は、旧約サムエル記(下)7章12~14節「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出 る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王 座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」 本来この誓い、約束はダビデ王の後に続くダビデの子孫、 家系のダビデ王朝の存続を預言したものでしたが、やがて、 ダビデの末からメシア・救い主を神が起こすと誓われたもの だと理解されるようになっていきました。それがルカ福音書 1章31、32節です。クリスマスの物語のところです。
天使 ガブリエルはマリアに告げます。「あなたは身ごもって男の子 を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に 父ダビデの王座をくださる。」 話を戻しまして、ペトロはこのダビデの詩編16編を引用 して、何よりもダビデ自身がキリストの復活の証人であることを示したかったのでしょう。そしてこの詩編16編とキリストの復活の関係を明らかにして、キリストの十字架から復 活への経路を示し、そうしてはじめて、主イエスが、使徒2 章33節「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された 聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、 今このことを見聞きしているのです。」
こうして、ここに至って、このペトロの説教の本来の目的 である聖霊降臨の事実の解明ということが達成されたわけです。すなわち、聖霊降臨、ペンテコステの出来事は、キリス トの十字架と復活を他にして理解することはできないのです。
そして同時に、ことは聖霊降臨という事実だけに限って理解 されるべきものではなく、それはやがて、主イエス・キリス トの勝利に至るのである。そのことを、次、3度目の旧約聖書、詩編110編1節の引用によってペトロは語ってきます。 それが使徒2章34、35節です。
最後にもう1度、今日のところで、ペトロが1番語りたかっ たところ、使徒2章27節、それが31節でも繰り返されて いるところを見て終わります。使徒2章27節「あなたは、 わたしの魂を陰府に捨てておかず(2人称・単数・未来、あなた は捨てておかない)、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにし ておかれない(2人称・単数・未来、あなたは許さない)。」動詞 はいずれも未来形です。ダビデが主イエス・キリストについ て語った預言ですから、そうでしょう。
ところが、次2章31節、同じことをペトロは引用して、 繰り返して語っているように見えますが、わたしたちの新共 同訳ではわからないのですが、ここは「彼は陰府に捨ててお かれず(3人称・単数・過去・受動、捨てておかれなかった)、その体は朽ち果てることがない。(3人称・単数・2過去、朽ちる のを見ることがなかった)。」ペトロは、今度はどちらも過去形で 言っているのです。
それともう1つ大切なことは、「あなたの 聖なる者」を、「その(肉の)体は」と言い替えています。 岩波書店の『ルカ文書』の使徒言行録は2章31節を次の ように訳しています。「彼は黄泉に捨て置かれなかった。彼の 肉体が朽ち果てることもなかった。」 そしてその結果が、使徒2章32節「神はこのイエスを復 活させられた」のでした。「わたしたちは皆、そのことの証人 です。」ペトロはこう締めくくっていますが、このことは決し て聖書にこう書いてあるから、こう預言されているから、それが成就したことなのだ、自分はそのように解釈したという だけではないでしょう。自分が、主イエスと共に生き、深刻な罪の自覚と、何よりも復活の主に出会い、声をかけられた 経験があったから確信を持って言えたのでしょう。
それと聖霊降臨の出来事があったからでしょう。 このところを読んで誰でも驚きますことは、ペトロのあまりの変わり様です。ガリラヤの漁師であった人が、主イエスに声をかけられ、そして、キリストに従うことにおいて最も 厳しい訓練を受け、時には主イエスからサタン呼ばわりされ たこともありました。何度もつまずき、失敗を重ね、最後に は3度も「わたしはあの人を知りません」と言って主イエス を裏切り、さらにさらに、主がいよいよ十字架にかけて殺され、 しかし3日目に復活するという、主イエスの3度の預言も信じることができないで、お墓にも行かず、どこに逃げ隠れしていたのやら。
極めつけは、復活の主から「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。わたしに従いなさい。」(ヨハネ福音書21章) と3度も言われたとき、「主よ、この人はどうなるのでしょうか(あの人はどうなのでしょう)」と、自分のことはさておき、他の人のことを 持ち出してしまいました。 わたしたちは、ペトロよりましだとは到底言えないでしょう。悔いても悔いても、何度もつまずき、 大失敗を重ね、もろく弱い人間の 真相をペトロはよく表していると思います。そのペトロが、キリスト の十字架と復活を大胆に語っているのです。
それは約束の聖霊が注がれた、あの日から50数日しか 経っていないのに、神の偉大な業 を語りだしたのです。 わたしたち1人ひとりも、そのような1人として、忍耐を持って主が招いておられることに深く怖れます。