思い出すことども 北村 展子

八月になると日本の敗戦の頃の事を思う。 当時私たちは朝鮮の釜山に住んでいた。家は呉服店とみそしょうゆの醸造販売をしていた。戦いは続き戦禍を避けるため母と4人の子供たちは近郊の金海(キンカイ)へ疎開した。私たちはそこの両班(ヤンバン)の庭に立つオンドルと欄間のある家に住んでいた。釜山へと続く金海の主街道はプラタナスの並木道で白く長くどこまでも続いた。その並木の一本一本には黒いヤギが一頭ずつ繋いであった。土地の男の子たちは紐か長い草を田圃(たんぼ)に垂らし「パーバママアイバマーペグリパマアイバーマー」と幼い私には聞こえた歌を歌いながら蛙を釣っていた。母は土手のクローバーで花輪を作ってくれたりしてのどかであった。しかし敗戦の報と共に家で働いていた若者の御す馬車で私共母子5人は僅かな手荷物だけを載せて金海の街道を駆け抜けた。道中、左右から荷物を奪おうとする人たちの襲撃に遭いながら洛東江を渡って釜山に帰り着いた。家では祖父母の指揮の下に家で働いていた人たち大勢でピアノやオルガンをはじめ家財道具や大切なものを荷造りしていた。それらは内地へ送り出したが殆ど届かなかった。

私たちは父母の本籍地である山口県に落ち着いた。幸いにも山や田畑、家等があったので、それらの管理を託していた人たちの助けもあって経験したことのない農作業も何とかやって行けたようだ。それから私は小・中・高と下関で過ごし大学は富山で薬学を学んだ。そこは私にとって第二志望であったが、実に有意義で豊かな4年間であった。国立二期校で薬学部のあるのは富山だけだったので一期校を失した人は皆集まった故に北海道から沖縄まで出身地は豊富でそれ故人材も豊かで夫々のお国自慢が発揮されて楽しかった。この頃について特記すべき事はひとりの学友に「楽器店の二階で聖書の話が始まった。一緒に行こう」と誘われ、のこのこ付いて行ったことである。これが聖書を開いた初めである。語って下さったのは日本バプテスト連盟の藤田英彦牧師。その頃お会いした幼いお嬢さんが今は北九州の抱撲館の奥田知志牧師の伴侶。その後は岡部元英牧師(元京都バプテスト病院牧師)。先生方には家庭を開放し受け入れて頂き、ご夫妻共に暖かく豊かなご指導を頂いた。楽しく充実した時だった。卒業前の12月、何もよく解らないながらも、この道は間違いないと確信したので、一緒に学んだ学友と共に勧められるままにバプテスマを受けた。私たちは会堂も何もない群れだったので富山平野を流れる神通川で立山から流れて来る冷たい雪水の中に全身ザブンと突っ込まれた。親鸞上人が布教した地で白日の下に行われたキリスト教の珍しい行事に橋の上から見ている人たちもおり、地方紙の記者もいて翌朝新聞には写真入りで、でかでかと報じられた。

卒業後製薬会社に就職のため上京。ここでも同教派の教会に通いそこで多くの知性霊性共に豊かな方たちに巡り合えた。指導を受けた熊野清樹牧師の紹介で思ってもみなかったことながら京都バプテスト病院の薬局で働くこととなった。東京で折角与えられた暖かい交わりから離れねばならないことに半べそをかきながら見知らぬ土地京都へ赴いた。ところが驚いたことにここでもまた本当に良き多くの人々にお出会いすることが許された。小原安喜子先生、伊藤邦幸・聡美御夫妻、原田博充牧師御夫妻等々枚挙に暇がない。そしてこの頃共助会との出会いが与えられた。ある夏の信州安曇野での修養会で川田殖先生・小笠原亮一先生のご紹介で入会を許された。

この時期には既に牧師の紹介で結婚も許され、兵庫県出石町の高校、三重県の愛農学園、そし神戸の高校と高校教師の夫の転勤に伴い転居し、神戸に住んでいた。次々に与えられた4人の子供たちは自然の中で、また良き方たちの祈りと恵みの中で育てられたのは有難いことであった。殊に愛農時代、幼い我が子たちと共に家で守っていた日曜礼拝を公のものとするようにとの声に従って、来たい人はどうぞと公開すると愛農の子供たちが全員わが家の座敷で毎週の礼拝を持つようにな った。その中で夏は夏期学校キャンプ、冬は学園クリスマス祝会に参加してページェント等、皆楽しく、生き生きと参加していたのは幸いな良い思い出である。

我が家の子供たちは愛農時代には自然の中を走り回り、神戸時代は部活や将来への備えの時となり、その後夫々良い師友に恵まれ、信仰に導かれ、志した学びの場を開かれ、今の所で囲の方たちと共に夫々の業に励んでいることは有難い限りである。(長男は長野県立こども病院医師、長女は北大大学教員、次男はクリニック医師、次女は診療所医師)。夫は教師定年を前に聖書をより深く学びたいとの若い時からの念願を許され東京神学大学に学ぶことを許された。卒業後は北九州の日本キリスト教会折尾伝道所に貧しいながらも80歳まで仕え、昨年七月に辞して次女の居る福井県に居を移した。と間もなく思いがけず私の発病、入院、手術となり、辛くも危ういところから脱する事ができ、今に至っている。病床では、人の助け・世話を受けなければ生きていけない者、他に何の益をも与える事もできない存在になってしまった。今さら敢えて存在する意味があるのであろうか、ないではないか、と思った。それでも尚、生きよ、と言われている。思わず「何のために?」と問う。「天父の御業が現れるため」と答え給う。「一体こんな身でどのようにして?」と問えばそこはもう天父のなされる領域、私共の与り得ないところである。黙してお随いするのみ。真に感謝なことである。かくしてリハビリの散歩位しかできない者が今日もゴソゴソと生きている。電話でしゃべることも鉛筆を持ち上げることもしんどく思っていた者が有難いことに今やこうして四苦八苦しながらも一文をしたためることができるまでになった。親しくしていただき、御恩を受けた方々とまたいつか相まみえる時の与えられんことを望みつつ感謝の中にペンを置く。(家庭集会)