私の77年の歩み 下山田誠子
日本の傀儡国家「満州国」の首都、新京に生を享けて、今日、北アルプスを眺める松本での暮らしは、12年目に入りました。新家庭を茨城県高萩市でスタートしてから13回の引っ越し、ここが終の棲家であって欲しいと思っています。敗戦後の混乱で父と別れ、母とみどり子の妹と三人、逃げまどい、難民となって、平壌に収容され、GHQの輸送船で内地に帰国、妹は小さな塊のようになって生命を終えました。強度の栄養失調ながらも、父の郷里の田舎には食物もあって、何とか生命を取りとめた私も小学校に入学しましたが、半分ぐらいはお休み、という虚弱児でした。担任の上原千代先生は師範学校を出て初めて担任でした。このクリスチャンの先生に三年生まで担任していただきました。授業参観に行った祖母(母の実権はほとんどなかった)は、民主主義とはこういうものか、と驚いて帰りました。
子どもを叱るということのなかったこの先生と、晩年再会し共助会でご一緒することになったとは! 何という偶然でしょうか。昨日、お見舞いに伺い、讃美歌を三つ歌って感謝しました。91才になられて、召されるのはもう恐くないとおっしゃいました。天国の讃美歌を歌ったのです。手作りの熊のお人形とお庭の柿をお土産にくださいました。
万国福音教会という単立のこの教会に、私の叔父(母の弟)も所属していことが後でわかりました。引き揚げ者で弱い子ど
もの私に、いつも励ましの手紙や聖書の御言葉を送ってくれ叔父でした。意味はほとんどわからなかったけれど、きっと大切な言葉だろうと心にしまっていました。この叔父も祖父の弟のおじから福音を聞いてクリスチャンになった由。征矢野晃雄は、その一家と共に長らく信濃町教会に連なっています。大勢の兄弟、親族の中で、このようにジグザグに福音が伝えられたことを「肉にもよる」と不思議な計らいを覚えます。
小学生の頃の楽しみは日曜学校でした。お宮の吹きさらしの舞台でクリスマスをしました。模造紙に大きく書かれた聖歌を何回も何回も歌いました。「くろがねの扉うち砕きて……とりこを放つと主は来ませり♪」。先生は頬を紅にして、「すばらしいですね。嬉しいですね。」、きっとすばらしいことなのだと私も思ったのです。
長じてドイツから帰られた高橋三郎先生に出会い、キリスト教の福音とは、こんなにも厳しくむつかしいものかと思いました。三泊の聖書講習会で創世記を学びました。帰ってすぐ先生から結婚のお話がありました。参加名簿に名前があるもののどんな人か思い出せず、保留にしてぐずぐずしていると、集会の先輩から「信仰的に決断すべし」ときびしいお手紙。父は「ヤソには嫁にやらぬ」というので決断できかねて集会の尊敬するお姉様に「恋愛結婚したかったの」と相談したら「結婚してから恋愛したらよいのよ」とのお勧め、そんなものか、と思って決心しました。踏みきったものの現実はそんなものではありませんでした。夫の就職も決まり、子どもにも恵まれました。天に帰られたそのお姉様はきっと「作戦成功……」と笑っていらっしゃるでしょう。幼く未熟なスタートでした。しかし、この家庭に次男の事故という激震が走り、打ちのめされた時がありました。「御心ならば、一羽の雀とても地に落ちず」と、励まし支えていただきましたがついに次男は助かりませんでした。今もあの時の22歳の若さのままです。
家族五人そろっていた頃、夫は文部省の研究員としてスイス・チューリッヒ大学に留学しました。一人分の費用を頂きましたが、学齢期の子ども三人を連れて行きましたので貧乏の極致でしたが、元気と意欲だけはいっぱいでした。しかし、夫は腰を痛め手術となり、スイスは世界一医療費が高いといわれていたので途方にくれました。日本から教育委員会の視察団を案内する羽目になり、しぶしぶ出かけた結果で、お土産にもらったお茶漬け海苔を見るたびに苦々しい思いが甦ります。退院してきたらポストに日本語で「ご用のために」と、二千スイスフラン(当時の日本円で30万円ほど)の封筒が入っていました。いったい、何方? と驚き、詮索ばかりをして分からずじまい。最後に、神様に感謝しました。
スイスで出会ったベーラー先生のことも、私の人生に忘れられないことです。中国で、1949年の解放をはさむ10年間を奥地で伝道された方です。中国語の分厚い聖書を初めて見たのです。目の青い若い宣教師が混乱の奥地でどのようなご苦労をされたのであろうか。先生は「祈っています」とおっしゃり苦労のことは話されませんでした。衝撃を受けた私は、日本に帰ったら中国語を学ぼうと思いました。辞書を買ったものの、独学は困難で、結局、学士入学して中国文学を学びました。近代化の苦しみ、日本の侵略の苦しみの中で作品を書き続けた魯迅や巴金(パキン)を、心を熱くして読みました。しかし心のどこかで、これは自己満足にすぎないのではないか、といつも感じていました。修士コースが終わるころ、NCCから、日本語教師として中国に、とお話があり、進学を断念してお受けしました。(妻を外に出さなかった夫が、2年間ということで許可してくれたことは本当に幸いなことでした。)
赴任先は、直前まで知らされず、語学研修が終わって示されたのは、何とベーラー先生が働かれた江コウセイ西省でした。主のご計画だとの思いを強くしました。省都、南ナン昌チャンは大都市で、そこの医科大学の医師のクラスと看護師のクラスに日本語を教えました。貧しい時代でしたが、学生たちは目を輝かせて、素朴に、希望に溢れていました。先進国・日本で近代医学を学びたい、そして、新中国に貢献するのだ、と語り、日本を責める言葉をりませんでしたが、私は、胸が疼く思いを度々しました。今日の大きく変貌した中国を思うとき、若者らしい純な希望を持ち続けたと頭が下がります。
この原稿を書いている今日、夫は肺炎を再発し、6日から入院中で、毎日、病院を訪れておりますが、本日22日病院の看護師さんにコロナ発生、面会禁止との連絡があり、で、痰の吸引に涙を流し苦しむ病床の夫に平安あれ、と祈るばかり……。こんな時にこの原稿を書きました。(10月記)(松本共助会世話人 松本集会)