イエスとサマリアの女 和田健彦
ヨハネによる福音書4章1~42節
改定され読みやすくなった森 明著作集に載っている「イエスとサマリアの女」の話を読んだ。この短い話は知ってはいたが、いくつか現実離れしたところが感じられて、深い意味があると思いながらもそのままに
していた。それでも旅行したことはないサマリア地方や、ヤコブの井戸、異教の神殿があるというゲリジム山、ふもとの村など、当地の風景を勝手に想像していた。読み直す中で、対話の力と、礼拝について考えさせられた。
話は、イエスがガリラヤに向かう旅の途中、疲れて井戸端で女に水を所望するところから対話が始まる。女はイエスの語りかけに対し、反抗的で不真面目であった。しかしイエスは女に深く同情しつつも、鋭く観察し、満たされない悩み、絶望している様をよく把握していた。イエスとの対話によって女は、自分でも気づかずにいる心の闇に気づかされていく。
亡国の民として異教の宗教風習に染められていたのであろう女は「私たちが礼拝するのは、あのゲリジムという山の神殿か、それともエルサレムか」と問う。これに対しイエスは、真の礼拝は場所によってではないことを語り、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4章24節)と答えられた。そして神はこのように礼拝する者を求めておられることを述べた。おそらくこの言葉によって、女の心の深い闇に光が差し込み、イエスが救い主であることを信じるようになったと思う。
新型コロナウイルス感染が世界中に広がり、あらゆる場でおびえながら生活をしている。毎週教会に型どおりに通っているが、一時、礼拝を中止したり、二度に分けたり、月半分は礼拝に出ないように心掛けたりして密を避ける工夫をしている。この状況は当分収まりそうもない。そうした困難な状況の中でこの物語は、捧げるべき礼拝の姿を示しているように思う。
(日本基督教団 鶴川北教会員)