出会いの証人として 牧野信次

福田佳也著『横糸のわざ―信仰と社会のはざまで』

本書は昨年1月27日に非売品として発行され、私もご挨拶と共に寄贈頂き有難いことでした。佳よし也や 氏は『共助』誌前号(11月発行)に「私の歩み―共助会と私」と題して社会人として誠実に教会生活を守り、また共助会との関わりをとても大切にされてきたことを簡潔にお書きになっています。本来ならば私がもっと早く本書をご紹介すべきだったことをお詫びせねばなりません。

本書の「あとがき」に「キリスト者には縦糸としての生と横糸としての生とがある」との小川治郎牧師夫妻の示唆によって、「自分も一キリスト者としてのまた一市民としての『横糸のわざ』を書いてみたいと筆を執りました。縦糸は私にとって礼拝を中心とした教会生活、横糸はそれに伴う社会生活です。この生活でなければ、縦糸の生活は成り立ちません。職業生活、家庭生活など教会生活以外の全てです。横糸のわざは私のこの世での生活そのものです」と、本書執筆の意図が的確に書かれ、それぞれの場所での多くの方々との出会いが喜びと感謝をもって描かれ、その豊かさに驚かざるを得ません。父上が信濃町教会の第二代牧師の福田正俊先生で、生まれ乍らの「牧師の子」として育てられた著者の思いや人知れぬご苦労を想像するだけで「大変だったろうなー」と心を寄せざるを得ません。私事になって恐縮ですが、私は佳也氏より一ヶ月後生まれの同世代、同じく都市銀行に勤務して3年後に退職し神学教育を受けた後牧師になりました。また義母が信濃町教会の第二世代で、高倉徹、秋山憲兄氏方と一緒に1934年4月1日イースターに信仰告白及び受洗し(その二日後に高倉徳太郎牧師が召天された)、正俊先生及び千恵子夫人にはとりわけお世話になり、その著作集が101歳で亡くなるまで身近に置いてありました。『あかいほっぺ―友紀子の想い出』(1978年、福田佳也)や『主のはしためとして―回想の母福田千恵子』(1998年、福田啓三)も義母が遺した書籍にあり、私はこの度読んで率直に深い福音の慰めを受けることができ、佳也氏とそのご家族、ご親族に敬愛の念を改めて覚えています。

「目次」の「Ⅰ私の幼年時代」の初めに「誕生日と名前の由来」があり、珍しい「佳也」という名前が旧約聖書の「ヨシュア記」から取られ、父の晩年に尋ねたら「そうだよ、想像通りだよ。聖書にあるモーセの後継者で(私は次男)重厚、かつ人間味のある人間、そしてゴツゴツしていない、日本語として美しい字を考え、佳也とした」と話されたとのこと。老いた父と子の寛いだ対話の呼吸が伝わってきます。「父と母とのこと」で正俊先生が郷里の高知教会で旧制中学時代(15歳)に多田 素しらし牧師から受洗し、慶応義塾大学経済学部に入学。高橋誠一郎、小泉信三、堀江帰一など優れた教授に学び、良き感化を受け「父はなかでも小泉信三の人格とその気品のある文章を尊敬し、若き日に影響を受けた一人だと言ってよいと思います。書斎には小泉信三の写真が書棚に置かれていました」とあります。

私もかつて高橋 誠一郎名誉教授の「経済学史」の講義を聴き、小泉信三の謦咳(けいがい)に接したことがありますので、戦前の良き時代を想像できます。また戸山教会から信濃町教会へ移行して、高倉徳太郎の急死によって二代目の困難な牧師職を負わねばならなかったこと、さらに一歳半の末弟正隆さんの夭ようせつ折、戦時期の事情が実に簡潔に描かれています。私には特に「空襲と疎開」が同時代を生き抜いた者として同感を持って読むことができ、「私は『戦中派』と戦後生まれの『戦後派』との中間に属する世代です。空襲を体験しており戦後までの一年半に四度も転校を強いられ、私なりに戦争に翻ほんろう弄されたと思っております。それでも無事に終戦を迎えることができたのはなによりの幸いでした」には心から共感します。私は終戦の二週間前に故郷の富山市で空襲を経験し、城下町や我が家が一瞬にして焼失し、火炎をかいくぐって生き延びたのです。戦後薬がない中で、3歳の幼い妹が病死し、9歳の私は死をより考えるようになりました。

「目次」の「Ⅱ小川治郎牧師の時代」から「Ⅲ北白川教会の時代」を挟はさんで、「Ⅳ北島敏之牧師の時代」「Ⅴ平野克己牧師の時代」と総て都下世田谷区の代田教会での教会生活に基づいて、佳也氏が父の勧めもあって中・高・大と一貫して明治学院に学び、戦後の教会学校は小学生時代に信濃町教会から代田教会に移り、三代に亘る敬する牧師方と共に役員として教会を支え続けたことが活き活きと描写されています。大塚金之助、隅谷三喜男両先生との、また奥田成孝牧師や代田教会牧師方や銀行での多くの友人方との心温まる出会いを証人として書いて下さいました。私には特に「友紀子の手術と死」は涙なしに読めませんでした。心から御礼申します。(日本基督教団 隠退牧師)