真摯さの場所 片柳榮一
【説教 2021年度 夏期信仰修養会 [前期] 開会礼拝】
イザヤ書40章27節 ―31節
「若者も倦み、疲れ、勇士も躓き倒れ」(イザヤ書40:30)とありますが、自分の若いころの歩みを振り返ってみると、ある何とも言えない、倦み疲れに陥っていたという気がします。その当時自分が何に藻掻いていたのかを、その頃非常に感銘をもって読んだ二つの小説のエピソードから探ってみたいと思います。
一つはロシアの作家ドストエフスキーの短編で『永遠の夫』です。話はヴェリチャーニノフという40歳間近の、いわば遺産で生活しうる高等遊民のような男をめぐって首都ぺテルスブルグで展開します。彼は偶然、9年前地方都市に住んでいた頃の旧知の男トルソーツキーに出会います。すっかり落ちぶれて見分けがつきません。彼の帽子の喪章から、その愛する夫人が亡くなったことを知ります。そして9歳になる娘リーザを連れて首都まででてきたというのです。ところでヴェリチャーニノフはこの男に知られないようにその当時、この夫人と密会不倫関係にあったのです。ヴェリチャーニノフはこの男について述べます。「T市からきたこの男ときたら、二十年間、全然それときづかずに、自分の細君の恋人にほれ込むぐらいだから、お人よしで人格者もいいところ、度がすぎている。奴は俺を9年間も尊敬し、俺の思い出を大事にし、俺のモットーまで覚えていたんだからなあ」(『永遠の夫』千種堅訳 新潮文庫283頁)。ヴェリチャーニノフの愛人であった夫人が亡くなったのは結核が原因でした。気落ちしながら身の回りのものを整理していると、夫人が大切にしていた黒檀の小箱がでてきました。それを開けてみると、夫人が大事にしていた手紙類が出てきました。そこにはヴェリチャーニノフが去ったあと親しくしていた若い将校の手紙などもありましたが、決定的なものは、ヴェリチャーニノフへ宛てた(書かれたが出されずじまいに終わった)一通の手紙でした。その手紙の中で、彼女はヴェリチャーニノフに永遠の別れを告げ、ほかの男を愛していると告白しながら、それでも彼の子供を妊娠していることを隠していません。ということはこの男トルソーツキーが一緒に連れてきている娘リーザはヴェリチャーニノフの子供であったことになります。「ヴェリチャーニノフは読んでいくうちに青くなったが、同時にトルソーツキーが手紙を見つけ、青貝の象嵌細工が入った祖先伝来の黒檀の小箱を開いた前で、初めて読んでいるところを想像してみた。『やっぱり死人のように青くなったんだろうな、きっと』ふと鏡に映った自分の顔を見て考えた。『きっと読んでから目を閉じ、そして、あるいはこの手紙がただの白紙に変わってくれるのではないかと期待して、突然、また目を開いたにちがいない……きっと、三度ぐらいは、そんな試みを繰り返したのではないか』」(同書294頁)。こ事実を知って以来彼はいわば、ならず者の酔っぱらいのようになってしまったのです。そして自分が目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた娘にも、辛く当たるようになり、その娘を死に追いやってしまうまでに、自分を滅茶苦茶にしてしまったのです。そして自分を裏切ったこの都会人と決着をつけるべく、はるばるペテルスブルグに出てきたのです。そしてその挙句の果ては、ヴェリチャーニノフに刃物を振りかざすまでに至ります。私にはこのトルソーツキーの凄惨な自己解体、自己毀損の物語が他人ごととは思えませんでした。
もう一つの物語は、フランスの作家アンドレ・ジイドの『贋金づくり』に出てくる一つのエピソードです。このエピソードについては、もう三十年ほど前に共助会の修養会で、前の大嘗祭に関連して、別の文脈で紹介したことがあります。この小説では脇役でしかないリリアンが少女時代に経験した話です。ここでブルゴーニュ号の遭難と言われているのは、現実の遭難事故で、あの〝タイタニック号〟の遭難(1912年)とは別で、1898年にやはり大西洋航路で起こり、500人程の犠牲者を出したとのことです。リリアンは奔放で、いわば「ふしだら」な〝高級娼婦〟のような生活をしていますが、どうして自分がそのような生活をするようになったかの機縁を語る話です。引用します。
「ブルゴーニュ号が難船したとき、あたしあの船に乗り合わせていたの。ちょうど十七の年だったっけ。で、つまり今年いくつになるか分るでしょう。あたし、とても泳ぎが上手だったの。あたし、そんな不人情な女でない証拠には、先ず第一に自分が助かろうと思ったにしても、その次には誰か助けてやらなくてはと考えたの。しかも、この方を先に考えたのかもしれないのよ。というより、実は何も考えてはいなかったらしいの。……ところが、船の扱い方が下手だったので、ボートは平らに水に落ちるかわりに、鼻を突いてのめってしまい、水びたしになる前に、中の人たちをすっかりこぼしてしまったの。……その有様を松明や、信号灯や探照灯が照らし出していたっていうわけ。その物凄さったら、とてもあなたの想像以上よ。浪はかなり高かった。で、光の中に入らなかったものは、山のような波のうねりの向こうがわ、闇の中に隠れてしまった。あんな張り切った気持ちでいたことなんか、あたしは生まれて初めてだったわ。でも、あたし、水に飛び込むニューファウンドランド(註:救助犬)ほどにも、まったく考えていなかったらしいの。どうしてだったか、あたし自身にも分からなかった。あたし、そのボートの中に、五つか六つの、それは可愛い女の子のいるのに気がついたの。そして、ボートがぐらりとなったとき、その女の子を助けようと決心したの。……あたしはあたしで、機械的に着物を脱いでいたらしいの。次のボートに乗るようにって、誰かが叫んでくれていたっけ。で、乗るには乗ったらしいんだけれど、そのボートから、海に飛び込んでいたらしいのね。覚えているのは、かなり長いあいだ、頸に子供をつかまらせて、泳いでいたっていうだけ。子供はすっかりおびえちまって、あんまり咽喉を締めつけるんで、あやうく息がつまりそう。いいあんばいに、ボートの人たちが見つけて呉れてね。待っててくれるか、漕ぎ寄せてくれでもしたんでしょうよ。でも、あたし、そんなことのために、これからお話をするんじゃないのよ。あたしには、いまもありありと残っている一つの思い出、たといどんなことがあろうと、頭からも心からも消すことが出来ないだろうと思われる思い出があるの。そのボートには、あたしと同様、必死になっておよいでいて救い上げられた人たちを加えて、かれこれ四十人ばかりの人たちがひしめき合っていたの。水は、もう舷すれすれのところまでついて来ている。あたしは、舟のうしろの方にいて、助け上げた子供をしっかり抱きしめていたの……暖めてやろうと思ってね。それと同時に、あたし自身いやでも見ずにはいられなかったことを子供だけには見せたくないと思ったの。二人の水夫が、一人は斧、一人は割烹用の包丁を手にして、一体何をしていたとお思いになって? ……綱をたどってボートに上って来ようとしている人たちの指や手首を、ずばりずばりと切って落としていたんだわ。水夫の一人は……寒さと恐怖で歯の根も合わないあたしの方を振り向きながら、こんなことを言ったっけ。「これ以上一人だって上らせて御覧なさい。あっしたちみんなお陀仏でさあ。舟はこれだけで一杯なんだから」。その男は、それに続いて、こんなことも言ったのよ。難船の時には、嫌でもこうしたことをしなければならない、だが、当然誰にも内緒にしているんだって。それからあたし、気絶しちまったらしいのよ。何も覚えていないんですもの。……そして、収容されたX号の甲板でふっと我に返ったとき、こうしたことが分かったのよ。つまり自分は、もう前のような感傷的な小娘ではなくなっちまった、そして、これからはもう絶対に、あんな小娘にはなれなくなってしまったって。このあたしには分かったの、あたしの一部は、あのブルゴーニュ号と一緒に沈んでしまって、これからは、おしとやかな感情なんかが心の上に上って来て、心を沈めてしまわない前に、その指や手首を切り落としてやらなければならないって」(アンドレ・ジイド『贋金つくり』山内義雄訳、新潮社[全集七]1956年68―70頁)
この思い出は、リリアンにとっては、心の内から決して消すことのできないものであるといいます。何故ならそれがもとで、彼女の現在の〝ふしだらな生活〟があるからです。それまでのセンチメンタルな若い少女は、あの難破船と沈んでしまったと言います。彼女自身が難破、倫理的に難破してしまったのです。彼女は、小さな女の子を助けようとして荒海に飛び込むような、勇敢で行動的な女性、ヒューマンな心をもった女性でした。彼女を難破させてしまったのは、水夫の行為に示された現実でした。これ以上ボートに人を救い上げたら、ボート全体が沈んでしまう、そうしないためには、必死でボートにしがみつく人々の手や指を、情け容赦もなく、切り落とさざるをえないという現実でした。この斧の前では、人助けに高揚していた彼女は気絶せざるをえなかったのです。自分を支えていた「隣人愛」を実行するヒュマンで善良な自分というイメージは無残に打ち壊されざるをえなかったのです。今の彼女の心を表しているのは、最後の言葉です。これまでのヒューマンな感情が沸き上ろうとすると、彼女は自らの「おしとやかな感情sentimentsdélicats」の手を、この認識の斧で切り落としているのです。彼女は善良な人間であろうとする自らの「心」を、感傷的な偽善として切り落とそうとするのです。彼女の現在の自堕落な生活は、まさにこの自らの手を切る自虐です。
この二つの物語の二人の主人公に共通するのは、通常の社会的道徳的生活からの逸脱です。これまでのように真面目で善良な『永遠の夫』にはなれず、自らのヒューマンな態度をセンチメンタルなナルシズムであり、甘えとして切り捨てようとします。自らの真摯さへの不信であり、自己嫌悪です。
人は成長の過程において、自分を育てた世界、価値観では測れない世界に出会います。そして時にこの世界に激しくぶつかり、衝突して、自分の世界が壊されてしまうことがあります。その崩壊の過程で、この嘗ての世界における自分の在り方が見えてきて、しかもその自分が自分にうっとり満足しているとすればそうした自分にたまらない嫌悪感を抱かざるをえなくなります。そのような自分に嫌悪し、そのような自分を壊そうとし、自己破壊、自己損傷が始まります。
如何にしてこの泥沼から抜け出しうるのでしょうか。その様な意味で、真に真剣になれる場所、「真摯さの場所」は何處にあるのでしょうか。あの主人公たちは、自分なりの真面目さにたまらない嫌悪感を覚えています。そうしたところで自分に見とれていた自分に耐えられなくなっているのです。この自己解体の試みは、そうした自分が自分に満足している「自分の世界」から抜け出そうとの試みである限り、肯定されるべきものがあります。私たちは、この自分が自分に見入って満足している世界を打ち破られねばならないのです。しかしそれは自分によってだけではできません。やはり何らかの意味で、自分でない他なる者の世界に出会うことがなければ、この脱出はできません。しかしこの他なるものが、単に「他人の眼」であっても、脱出できません。これはいつも「世間」に滑り落ちてしまいます。そのような他者によっては、自分を失って「世間体」だけで生きる人間になってしまいます。自分が打ち破られながら、自堕落になるのでもなく、世間体に生きる自己喪失の人間でもない、「真摯さの成り立つ場」はどこにあるのでしょうか。私自身長い藻掻きのなかから、この真摯さが真に成り立つ場を求めてきたように思います。
単なる自己陶酔としての真面目さでなく、またその反動としての自虐やしけでもなく、真摯さが問題になるのは、自分が中心に立って、他に問いかけるというのでなく、自らが問われている立場、しかもその問いが逃れがたい力を持って問いかけてくる時です。実は生きるということはこのような問いかけの連続であるとも言えます。ただ自分がこの問いかけに気づいていないだけとも言えます。事物も人も出来事も直接、問いかけることはほとんどありません。しかし時に、ある事柄、出来事に自分が一つの反応、行為をしなければならないと感じることがあります。この出来事、出会いは、自分への呼びかけであり、自分への語り掛けであると感じることがあります。
聖書はそのような問いかけに満ちています。その代表的なものは、フィリポ・カイザリヤで主が「それでは、あなたがたはわたしを誰と言うか」と問いかえしたところです(マルコ8:29口語訳)。ペテロは「あなたこそキリストです」と正しい答えをしますが、ペテロが何を告白したのか、彼自身分かっていなかったことはすぐ暴露され、主イエスから、「サタンよ、引きさがれ」と叱責されます。ペテロは生涯、イエスの問いかけに新たに答えねばならなかったことを知ったとおもいます。私たちも、気づかず見過ごした問いかけに後から、繰り返し答えることを強いられているのかもしれません。
私たちの今度の修養会の主題は『キリストに従う―コロナ禍の中、先達の歩みを覚え、友の祈りに支えられながら』です。キリストに従う、ということはキリストの呼びかけ、キリストの問いかけが私の生の中で、ある「真剣さ」を持って迫ってくることがなければ起こりえません。この呼びかけに対して、真摯に応えることを、私の重要事として真摯に受け止めることが起こらねばなりません。私たちはそのような「真摯さの場」を自らのうちに整えねばならないし、そのことができるように祈らねばならないのでしょう。この応答の場としてのフィリポ・カイザリヤは、あらゆる既成の道徳、理想の騒音も、甘えたナルシズムの声も聞こえない、その意味で人里離れた、静けさの場所であり、ここで主は私たちに「それではあなたがたはわたしを誰というか」と問いかけています。私たちはこの問いかけに、自らの生を賭けて応えることを求められています。
私は基督教共助会に属し、ここで様々な人々に出会う幸いをえてきました。そしてその歴史をたどりながら、この会は、少なくとも、今述べてきた「真摯さの場所」を求め、神と主キリストにおいて、その場を見出し、その見えない中心に照準を定めて生きた人々の群れにより担われてきたことを教えられます。「キリストの外、自由、独立」ということ、また「主に在る友情」ということも、真摯さがそこで真に問われ、成り立つ場を指示していると思います。そのようなところからもう一度考えていきたいと思っています。 (日本基督教団 北白川教会員)