神は私たちと共におられる 下村 喜八

今までに体験したことのないクリスマスを迎えています。このような時だからこそ共に集うことの重要さを思う一方で、キリストの名による集いが感染の場になるようなことは決してあってはならないと思います。そのようなジレンマのなかで私たちは忍耐を強いられています。

クリスマスが近づくといつも二つのことを思い出します。クリスマスの音楽とラインホルト・シュナイダーの「聖夜のなかにすでに聖金曜日が含まれている」という言葉です。

私は幼少のころ病弱でした。二学期の授業が終わると毎年のように体調を崩して床についていました。そして、苦しみと侘しさを紛らわすために一日中ラジオをつけたままにし、そこから流れてくるクリスマス音楽をただぼんやりと聞いていました。この体験のせいか、讃美歌の中でも特にクリスマスの讃美歌は心にしみてきます。また、今から振り返ると、私がキリスト教に抵抗感なく近づくことができたのも、病床で聞いたクリスマス音楽のおかげかもしれません。そのような意味で、病床の体験は私にとって貴重であったと言えます。それゆえにまた、降誕節の喜びが情緒的なものにならないように自戒したいと思います。

シュナイダーは最晩年の冬、3か月ほどヴィーンに滞在します。降誕節に、画家のハンス・フロニウスから彼の元に一枚のグラフィックが届けられました。それは死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの画でした(このモチーフは13 世紀ごろに一般化したもので、聖書を典拠にするものではありません)。それを目にして次のように書いています。「ピエタである。死の闇に横たわる息子を嘆く、慰めのない嘆き。(……)この時代状況のなかで神の像はますます深く死の闇のなかへと消えてゆく。あたりを取り巻く無慈悲な岸壁の間で母の嘆きは孤絶する。しかし他のどこに希望があるだろうか。(……)打ち負かされることのない母と子の二つの姿である。したがってクリスマスにはピエタである。ここで神が人となることは完成する。被造物のなかへの、この世の闇のなかへの神の究極の歩み」。さらに彼はつづけて、主の生誕を祝うクリスマスの意味は、その死によって充足する。そういう意味で、キリストの受難日である聖金曜日はすでに聖夜のなかに含まれている、と語ります。彼は、持病の腸閉塞が悪化し、自分がもはや何をしているのか分からないほどの痛みと闘いながら、震える手で殴り書きのようにこの文章を書きました。そのため表現に粗いところ、意味のつかみにくいところがあります。謎めいていますが含蓄のある言葉です。この言葉を手がかりにクリスマスについて考えたいと思います。

クリスマスは救い主イエス・キリストの誕生を祝する日ですが、例年ですと、巷ではキリスト不在のきらびやかなクリスマスでにぎわいます。キリスト者である私たちにおいても、イエスの誕生だけを切り離して祝い楽しむ傾向がないとは言いきれません。「聖夜のなかにすでに聖金曜日が含まれている」「クリスマスにはピエタ」という表現は、生誕だけを切り離すのではなく、十字架の死に至るまでのイエスの生涯全体を想起するなかで、その生誕を祝う必要を訴えているのだと思われます。フィリピ書2章6節から8節にキリストの受肉について語られています。シュナイダーはそれを踏まえて、キリストは神でありながら人間の姿をとり、人間およびすべての被造物のなかに、すなわちこの世の闇のなかに入って来られ、その歩みの究極の場所が十字架であったと考えています。「主の生誕を祝うクリスマスの意味は、その死によって充足する」と。

ところで、「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」の生誕物語には、十字架の死が暗示されているところが数か所あります。イエスがお生まれになったとき、東方の占星術の学者たちがエルサレムにやってきますが、彼らはイエスのことを「ユダヤ人の王」(マタ2:2)と呼んでいます。そしてイエスが十字架につけられたとき、その頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられます(マタ27:37)。また学者たちはひれ伏して幼子イエスを拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます(マタ2:11)。黄金は王に、乳香は祭司に献げられるべきもの、そして没薬は死者のためのものです。

イエスの遺体はユダヤの習慣に従って亜麻布に包み、没薬を添えて葬られました。さらに小友 聡氏は、幼な子イエスが布にまかれて飼い葉桶に寝かされていることに注目し、「主イエスの遺体が亜麻布でまかれて、墓に納められたことを先取りした表現ではないでしょうか」と述べておられます(『共助』2014年第8号)。示唆に富む解釈だと思われます。ルカ福音書によれば、両親が幼児イエスを主に献げるためエルサレム神殿に連れて行ったとき、老シメオンは、母親のマリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:35)と語っています。これはピエタ像のモティーフにつながるとも考えることができます。ともあれ、イエスの誕生物語には祝福の響きと同時に、貧しさ、悲惨さ、孤独が通奏低音として流れています。シュナイダーはピエタ像にことよせて、「母の懐に抱かれた死体のなかで、幼児キリストの無力と無防備さが繰り返されている」と語ります。

なぜ世の救い主がこのような受難の生涯を送らなければならなかったのでしょうか。彼は神の聖と愛を体現する方、いわばその代行者として人間のもとに、この世の闇のなかに来られました。インマヌエルすなわち「私たちと共におられる神」として。そして神の愛は苦しむものと共に苦しむ愛です。イエスは自分が来たのは、健康な人、強い人、権力のある人、自分を正しいとする人のためではなく、病める人、弱い人、重荷を負う人、罪に苦しむ人々のためであると言われました。イエスは「人々のなかで神の愛を生きること以外は何もなさらなかった正しい人」(ブルンナー)です。しかしそのことが、この世の罪を暴くことになりました。「多くの人の心にある思いがあらわにされました」(ルカ2:35)。それゆえに、権力のある人間、自分を正しいとする人間に殺されなければなりませんでした。

イエスは人間の罪の業の犠牲として十字架の死を遂げられました。しかしそれは、ゲッセマネの園での祈りからも分かるように、神の御心に従った行為でもありました。イエス・キリストは私たちの罪の贖いのために、私たちの受けるべき罰を代わりに受けてくださったことにより、私たちは罪を赦され、義とされ、自由とされ、新しい命に生かされています。さらにイエスは十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」(マルコ15:34)と叫ばれました。この瞬間、イエスは自分が神によって棄てられたと感じられました。地獄を「神のおられないところ」と定義しますと、イエスは地獄に落ちられたことになります。しかもなぜこのような仕打ちを受けなければならないのか、その理由も意味も示されることはありませんでした。ダンテの「神曲」では、地獄の門の入り口に「すべての望みを捨てよ」と書かれています。イエスは無意味と絶望の淵にまで沈まれました。

お生まれになったとき宿るところも与えられなかったイエスは、人々に棄てられ、弟子たちにも裏切られ、父なる神にも棄てられました。あらゆるものとの関係を絶たれ、孤独のうちに、いわば存在のゼロ地点まで入って行かれました。キリストは目に見える姿をとった神そのものですから、ここに私たちは、人間の最も暗い状況のなかにまで入られた神、へりくだる神、恥辱と弱さのなかに姿を現す神を認めます。「この究極の場所、啓示の最も暗い局面に謙虚にあずかること、それが信仰である」とシュナイダーは言います。なぜキリストはゼロ地点まで落ちられたのでしようか。それはゼロ地点にある者と一つになるためです。そこに沈んだ者の神喪失と苦悩とを己がものとし、それを担うためです。それはすなわち、すべてのものを再び結び合わせるためでした。神と人とを、人と人とを、そして人と他の被造物とを。それを聖書は「平和」と呼んでいます。結びつける帯は、へりくだる愛、仕える愛です。苦しむものと共に苦しむ愛です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。しかしその苦しみのなかにも絶対的な帰依があった」とシュナイダーは語ります。私どものために、愛する独り子さえも犠牲にする愛(その愛には独り子への愛も担保されているはずです)、棄てられるなかでも、なお父の愛を信じ抜く絶対的な帰依、この父と子の一つなる交わりのなかに入れられること、これが聖書のいうキリスト教の信仰です。

現代は、今さえ良ければ、自分さえ良ければ、金さえもうかればよいという時代です。人類が新型コロナウイルス感染に苦しんでいるなか、このような譬えは不謹慎かもしれませんが、現代社会は刹那性と快楽依存、エゴイズム、利潤追求というウイルスにも侵されています。さらに人間は神あるいは精神的基軸を喪失したため、善悪の尺度を失い、無価値と無意味と虚無のなかに捉えられています。ニヒリズムというウイルスが広く世界を蔽っています。これらのウイルスの恐ろしいところは、侵されていても無自覚である点です。私たちは時代の子どもですので、程度の差はあれ、キリスト者もこれらのウイルスに感染

している点で変わりはありません。そこに信仰の困難さがあります。神の存在感は希薄になり、「この時代状況のなかで神の像はますます深く死の闇のなかへと消えてゆく」感を深く覚えます。自分の不信仰を時代のせいにするのは責任逃れの感を免れませんが、やはり事実は事実として認めて自覚的に時代を生きる必要があると考えます。しかし、もう一つ恐るべきウイルスが存在します。罪というウイルスです。これは時代の違いを超えてグローバルに人類を侵しています。そしてこのウイルスが他のすべてのウイルスの発生源であると言えます。

罪とは何でしょうか。不誠実、自己愛、傲慢、神に背く心等、さまざまな言葉で説明されてきました。罪は究極的には定義不可能なものかもしれませんが、キリスト者においては、自己の内に絶えず罪との闘いがあって止むことがありません。信仰のなかにも、祈りのなかにも、感謝のなかにも侵入してきます。この原稿を書いている今も、さまざまな姿をとって顔をのぞかせます。

イエスは、ファリサイ派の人々が「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたとき、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして。あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタ22:37、39)という二つの掟をあげ、そこに律法全体が総括されうると語られました。この二つの掟を守りえないこと、それが罪の本質だと思われます。

「苦しむものと共に苦しむ神」は、完全に人間の状況のなかに入ってこられました。人間の罪のなかに、病のなかに、苦悩のなかに、さまざまなウイルスに侵されている人間のあらゆる状況のなかに。神喪失のなかに、絶望のなかに、そして地獄のなかにまで。そして、イザヤ書53章で預言されていたように、彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒されました。ここに神の愛があります。これがクリスマスのプレゼントです。このプレゼントを受け取る者のなかに新しい命、新しい創造が始まります。罪に侵された人間にも神を愛し、隣人を愛する可能性が開かれてきます。そして罪赦された者の群れ(エクレシア・教会・共助会)が生まれます。

主キリストは「私たちと共におられる神」として今もなお生きて働いておられます。それは、キリストの十字架上の苦しみは今も持続していることを意味しています。私たちの贖いも日々つづいています。ここに希望があります。そしてパウロが「わたしにとって、生きるとはキリストである」(フィリピ1:21)と言っていますように、私たちの人生はキリストを目的としています。時が満ちて、キリストが再び来られるときには、キリストを顔と顔を合わせて見ることができ、「はっきりと知られているようにはっきりと知ることになり」(Ⅰコリ13:12)私たちはキリストと全く同じ姿に変えられます。これは私たちの究極の希望です。そのとき罪との闘いも終わります。したがって私たちにとってクリスマスは、この再臨のキリストを待ち望む時でもあります。

マルティン・ルターの作った子供讃美歌のなかに、イエス様を「僕の心の部屋のうちに」お迎えするという言葉があります。また17世紀ドイツの神秘主義者A・シレージウスは「たとえキリストがベツレヘムに幾千回生まれようと、もしあなたの内に誕生されなければ、あなたは永遠に滅びてしまうであろう」と語っています。私たちも心の内に、大きな喜びをもってイエス・キリストをお迎えしたいと思います。しかし同時に、イエス・キリストの十字架は私の、私たちの罪の裁きでもあることを思うとき、安易にこの言葉を発することに躊躇を覚えます。喜びと共に畏れをもって、私たちの心の内に、私たちの交わりの内に主を迎えたいと思います。「その憐れみは代々限りなく、主を畏れる者に及びます」(ルカ1:50)。   (京都府立大学名誉教授)