随想

夏期修養会:感想

時代の中で、時代を超えて 江村 悠子

まず、この状況下において工夫を重ねて修養会開催まで運んでくださった、準備委員をはじめとする全ての方に心より感謝申し上げます。

日々、多くの業務に心を配り、共同体の構成員としての振る舞いに注意を向け続ける中で、「多くのことに思い悩み、心を乱して」(ルカ10:41)いました。そのような中で、久々に共助会の皆さんと共に過ごし、共に祈り、共に聴いた時間は、ただ一つの必要なこと(同42節)に心を向ける貴重な時間でした。その温かさ、静けさ、背筋の伸びるような厳しさがありながらも呼吸のしやすい空気は、片柳先生が開会礼拝で仰っていた「真摯さ」に近いものかもしれません。静まって聴く時間を持つこと、心を外に向けながらも一番大切なことを見失わずにいることを、日常の中でも少しずつ求めていきたいです。

今回学んだ具体的なことを一つ挙げれば、山本茂男氏が戦時中に「大東亜戦争は正義の戦争」と主張していたということは非常に考えさせられるものでした。当時において天皇の下にある「日本的キリスト教」を拒否して「正しいキリスト教」を真摯に追い求めた氏でさえ、戦争の愚かさを見抜いてはいなかったといえます。それでは私は自分の生きる時代において、どれだけ真摯に真実を見ようとしているだろうか、と問われました。時代の空気を吸いながらも、時代を超える神の前にひとり立つことを求めたいと思います。自分が神の目から見て必ず間違っていることを自覚しつつ。         

(アジア学院職員)

弱さについて K・T

テーマや講演についてではない感想をお許しください。

この夏は、泣いてばかりの夏になりそうです。修養会で私は自分の弱さを確かめました。祈祷会で思いがけず泣いてから、ただ、私はとても弱いということを、何度も確かめては涙が出ます。弱い私には、一緒に生きてくれる他者がどうしても必要であること。神さまがいて、そして片時も離れず私たちを守っていてほしいこと。この世の生命が終わってから、天国でまた会えるのでなくては嫌だということ。これらのことが修養会以来、心を占拠していて、勉強もできません。

一昨日祖母が亡くなりました。死んだら無だと言っていた祖母の予想に反して、祖母は天国へ行ったと思います。天国では幸せでいてほしいです。祖母の生涯はあまりに大変だったと、他人の人生をわかったように言ってはならないと思いつつも、そう思うからです。おばあちゃんの死に顔は一番きれいでした。天国のおばあちゃんが幸せでありますように。たくさんの優しい仲間に囲まれていますように。

長野からの帰路も私は泣いていました。弱い自分は素直で、頭でっかちないつもの自分よりいいと思いました。確かなのは、自分の弱さ、そして命は与えられるものであること。必要なのは、他者と、それから祈り。

信仰修養会で、皆さんとひとところに集えたから、また、皆さんの言葉と祈りを聞けたから、こんな夏になったのだと思います。ありがとうございます。

(基督教独立学園高等学校 女子寮舎監)

夏期信仰修養会 小野 淳子

新型コロナウイルス感染者が増加する中、東京都在住の私が小諸での修養会に参加することについて、感染(うつす・うつる)の心配がありました。しかし、これは自分に与えられたチャンスだと思い、感染に注意しながらも、主体的に参加しようと決意しました。出発前の抗原検査を手配してくださり、陰性の結果で安心して参加することができました。

片柳氏の開会礼拝「真摯さの場所」では神の前に立たされている人間、神の呼びかけに応えるというイメージを思い起こしました。角田氏の主題講演(証し)では、キリスト教学校で育てられ、事務職員として働いている私にとって、タイ研修プログラムなど学校での体験学習について親しみ深く共感を持って聞きました。三島氏の早天礼拝では、自分と向き合い、他者を愛しきれない自分のやぶれについて、真摯な告白を聞きました。小淵氏の山本茂男の歩みについて、森 明との出会いを通しての具体的なエピソードを聞き、人格から人格への受け継がれていくスピリットを感じました。朴氏の和田 正について、キリスト教との出会い、中国への宣教、韓国との和解と、何が和田をそのような行動に向かわせたのか、ということを考えさせられました。分団の話し合いでは、「『キリストに従う』とは自分にとってどういうことか」について、共に考え、自分の考えを深めることができました。

願いながらも参加できなかった方たちのことを思います。

1月のプログラムが無事開催できることを祈り願います。

準備委員会、参加されたみなさまへ感謝をこめて。

(日本基督教団 中渋谷教会員・恵泉女学園中学高校 事務職員)