静まって み言葉に聴く (2010年10/11月号) 青山章行
今夏の共助会修養会は、「み言葉に聴く」との姿勢が問われるものであった。まず静まって、旧新約聖書の学びの中からみ声を深く受け入れることが求められた。その後、夏の後半に佐久の聖書学舎でマルコ伝を学んだ。朝の祈り場での祈りと、傍らで古くから涌き出る清水の味は心に深く浸み入る体験であった。熱河伝道においては「祈りの山」でみ言葉に聴くことが朝毎の始まりであったという。沢崎堅造によれば、「曠野」とは元来「語る」という動詞から出ている。声のある所という意味である。改めて共助会は「静まって」み言葉に聴き入り、またそこから各自が「出て行く」べき処、そしてその先においては基督の他、自由独立であると思う。
九月五日朝に、NHKテレビの「心の時代・宗教の時間」で基督教独立学園のことが放映された。待てない時代にあって待つことの大切さを安積力也校長は語られた。この学園で神と人とにまともに向き合う経験を培い、巣立った卒業生達は、たとえ一時、世に後れることがあってもいずれ復原できるという。主のみ言葉に聴くという根が養われたからである。私共も自分の場にあって、静まって「み言葉に聴く」という姿勢に堅く立つとき、そこから各自一人一人出で行くことが出来ると、深く感じた。
共助会の理念は、伝道における「基督の他自由独立」と「主にある友情」の二本柱にあるといわれる。奥田成孝先生は伝道の姿勢につき、ある伝道者が息子に「たとい橋の下に墜ち果つとも、ゆめ神は愛なりということを疑うなかれ」と遺言して召された話をされた。また友情について、三松俊平著の「植村先生の思出」の記事を紹介された。台湾伝道の志を抱きながらも医者から再起不能の病と診断された青年を、植村は宅へ招いていたわりつつ「君、苦しいだろうが、も一度最後の働きをしたまへ。台湾に行きたまへ。台湾からも天国に行けますよ」と励まし送り出した。勇気凛然として台湾に帰還し、天に召された彼の青年の訃音を受け取ると、植村は蒲団を被って小半日も泣いていたという。
共助会は己を求める伝道団体ではないと私は考える。また友情は伝道の結実であると思う。私は自分を共助会の出城とは考えていない。まさに基督の他自由独立。ここから出て行き、友が骨を拾いにくることのできないほどの遠きところにあっても、み言葉に聴き従い一人歩むのみと考える。