巻頭言

解を求めず 工藤浩栄

四月から藤崎という町で牧師の仕事をしている。藤崎は平川を挟んで弘前市に隣接する静かな町である。また、古くから交易の拠点として栄えた商人の町であり、りんごの主力品種「ふじ」発祥の地でもある。名所と呼ばれるような場所に乏しく観光向けの町ではないが、季節ごとに移り変わる色彩に恵まれ、今なら青い空、赤いりんご、黄金色の稲穂、間もなく平川に白鳥が飛来し、やがて雪国に変わる。

この教会に赴任して半年が経過した。妻と二人、牧師館で寝起きし、私は藤崎から一時間の距離にある青森市に「出勤」する毎日である。というのも、私は「兼業」牧師である。平日不在の私の代わりに、妻が実質的に牧会を担っており、近所づきあいもうまくできている。諸般の事情から妻と二人で四年間、自宅で礼拝を守ってきたが、兼業可という教会の皆さんの画期的な決断に促され、この教会の一員となることが許された。

とはいえ、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6:24)の御言葉は、私にとって常に重い。招聘を受けてから赴任するまで半年近く余裕があり、その間、理想や希望を思い巡らせていた。しかしながら日々の雑事に追われ、これまた時間に追われるように藤崎にやって来た。そして、かつて思い巡らした希望を思い出す余裕もないまま、神と富とに仕える矛盾に日々葛藤している。

私が思い描いた事柄は何一つ実現していないが、人の思い通りにならないことには意味があると思っている。教会に係る事柄でも、私の兼業に係る事柄でも、解決しなければならない課題が山積しているが、最大公約数的な解を求めることは至難の業である。むしろ諸般の事情から、そもそも矛盾を抱える「兼業」牧師の招聘を決断された教会の皆さんと祈りを共にしたい。

万物を創造された神は、歴史に介入する方である。私たちは未来を見通す力を持っていない。御みこ 子の十字架の死と復活を予測できた人はいない。人は御子を十字架につけ、束の間の勝利に沸いたが、神は御子を復活させ、人の罪に勝利した。

神は十字架の矛盾を通して愛を啓示された。人が導き出した解は御子を抹殺することであったが、神は私たちに、想像もつかないような解を十字架の死と復活を通して示された。

私は解を求めない。矛盾する事柄に日々悩みながら、同じように悩み苦しむ人々と共に祈り、礼拝をささげたい。救い主は今私たちと共におられる。日本基督教団 藤崎教会牧師)