キリストの十字架による赦しの中に 飯島 信

「まことにこの人は神の子であった。」(マルコによる福音書 第15章39節。1954年改訳)

今から半世紀も昔、1971年が明けて間もなく、私の心の内には嵐が吹き荒れていた。特に教会の在り方をめぐって、牧師と私は激しくぶつかっていた。結果として、牧師が辞任するか私が教会を去るかの決断を迫られた時、母の胎に命が宿されて以来通い続けていた教会を、私は去った。4月のことであった。

8月、友に導かれて、共助会の夏期信仰修養会に参加した。讃美歌を歌う声の大きさ、アーメンと唱和する声の力強さに圧倒された。そして、友との週一度の学内聖研と、修養会での良き師との出会いの中で、翌1972年1月、私は教会に戻ることが出来た。この聖研における学びと祈り、修養会での師との出会いがなければ、今の私はない。共助会との出会いによって、私の傲(ごうまん)慢、自己義認、全ての問題はそこから生まれていたことを知らされる。

共助会との出会いは、皆それぞれかけがえのない背景を持つ。主イエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じ、復活を信じる信仰に立ちつつ、教会とはまた違う友たちとの交わりの豊かさに生かされている自分を覚える時、この小さき群れを与えてくださった神の憐れみを思う。事実として、近くは、誌上修養会で友が書き記した言葉の一つひとつ、また前号や前々号に記された友たちの記す文章の一つひとつに、このコロナ禍における試練に遭いつつも、私はどれだけの慰めと励ましを得たことか。この小さき群れが集う交わりの泉に湛えられている命に、私は、世に在っての共助会の使命を見出す。

暗闇の中で出発した共助会101年が過ぎ、102年を迎えた。共助会の明日に想いを寄せる。確かな世代交代の足音を、喜びと感謝をもって聞きつつ、継承すべきものがあるとすれば、それは己の身をもって表すものだと思う。さらにまた、同志的伝道団体としての私たちの群れに、この社会の責任を担う実業界を始めとした様々な分野から、主に在る友が与えられることをも切に祈る。「あたかも遺言のごとく」と小笠原亮一が記した奥田先生の言葉「本当の意味で、森 明が使ったような、主にあるとか、キリストにあると言うことが……(あなたがたには)生きてはいないし、わかってはいない」を噛みしめながら、心の深き淵を照らすキリストの十字架の光を仰ぎ見つつ、今日の一日(ひとひ)の時を刻みたい。(日本基督教団立川教会牧師)