良心の「君が代」不服従 加害の歴史を繰り返さない 佐藤美和子

2020年「公務員の処分量定を問う公開質問状」

この度、共助誌に投稿の機会をいただいて、東京・大阪の「君が代」不服従による被処分教員6人が呼びかけ人となって2020年に提出した「公務員の処分量定を問う公開質問状」に関わり、お伝えしたいと思います。

安倍政権の下で、元検事長の賭けマージャンという刑法違反に問われるべき行為が軽い「訓告」にとどまりました。「君が代」斉唱時の不起立不伴奏という教員の良心に基づく行為への重い「「懲戒」処分と比較して、公平公正を問う質問状を提出しました。

きっかけとなったのは「君が代」不起立で戒告処分を受けた一教員の「うちら教員が常習賭けマージャンをしたら訓告で済むのか?」というぼやきでした。「訓告」で済むはずがないという確信が呼びかけ人6人に共通しました。

その一人の元東京都特別支援学校教員・根津公子さんは、「君が代」不起立による処分で最も重い停職6か月を科せられ、次は免職も覚悟しなければなりませんでした。記者会見資料の中で、根津さんは次のように述べています。

子どもたちに「日の丸」「君が代」の意味や歴史は教えずに、「日の丸」に正対し「君が代」を斉唱せよと指示することは教育に反する行為であり、上命下服を教え込むことと私は考えます。「日の丸・君が代」を実施するならば学校は、「日の丸・君が代」の意味や歴史を、事実をもとに教えるべきで、その学びと思考の中から、子どもたちが起立する、しないを選択できるようにすべきです。私は教員として、教育に反する行為に加担することはできず、「君が代」起立を拒否したのです。政権を批判する者には重罪ともいえる懲戒処分を科し、政権に都合のいい者は刑法に触れる行為をしても処分ではない訓告で済ます。どう考えても公正・公平性が担保されていません。

6人の中で最も軽い「訓告」だった私は、同じ記者会見資料に書きました。

そもそも「訓告」は処分ではなく履歴も給与上も損害がありません。そのため撤回を求めることすらできません。けれども「訓告」を受けたリボンは、卒業式の朝突然に「日の丸」が掲揚されて動揺する子どもたちに、「決して強制はされない。皆の自由は憲法に保障されている」と授業で伝えた責任を果たそうとしたものでした。このリボンを着けてむしろ職務に専念できたと思います。どんなに損害が無くても「訓告」には当たらないはずです。また、牧師の父と祖父を持つキリスト者の私が、かつて天皇を神と讃えた「君が代」を弾かないこと、子どもたちにも選択の自由があると伝えることは私が私として生きるために決して譲れないことでした。自分として生きる良心と、子どもたちに対する教員の責任としてのリボンを他人が「訓告」すべきではありません。片や、誰の目にも軽すぎる前検事長の刑法に抵触する行為の「訓告」と同列同罪にすることに黙っていられず、質問状を呼びかけました。(略)前検事長は軽すぎる「訓告」に心の痛みを覚え、質問状提出先3者(註: 安倍元首相、小池都知事、吉村大阪府知事)には真摯な応答をするように切望します。

加害の歴史を繰り返さない

私以外の5人は年2回の卒入学式で「君が代」不起立を繰り返し、戒告、減給、停職の懲戒処分を受けました。5人と私の大きな違いは、私が軽い訓告止まりで懲戒処分を受けていないことでした。それは私が石原都政下で「君が代」を弾かない音楽教員を続けることを優先させて、斉唱時に立ってきたからです。

「君が代」不起立への処分に関しては、2012年最高裁判決で、減給以上は「重過ぎる」として取り消されましたが、根津公子さんのみ停職処分が取り消されませんでした。

その後、根津さんの2007年停職6か月は最高裁裁判官の全員一致で2016年に都の上告審棄却を決定。同様に2009年停職6か月は2021年に都の上告審棄却を決定し、根津さんの2度の停職6か月処分が長い時をかけて取り消されました(けれども2008年の停職6か月等、その他の処分は取り消されていません)。

その根津さんと私を土井敏邦監督がドキュメンタリー映画『私を生きる』で取り上げてくださり、上映会でご一緒しました。

※日に何度も市教委から「根津を指導したか」と訊かれる校長を、広島・世羅高校の校長のように自死に追い込んではならない。卒業式前日、「根津を指導した。根津は立つと言った、と市教委に報告していいです」と告げて臨んだ2004年度卒業式について、根津さんが語る映像を観ました。「一度立ったが心臓がバクバクして座った。もう少しで生徒たちに銃の引き金を引くところだった。引き金を引かなくて本当によかった」と。

それを観て、根津さんにとって「君が代」起立は本当に生徒に向けて銃の引き金を引くことなのだと、ようやく理解しました。同時に気が付いたことは、闘う列の一番前で免職覚悟で不起立を続け厳しく攻撃される根津さんの後ろで、私は自分の「君が代」不服従を続けられたということです。それまでは「皆で座ろう」と呼びかけた根津さんに共感せず、独りにして苦しませ、闘う仲間のはずの根津さんを犠牲にしていることに気付きもしませんでした。

(※太字部分は、拙文の点検をお願いした際の根津さんによる加筆です。これまで誰にも語らずにいた部分が初めて伝えられました。この年に根津さんがなぜ「一度立った」のかが分かると同時に、辛い極限の中で周囲を気遣い、根津さんがどれだけ独りで苦しんだかを想像して新たな衝撃を受けました。)

加害の認識はたいへん辛いものでした。質問状作成のために呼びかけ人会議を何回か開いた場で「静かに座っていた」との文言に痛みを覚えました。私は「静かに立って」きました。記者会見に用意した文章で「『君が代』斉唱時に私は立ってきました。」と書くのが辛く、「私は」の場所を変えてみたりもしましたが、紛れもなく私は立ってきたのでした。

思えば、戦後の日本の国が再び誤った方向へ向かうのも、人々への加害の認識を避けて無かったものにしているからではないのか。他の人を犠牲にしながら大義名分を掲げて起立してきた私も、戦争を推進する一人ではないのか。そう気が付いた時には「ああ」と顔を覆う思いでした。語らずにいられなくなり、いろいろな場でカミングアウトし、書いてきました。自らの加害に気付いた衝撃を忘れたくありませんでした。

根津さんは、日中戦争で中国の人々に向けて銃の引き金を引いたかもしれないお父様に思いを馳せていました。「君が代」が流れて心臓がバクバクしながらようやく座った時に、「生徒に向けて銃の引き金を引かなくて本当によかった」と根津さんが思ったのは、それ故と思います。目の前の生徒たちに自身の不起立を通して、思想と行動は自分で考えて決める自由があることを伝えたい、と根津さんは言います。

私の父も学徒動員で神学校隊の先頭に立ち、東条英機に「頭かしら、右」の号令を捧げました。インパール作戦に参加し捕虜となったインドの収容所に於いてなお「宮城遥拝」の声を挙げて、天皇に頭こうべを垂れる号令をかけました。捕虜収容所で敗戦を知り打ちのめされた父は、「神ならぬ神・天皇」の聖戦に参加した己の深い罪に泣きました。父が神学生であることを知った英軍大尉から放送で収容所の礼拝を行うように言われて断った時、次の聖句が思い浮かんだと書いています。

「われらはバビロンの川のほとりに座り、シオンを思い出して涙を流した。われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、われらに『シオンの歌を一つうたえ』と言った」。(詩篇137)

賛美の歌を強制される悲しみ。そのとき竪琴を木に掛けて、力を持つ者から強制される歌を拒む民の姿が聖書に書かれていました。

戦後、父は天皇と戦争にこだわり続け、小学生の私に「戦後日本の宣教を最も困難にしたのは天皇制の存続だ」と父は話しました。これらが私の「君が代」対峙に影響したことは言うまでもないのですが、自分の道は自分で見出したいと否定した時もありました。けれども父の懺悔と戦争責任はあまりにも深く重く、私の中にも流れていました。

戦争ほどの加害行為は無いのでしょう。「あの時は仕方無かった」とよく言われます。「君が代」不服従の闘いの中で、私も同じことを言ってはいないか。朝鮮半島で神社参拝を拒み投獄された朱チュ 基キ 徹チョル牧師は、「一緒に捕えられた牧師たちが翌朝には日本軍に参拝を約束していなくなる。身体に受ける苦痛よりも最も耐え難かった」と語られたそうです。キリスト者の信仰ゆえに天皇の崇拝を拒んだ人を、同じ立場の人が最も苦しめました。私も同じことをしてこなかったか。そんな思いに悲しむ時、思い出したい言葉があります。

「ピースリボン」裁判の弁護団で唯一クリスチャンの坪井節子弁護士がある時、話されました。「私たちは生きているだけでいつ誰を犠牲にしているか分からない。人を殺さないためには、殺される人の側にいること」だと。「殺される側、弱い者、底辺にいる人々の場所に立つとき、そこに主が必ず共にいてくださる」と話されました。人を犠牲にして生きている認識は辛く、同時に立つべき位置を教えてくれます。国旗国歌法制定後の2000年卒業式で小学校の校舎屋上に突然「日の丸」が掲揚され、卒業生が校長に式後の降納をお願いしたことが「土下座要求」と報道され、国会で「偏向教育」と取沙汰され、「リボン」着用により教員が大量処分されました。そこから裁判等の「君が代」不服従の闘いが始まって22年が過ぎました。

「ピースリボン」裁判は炭鉱のカナリヤのような裁判と言われました。カナリヤが坑道の異常に反応して鳴き声をあげると、人々は危険を察知できると言います。辛いほど意味があり、不自由を感じることが役に立つという話です。

公開質問状呼びかけ人6人の内、私を含む4人がクリスチャンでその内の一人は現職の教員でした。都教育委員会に名前を公表して不利益が及ばないか心配する私に、彼は言いました。

「この問題は神様から与えられたミッションという確信があるので、どのような展開をたどろうともイエ~ス」。しなやかな勁さと信仰に一本取られました。

弱く低くされた場所にいて不自由を敏感に察知し、辛い鳴き声をあげること。それが過ちを繰り返さないために、私にも与えられたミッションであると思います。

(元東京都公立小学校音楽専科教員、日本基督教団 東美教会員)