スリランカ便り 石川 光顕
5月28日から7月17日までの約2か月の間、私たち夫婦は三男直人が20年間住んでいるスリランカに行ってきました。その報告をします。
(1)現地からの「便り」
石川惠子【調布教会 月報7月号:原稿より】
ここに来て17日目です。私は毎日汗をかきながら、我が家の5番目の孫 耕生(誕生2か月)の世話と食事作りに追われている日々です。調理用プロパンガスはボンベのガスが終了したら、品不足のためにもう買えないと言われ、怖くて使えません。幸い電気は使えるのですが、IHコンロ1台で食事の準備をしなければならないので、一品作ったら、また一品と味噌汁を作るとさらに時間がかかり、ご飯を炊くにも炊飯器はあるもののコンセントは1個なので、全てを作り終えるまでに相当の時間がかかります。その上、日替わり時刻の計画停電や突然の停電もあるので、やり繰りが大変です。それでも、電気を使える家はまだましで、薪を拾って煮炊きする家庭も多く、そこでは1日1食だと息子が話しています。それを聞くと毎食、食べられることは大きな感謝で、東京では当たり前のようにして食べていましたが、1食毎に心からの感謝を持って頂いています。
光顕は洗濯物を干し、取り込んでアイロンをかけるのをマイワークとして日々頑張っています。その多くはオムツです。ここは日本の一昔前のように布オムツ( 正方形のガーゼ布) を使っているのですが、湿度が高く乾きが悪いのです。
今のスリランカは独立後最大の危機的状況だそうです。ウクライナ戦争の影響かと思っていましたが、そればかりではなく政権の舵取りが上手くいかず、またコロナ禍も災いして観光客が来ないことにより、負債が膨らんでいることが原因のようです。輸入品が極端に減り、日常的に使う物が不足していますが、最も困っているのはガソリンです。いつ給油出来るかも分からないままに、延々と車の中で待たねばなりません。もうガソリンは来ないと分かると、車を置いたまま家に帰りますが、入りそうだとの情報があると、夜中でも出かけます。日中には炎天下にさらされながら待ち続け、やっと10リットルの給油です。4、5日並んで待っていても、ガソリンが無くなると帰るしかなく、息子夫婦は疲労困憊しています。
そんな時にスリランカに行くのはやめた方が良いと何人かの友人から言われました。しかし、大変な生活ではありますが、孫の成長を間近に見られることは、それに代わる楽しさがあり、無理をしても来てよかったと思っています。神さまからのプレゼントとしかいいようがなく、純真に頼って来る孫を見ながら、「幼子のようになりなさい」というイエスさまの御言葉を思い出し、こんなふうに神様を頼りたいと思わされています。私の腕の中ですやすや眠っている孫を見ながら、私も神様の大きな御腕の中にあることも日々感じさせられています。
食料品の重量がかさんだために、書物は聖書1冊のみしか持参出来ませんでしたが、日毎の御言葉を読み返しては力づけられています。そして遠く離れてはいても、オンラインで調布教会の方々と共に礼拝を守れることは大きな喜びであり、皆様のお祈りをひしひしと感じて日々過ごせています。
南国の豊富なフルーツにも元気を貰っています。
あと一月ですが、厳しい状況の中で忙しく働いている息子直人・妻ニシャンティ、そして孫耕生とのかけがえのないこの時を少しでも支えになるようにと祈りつつ励んでいます。(6月14日)
(2)スリランカの概略
インドの南南東に位置し「聖なる光り輝く島」と言われる北海道より少し小さい島で、人口は東京と神奈川を合わせた2100万人強だそうです。因みに北海道の人口は約516万人です。宗教の分布は仏教(70%)ヒンドゥー教(13%弱)イスラム教(10%)そしてキリスト教(8%弱)。世界遺産は8つもあり、私たちは過去2回のスリランカ訪問時に、4箇所位の世界遺産を見てきました。野良犬ならぬ、野良象がいるとのことには驚かされます。
スリランカと日本の関係に於いて、どうしても記しておきたいことがあります。
それは1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議にセイロン代表として出席したジャヤワルダナ大蔵大臣(当時。後の初代大統領)の発言です。「軍隊の駐留による被害や我が国の重要生産品である生ゴムの大量搾取による損害は当然賠償されるべきである。しかし、その権利を行使するつもりはない。なぜなら、仏陀の〝憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む〟との言葉を信じるからである。ソ連の修正条項に我々が同意できない理由は、制約を付ければ日本が主権と平等と尊厳を取り戻すことが不可能になるからである」。彼はこの発言のように対日賠償請求権を放棄し、ソ連の制限案に反対し、参加国に寛容の精神を求めたのです。これにより、今も日本はスリランカに友好的な姿勢を持ち続けています。
(3)直人の歩み
直人は、基督教独立学園高校から北海道の酪農学園大学を経て、2002年青年海外協力隊員としてスリランカに派遣されました。それ以来20年間スリランカで仕事を続けています。その歩みの概要は以下のようです。
- 2004年 スマトラ沖津波被災地で支援活動開始
- 2007年 中部州地滑り被災者支援のためアプカスのNPO法人化
- 2009年 スリランカ内戦後の孤児・寡婦への支援
- 2011年 東日本大震災被災地支援
- 2015年 ソーシャルビジネス分野に事業集中
- 2016~19年 自然災害の頻発、同時多発テロ発生の中で
- 2020年 コロナ感染拡大を受けて
以上のように、自然災害、内戦、貧困地域など圧倒的な課題に晒されながら、直人は解決の方向を考え続けて今に繋がっています。HPで記された彼の文章の中から私のコメントも含め主として、先ず①と④について記します。
① 《支援漬けのスマトラ沖津波被災地で》
青年海外協力隊員最後の2004年12月26日、スマトラ沖津波災害に遭遇しました。スリランカ全土で3万人に及ぶ人々が亡くなりました。津波の到達が、日曜日の午前中ということもあり、帰省客や行楽客を多く乗せた列車やバス、買い物に出かけていた女性や子どもも犠牲になりました。当時、私は20代半ば、青年協力隊員としてスリランカ北中部州のアヌラーダプに赴任中で、年の瀬の休暇でコロンボ近郊の海岸部に滞在していた際に、この災害に偶然遭遇したのでした。
被災直後の変わり果てた海岸線、甚大な被害を目の当たりにし、「何かできることがないか?」とアクションを始めるのに躊躇はありませんでした。現地NGOのボランティアとして被災地に足を運び、人を支援することに大きなやりがいを感じました。スマトラ沖津波災害のニュースは世界を駆け巡り、スリランカの津波被災地にも、世界中から莫大な支援が寄せられましたが、その中には、相手のニーズや文化に配慮が欠けた支援、自立心を失い「援助漬け」になってしまう人々、統治の欠如やルール違反による混乱や不正など……「支援を巡る圧倒的な現実」がありました。その現場での経験から、「自立とは? 援助とは? 幸せとは? よりよい社会とは?」といった大きな問いが生まれ、それに向き合い続ける思いが、アプカスの活動の原点になっています。英語表記APCASは、「Action for Peace,Capability and Sustainability」の頭文字をとったもので、同時にアイヌ語で「歩く」を意味しています。すべての人々が、共に歩むことができる社会の実現を目指し、国外と国内の周縁化された人々を取り巻く諸問題に取り組むことが目標です。
隊員派遣期間の終了後、私は地域防災や参加型開発をスリランカの現場で学ぶために、日本の大手NGOの現地スタッフとして復興支援事業に参加。その後、進路を迷いつつもスリランカ環境NGOの防災やファンドレイジング(民間非営利組織の資金集め)分野の専属スタッフとしてスリランカに残ることを決め、住民主体の地域開発手法を実践しながら、スリランカ全土を駆け回る日々を送っていました。
④東日本大震災の甚大な被災状況を受け、2011年3月末より、PARCIC(パルシック)、IVY(山形アイビー)、いしのまき環境ネットと連携し、被害の大きい石巻、南三陸町、気仙沼市周辺の特に支援の行き届いていない地域、避難所に焦点を当て、ニーズに基づいた支援物資の配布、地域間の支援ギャップを埋めるための活動を行いました(仔細は省く)。
(4)アプカスの目指すところを彼に聞きました。
A《ともに考え、ともに歩く》
私たちは団体発足後、「ともに考え、ともに歩く」をモットーに、人を支えるという視点で被災地や貧困地域で活動を行ってきました。現在は、活動の手法をソーシャルビジネスに特化し、人々の「歩もうという気持ちを高め、同時に歩んでいける環境も作り出せる」ように、広範な活動を展開しています。
スリランカのような開発途上国・新興国では、社会課題の解決や福祉の提供を政府のみに期待するのは困難です。そこで私たちは、「政府」と「市場」が埋められない部分をソーシャルビジネスという形で繋げていく役割を果たしたいと思っています。近年、先進国、開発途上国を問わず世界的に取り組みが進む「持続可能な開発目標(SDGs)」の各共通目標の実現に向けて、これまで同様、初心を忘れず一歩一歩進んでいきたいと思います。
B《人間開発の視点 (Action for “Peace” and “Capability”)》
私たちの活動のバックグランドは、困っている人々や地域を外部者として支えてきた国際協力分野の経験です。そのため、課題選択や事業の進め方については、連携相手や事業を行う地域に対して「人間開発(人々が教育や健康の享受を通して生涯にわたる能力や可能性を広げること)の視点」を核に据えて、プロジェクトを計画運営しています。
ソーシャルビジネスが、文字通り「社会的意義が高いビジネス」であるためには、活動の目指す所が公益性があり、その手段が搾取的なものではなく、さらに多くの人々の理解と共感に支えられる必要があります。綺麗事に聞こえるかもしれませんが、「人間開発の視点に立って公益性を追求する」という点は、私たちのようなNGOがソーシャルビジネスを行う存在価値そのものであります。
C《持続発展の視点(Action for “Sustainability”)》
私たちは公益性の実現と共に、もっともNGOの弱い点でもある「継続するための利益をどう生み続けるか?」という点を柔軟な思考で追求し、将来にわたりより多くの人々に活動の果実を届け、支えていただけるように活動しています。
よく新規事業は『0⇨1(ゼロイチ)』ビジネスと呼ばれますが、私たちがスリランカで手掛けるソーシャルビジネスは、市場はおろか、そもそも働けるとすら思っていない人々へのエンパワーメントを伴い、地域で誰にも見向きのされない負の資源から価値を生み出していく『-1⇨0(マイナスイチゼロ)』ビジネスとも呼べるものです。これらの事業を立ち上げ、継続していくことは、一筋縄ではいかないスリランカというお国柄や文化背景に加え、テロやコロナ等の影響も重なり、当初の想定以上に逆境の連続となりました。
さらに、「真の持続性の確保」という点では、新たな種を撒いたのが私たちだとしても、一定の継続の後に新たな担い手に引き継がれ、より広く深く社会の中で根を下ろしていく必要があります。このためには、私たちが長年に亘り地域開発で培ってきた「外部者」「脇役」であるという自覚を持ち続ける必要があります。
例えば、視覚障がい者の指圧師としての雇用促進事業(トゥサーレ・トーキングハンズ事業)では、「視覚障がい者の雇用率が1%にも満たず、適切な仕事がほとんど提供されていない」という社会課題の解消に向けて、コロンボの中心地に指圧サロン(Thusare Talking Hands)を立ち上げ、視覚障がい者の就労支援事業に日々向き合っています。私たちは、店舗のマネジメント支援を通した労働環境の整備に加え、中長期の「持続性」の視点から「視覚障がい者への指圧トレーニング内容の強化(アクセシビリティの高い教材整備や指圧現地講師の育成支援)」や「国立職業訓練機関との連携」も進め、 障がい者の雇用の受け皿が社会全体で大きくなるような活動も同時に行い、将来的には、スリランカ国内の人材が中心となり自立的に指圧師養成を行える体制構築、さらに指圧師の国家資格制度の創設についても視野に入れ、安定的かつ持続的に視覚障がい者が働けるための活動も並行して進めています。
現在、指圧師養成事業含め、メインのソーシャルビジネスは立ち上げから5年以上が過ぎ、立上期はなんとか超えることができましたが、経営面での収支、ビジネス規模を見ても、目標としている自立運営への道はまだまだ遠く、よちよち歩きの状態です。しかしながら、世界の潮流に目を向けると、SDGsやESG(環境・社会・ガバナンス)投資などの価値観が定着し、事業の中核に持続可能性を織り込まないビジネスは人々から評価されない時代になってきました。さらに、ソーシャルビジネス分野では、新たなアイデアや技術を取り込み若い世代の皆様の活躍も大きく取り上げられるようになりました。私たちも、災害、貧困、環境問題などの諸課題に15年以上現場で向き合ってきた団体として、熱い心と冷めた目で、これからも初心を忘れず、歩み続けていきたいと思います。
(5)終わりに 《私たち夫婦の思い》―課題・希望・祈り
〈多くの友人・アドバイザー〉 今回2か月間の共なる生活の中で、直人が在宅の時にはひっきりなしに電話応対に追われていました。シンハラ語、英語、日本語とその時々で言葉を使い分けて話しているのを聞きながら、一体どんな人と話しているのだろうと思っていました。その一部を彼に聞いただけでも、どれほど多くの友人・アドバイザーの方々に支えられているのかを改めて知らされました。そのことは私たちの喜びであり、感謝です。
また、妻ニシャンティと私たちは片言英語の会話ですが「直人が365日休日が無い、仕事が忙しすぎる」と、よくこぼしていました。しかし今回、耕生が与えられ、直人が家にいる時間を増やし父親としての役割も果たしていて、ニシャンティは直人が変わったと喜んでいて安心しました。彼の一番の支えは、妻ニシャンティの存在です。彼女はスリランカの伝統医療アーユルベーダの医師としてクリニックを持っていますが、彼女曰く「お金持ちからは高く、困っている人からは安く(笑)」などと言っているくらいに直人と同じ考えの下で歩んでいるようで、嬉しい限りです。
直人たちに家を貸してくださっている大家さん夫妻にも大きく支えられています。
〈課題・希望〉 直人の活動に関しては、指圧サロンの他に、主に有機農産物ブランド「Kenko 1st Organic」を立ち上げ、店舗や販売網の整備を行いつつ、環境や文化に配慮した循環型農業の技術普及を目指しています。しかし、なかなか販路が広がらず苦戦しています。海外特に、日本への輸出の販路が出来ることを願っています。彼らが作っている商品数は、100種類位あり、主なものはドライフルーツ、ナッツ、ココナツオイル、スパイスです。販路が広がるとスリランカ人の雇用促進につながり、日本とスリランカの橋渡しにもなるので、何とか実現できるよう私たちにできることを考えたいと思っています。
私たちは今回2人の友人を訪問する訪問する計画を立てていました。スリランカにいるニラーニさんと飯塚淳子さんです。ニラーニさんはアジア学院の留学生でしたし狛江の我が家にも来てくれました。飯塚淳子さんはスリランカ人の連れ合いの遺志を引き継いで幼稚園を経営しています。それぞれスリランカで福祉、教育分野で大きな働きをされています。今回会いに行くことをとても楽しみにしていましたが、ガソリン不足のために断念し、残念でなりません。次回スリランカへ行くことが許されたらお訪ねし、スリランカとの交流拡大の一助にできたらと願っています。
〈無事帰国できた感謝〉 政情不安・コロナ禍、ガソリン不足等により、行きも帰りも、今までとは違い様々な不安がありましたが、皆様のお祈りに支えられ、また、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」(創世記28章15節)との御言葉に支えられて無事帰国できたことを心から感謝します。
(日本基督教団 調布教会員)