寄稿

『共助』〝誌友〟となって 和久井 洋子

8月から『共助』〝誌友〟になりました和久井 洋子と申します。石川さんから「誌友」と呼んで頂き、〝誌友〟という言葉があることを知り、何と良い言葉だろうと思いました。(〝誌友〟は、『共助』創刊の頃から使われているのですね。)

私は盛岡に住んでいます。天候不順の夏が過ぎ、盛岡は秋を迎えています。空が青く、鱗雲が高い所に浮かび、とんぼが飛び交っています。もうすぐ町のそこここから金木犀の香りも漂ってくるでしょう。街路のナナカマドの実も赤くなり、栃の木は茶色の実をつけ、県庁前には「実が落ちるので頭上注意」の札がつけられます。

私は、岩手県の高校に教諭として勤めていましたが、早期退職をし、色々な経緯を経て、今は森 有正について論文をまとめるべく、東北大学大学院博士課程の研究生になっています。その関係から、「基督教共助会」の存在は知っていましたが、『共助』誌が今も引き続き発行されていることは存じませんでした。『共助』が創刊号から電子化されて閲覧可能なことを教えて頂き、プリントアウトして、毎日2号ずつ読むのを日課にしました。今日の分は、1939年97号と98号です。1939年と言えば、日中戦争に入り、時を追って戦時色が濃くなっていく時代です。『共助』にも、戦地へ赴く〝誌友〟や、満州、中国などにいる「誌友」からの記事が掲載され緊迫した時局を感じます。しかしながら、その中で、「国体」という文字がときには入りながらも、聖書について真剣に書かれている記事がなお多いことに「共助会」の精神を見るような気がします。

『共助』創刊号から読み進めて気づくことは、当時の執筆者の方々は神学研究を深くされており、宣教への情熱が行間に満ちていることです。また、「共助会」設立者の森 明先生の人格と意志/遺志がどれほど影響力を持っているかということです。大学をはじめ、各地の高等学校(旧制)に伝道訪問をし、その地で多くの学生が集まり、教師たちから暖かく迎えられていることに隔世の感を覚えます。特に、現在のキリスト教界で触れられることが少なくなったと感じられる「罪」、「聖霊」、「キリストの聖愛」ということを掘り下げ、伝道の中心に置いていることに気づかされています。

それから、第56号(1937年)に、ハンセン病患者救済のため東京帝大で医学を志し、志半ばにして病に倒れた河村 誠さんを追悼する記事が載っていました(原田 昂 筆)。この記事をきっかけに「共助会」がハンセン病との関わりを続けて来たことと、河村さんの追悼として著わされた『まこと』には、日本の救癩史が掲載され、その後の『共助』第67号と第68号(いずれも1938年)に原田 昂氏が「日本の癩と基督教」を書かれていることも隠れたハンセン病伝道の歴史の一つとして大事だと思います。

戦前の『共助』を読むことによって、松村克己先生の思想を知りその著書へと導かれたこと(松村先生は研究の傍ら、ハンセン病伝道団体好善社 長島聖書学舎の理事長をつとめられたということです)、森 明先生の信仰とそれを受け継いでいる「共助会」が森有正の思想形成に大きな影響を与えているのではないかと気づかされたことは、私にとって得難い収穫となりました。

以上、『共助』通読途中での感想を述べさせていただきました。これから、〝誌友〟の一人として宜しくお願い致します。

(東北大学大学院博士課程の研究生、日本基督教団 内丸教会員)