シンガポール便り4 からゆきさんと日本人墓地 伊藤 世里江
前々回でシンガポール最初の在住日本人として、ギュッツラフの聖書翻訳にかかわった音吉を紹介しました。
その後、シンガポールに移り住むようになった日本人は、後にからゆきさんと呼ばれる日本人娼婦の女性たちでした。わたしがシンガポールに来て最初に日本人墓地公園を訪ねたとき、そこにある無数の小さなお墓に目が留まりました。からゆきさんたちのお墓でした。
日本人会の資料によると、日本人娼婦が初めてシンガポールに現れたのは1870(明治3)年ごろと言われています。多くは島原、天草、長崎などから中国、東南アジアに来ていた女性たちで、「唐国(中国)へ行く女性たち」を略して、後に「からゆきさん」と呼ばれるようになりました。親の借金のために売られたり、良い働き口があるなどとだまされて来た人たちです。言葉も通じない南の国で、多くは若くして貧困のうちに病死しました。墓は大半が木標で朽ちかけていたものを、日本人共済会が無名のまま「精霊菩薩」とのみ文字を刻んで、小さな墓石を立て、故郷日本に戻ることが叶わなかった女性たちの存在を残しました。共済会は日本人会の前身で、日本人墓地の管理のためにできた団体でした。現在、日本人墓地公園がある場所は、ゴム園や娼館経営などをしていた二木多賀次郎が1888年にゴム園だった場所を日本人墓地として提供したものです。早くから世界の貿易の拠点だったシンガポールには、いちはやく料亭や娼館が進出していました。日本人会がまとめた「シンガポール日本人社会百年史」によると、1902(明治35)年には、妓ぎ 楼ろうが82軒あり、娼婦は811人。一時は千人を超えたとみられています。
からゆきさんたちは、20歳前後で亡くなった人が多く、その過酷だった仕事に胸が締め付けられます。当時は粗末な避妊薬を飲ませられ、客を取るごとに陰部の消毒をさせられ、自由もない日々でした。そのような中から故郷の家族へ仕送りをしようとしていたからゆきさんたち。からゆきさんのお墓には少し大きなお墓もあります。それらは、故郷への仕送りのためにわずかばかりのお金を貯めていたが、病気で亡くなり、そのお金で娼館の親方がせめてもの思いでお墓を建てたと言われています。
からゆきさんの多くが島原半島周辺から連れて来られていましたが、島原の原城跡に近い港町口之津に歴史民俗資料館があり、その資料館の中に「からゆきさん」に関する展示コーナーがあることを今回初めて知りました。10歳くらいの少女もいたそうです。彼女たちは、炭鉱船の船底に詰め込まれ、あまりに悪い環境のため、現地に到着する前に亡くなった人たちも何人もいたと資料館の展示にあります。
日本人墓地公園には、全部で910基の墓石がありますが、一番古く圧倒的に数が多いのがからゆきさんのお墓です。からゆきさんのお墓の他にも、明治期から戦前にかけて活躍した日本人たちや戦時中にシンガポールでの激戦で亡くなった日本兵の慰霊碑もあります。シンガポールでの日本兵の戦死者数は約1715人とされています。連合軍の戦死者数は約5千人で、連合軍関係戦死者はシンガポール北部のクランジ連合軍墓地に埋葬されています。8万人あまりの連合軍が捕虜となり、泰緬(タイ・ミャンマー)鉄道の過酷な労働に連れ出され、そこで命を落とした人も多かったことも忘れることができません。
日本人墓地にはB級戦犯としてシンガポールのチャンギ刑務所で処刑された人たちの遺骨も埋葬されています。処刑された人は135人とされていますが正確な数はわかりません。中には当時日本人として数えられていた朝鮮半島出身者が含まれていたことはわかっていますが、石碑には名前や出身地は刻まれていません。B級戦犯とされた人たちの多くは捕虜虐待の罪を課せられました。上官の命令に背けず、心ならずも虐待に加担させられ、いったん日本に帰国したものの戦犯として逮捕され、シンガポールに戻され、処刑された人たちです。
静かな住宅街の一角にあるブーゲンビリアの花が年中咲いているきれいに整備された日本人墓地公園(写真)。
日本人小学校、中学校の生徒たちも毎年、ボランティアで清掃や草取りなどに来ています。このような静寂な地で墓石の一つ一つを見ながら、日本とシンガポールの歴史と、厳しい人生を送った人たちのことを思い巡らします。今の時代もさまざまな人身売買が行われていることも忘れてはならないことです。
(シンガポール国際日本語教会牧師)