関係性に生きるということ 藤坂 一麦
佐久学舎では、神との関係性、人との関係性において気づきを得た。ここでは、関係性に生きるとはどういうことかを考えたい。特に、年下との関係性において述べたい。というのも、年上であるということは、それだけで、望むと望まざるとに関わらずあまりにも大きな権力を持つからだ。この拘束は非常に厳しく、自分はこの権力を用いていないと思っているならばほとんどの場合それ自体が既に権力の行使になっているのだと思う。私は最近、年少の友に無自覚に甘えていたことに気づく出来事があった。この文章は、それに対する反省の意味も持つ。
この権力のひとつは、「待つ」ことができるということだろう。友と意見が対立した時、友が悩みを打ち明けた時、年上だけが、「待つ」ことが出来る。それは、相手はまだ本当に大事なことを知らないから、それが分かるまで「待とう」という姿勢である。すなわち、年上は既に答えを持っていて、それを越えようとしないのである。私の年上としての経験上、これは確実に態度に出る。たいていは無自覚な無関心として現れる。行為者は、「待つ」という行為そのものは関心の現れだと錯覚するから厄介である。しかし、相手は鋭くその無関心を感じ取り、深く悩む。この時年下は大抵逃げ場が用意されていない。いや、正確には、年上が逃げ場になるはずなのに、その人間が自分への関心を捨てたわけだからこれは逃げ場の喪失といえる。年下にとっては死活問題である。私は、想像以上に重い悩みを年少の友に与えており、その時はそれに全く気づかなかった。
本来待つということは、答えを知っていながらそれをまだ言わないということではなく、答えを越えて共に悩むということだろう。確かに、その答えに普遍性が無いとは限らない。人間の関係性において普遍性を持つものはあると思う。しかし、その普遍性を相手に敷ふ 衍えんすることはできない。なぜなら、普遍性は共通した本質を持つものに対していえるものなので、精神の主体にとって、他の人間全てに成り立つことが自分に成り立つとは限らないからだ。それに、人間全てに成り立つから君にも成り立つと主張するのは、相手そのものを見ていないことの現れではないだろうか。普遍的事実など用いなくともそれは自分にとって真実なのだということの根拠が、彼にとって最も必要なものだと思う。
しかし、答えを越えて共に悩み、それについて話し合うことは出来ても、相手より先に新たな答えに至ることは出来ない。なぜなら、先ほど述べたことよりこの答えはまさに彼にとって言える真実でなくてはならないが、彼と最も長い時間その問題を向き合ってきたのはほかでもない彼自身だからである。その彼が、未だに答えを見いだせずにいるのだから、彼の素人である私が答えを決定することなどできるはずがない。
では、相手に一体何を伝えることが出来るのか。私は、願いを伝えることしか出来ないと思っている。それも、君は僕にとってかけがえのない人であるという事実から来る、そして厳密な意味でそれのみから来る願いを伝えることしか出来ない。いや、本当は願いを伝えることも出来ない。悩みを持つ者にとって、その悩みは誇張ではなく世界の全てよりも重いのである。その人間にとって、一個人の願いなど本来届くはずがない。そもそも、それだけの力があったなら私は彼の悩みにもっと早く気づけていたのである。彼にとって、自分の悩みに気づいてくれなかった私の願いなど、無内容に聞こえても仕方がない。そのことを知っていながら、しかし願いを伝えなければならない。人間には本当に何も出来ないのだと思う。そこで奇跡的に相手に伝わるものがあるとすれば、それは神の御手があってこそである。
関係性においてもう一つ重要なことがあると思う。それは、関係性の中にいる自分と関係性の外にいる自分がどちらも必要であるということだ。この二つがあって初めて相手の隣人になるということになると思う。なぜなら、もし、答えを越えて共に悩むことを本当に実践しようとするならば、すなわち、本当に彼の立場になって共に悩もうとするならば、何が正しいのかが全く分からない闇を通過しなければいけないからだ。その時に寄り頼むものがなければ人間はどこに進むこともできない。これは妥協ではないし、精神の休息のための場所を用意しているわけでもない。本来この姿勢は、関係性の中のみに生きることよりも難しくしいことだと思う。両端に位置する自分が同時に存在しなければならないからだ。関係性の中にいるとき、何が正しいのか全く分からない闇は本当に目の前にあり、また、関係性の外にいるとき、本当に神に従っていく道しか用意されない。これは信仰の相対化ではなく、悩みの絶対化である。相手の悩みの無限なる重さを心の髄まで感覚したうえで、信仰の無限性がそれを越えていかなければ、願いが届くという奇跡は起こらないのだと思う。だから、私にできることは、聴くことと、願うことと、それを伝えることと、祈ることのみである。私はキリスト者を名乗っていながら、自分には伝える力があるとどこかで思っていた。しかし、本当に一番伝えたいことは、自分の力では全く届けられないのだと最近は強く思う。私は、神無しでは本当に何も出来ないのだと感じながら、御心ならば願いを届けてくださいと祈る毎日である。 (京都大学 学生)