信仰によってこそ世界を受け継ぐ 木村一雄
〜京阪神修養会・開会説教〜
ローマの信徒への手紙4章13節~25節
私たち、今回の修養会の案内文(『共助』第73巻第7号33頁)で謳っている「暗がりの中」で、其々の馳せ場から呼び集められています。手探りで歩み続けた先達の思索と信仰の足跡を辿りつつ、それを深く心に受け留め、不信に呻かざるを得ない時代の歴史的現実にあっても、更なる信仰の歩みを主のいのちの言葉と希望の光に導かれていきたいと思います。
さて、そのような願いで、ローマの信徒への手紙4章13~25節では、神がアブラハムに為した約束から「信仰義認」について論じています。その中で「信仰によって世界を受け継ぐ者」(16節)は、今回の大切なキーワードです。
4章の終りで、パウロはアブラハムを例にとり、「信仰義認」を確信させ、現代に生きる世界にまで結び付けようと試みています。アブラハムとパウロの時代が異なる処は「主イエス・キリストを復活させた方を信じる」という点です。アブラハムは、信仰では民族・宗教(イスラム教・ユダヤ教・キリスト教)を超えて共通の先祖としています。
一体、彼は何ゆえに諸国民の父となり得たのか、やはり、この言葉から示されます。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(18節・協会訳口語聖書)。望み得ないのに、なおも望んだアブラハムと妻サラにイサクが与えられたとき、サラは笑い、彼は真剣に神の言葉を受入れました。思うに、洗礼者ヨハネの誕生の際も、父ザカリアは疑い、母エリサベトは喜び、沈黙と更なる祝福がこの夫妻に加えられました。
信仰は常識に従うと衰退し、人間の能力や権力のみに縋ろうとすると神の導きを必要としません。神は人間に信仰を受入れさせようとするとき、人間を理に合わない世界に置かれ、神を必要としなかった人が病気、試練、失望、挫折したときに、神無しに生きられない、と気づかされたりします。
アブラハムは信仰を貫き通し、己に栄光を帰することなく、神のみに栄光を帰しました。イサクを献げたとき(創世記22章)、常識を超えて神の厳しさに従いました。神に義とされたのは信仰の試練に耐えることによって確かめられます。パウロ自身もアブラハムの如く義とされ、ローマの教会の信徒も同列に置きました。「だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(22~24節)と。
13節に「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」とありますが、創世記の複数の箇所で両者の約束が記されています。例えば、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(12:2~3。他に12:7、13:15~17、15:5、17:4~8)。ここから窺えますように、神はアブラハムに子孫繁栄とその子孫を大いなる国民にすることと、カナンの地を与えると約束しました。しかし、聖書に記されている神の約束は古くから、「メシア支配による全世界の相続」を意味するとされ、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」と解釈されてきました。
ここで大切なのは、パウロが「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)、「あなたを多くの国民の父とする」(ローマ4:17)といった言葉を根拠に「アブラハムの信仰に従うすべての者」を「アブラハムの子孫」としていることです。(11~12節)で「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです」と。ユダヤ人、異邦人を問わず、アブラハムの信仰に従う人々。すなわちアブラハムが神の約束を信頼して自らを委ねたように、イエスの十字架の恵みを信頼して、そこに身を委ねる人も「アブラハムの子孫」と見做したのです。イエス・キリストを信じる全ての者が全世界の相続人としてメシアの支配と救いに与ることができると。こうして、創世記の中でアブラハムとその子孫に結ばれた約束がイエスによって成就されるのです。神の救いの約束は律法でなく、あくまでも信仰による義に基づくのです。
そこで、パウロはローマ書と同時期頃に書き送っただろうガラテヤの信徒への手紙では、律法はあくまでも罪を明らかにし、人間をイエスの十字架の恵みに導く「養育係」(ギリシア語「パイダゴーゴス〔παιδαγωγός〕」、ガラテヤ3:24)で、人間は律法では義とされないことと、律法を救いの条件や手段と考えるのは誤りだと3章18節以下で言及しています。「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫(=イエス・キリスト)が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」(ガラテヤ3:18~19)
「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となる」(ローマ4:16)ことの本質は神の愛と恵みです。私たちはその信仰と恵みによって、内から促されて(森有正の「内的促し」)、主に用いられていきたいのです。
神がアブラハムに与えられた約束は「アブラハムのすべての子孫」、すなわち「律法に頼る者」(=ユダヤ人)だけでなく、アブラハムの信仰に従うすべての人々に保証されるのです。こして、旧約聖書に預言されていた救いの約束がイエスによって成就します。イエス以後、イスラエル人だけがアブラハムの子孫なのではなく、イエス・キリストを信じる信仰に歩む者は皆「アブラハムの子孫」であるということです。
さらにパウロの「彼はわたしたちすべての父です」(16節)とは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在していたローマの教会の現実と無関係ではないことと、イエスを信じる全ての人がアブラハムの約束の相続人、神の国の相続人であり、ユダヤ人と異邦人との間にあった敵意の隔ての壁をイエスの十字架によって取り除かれるのです(エフェソ2・14~22)。さらに、パウロの信仰義認論で救いをユダヤ人に限定する民族主義が乗り越えられ、キリスト教がパウロによって世界宗教としての礎が築かれた所以がここにあります。
基督教共助会を起こした森 明は1924(大13)年「涛声に和して」の一節(『森 明著作集』27頁)に、吉野(作造)博士と肝胆相照らした一夕の出来事を伝えている処で、(以下清水二郎著『森 明』引用)森 明は、『マロックの「単なる民衆主義の制限」』という、寡頭政治の弁護の目的で書かれた本』について話をした時のことですが、当時流行の「民主主義」も、個の贖罪による新生をぬきにしては、結局衆愚政治に終わるものであって、「真理の自覚を促すためには、真の意味において、人物を要する……ついに、全てキリストに帰り行かなければならない」ことを述べたものであった。その時、吉野博士は非常に感動して、立って「僕は新英雄主義の真理であることを大いに主張する」と付け加えたそうです。それから四半世紀を経て、日本が太平洋戦争に負け、……その天皇の詔勅の放送と共に放送された鈴木(貫太郎)総理大臣解説に、天皇の御決意の深さを説明するところがあり、森 有正はこの時、多くの尊い犠牲を払い苦難と忍苦の連続であった戦争の敗北を聞き取り、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで、真に苦しみを通して再生に至るべき日本の将来の予告に気がついて光明の差し来るのを感じたという。国としての大失敗を真剣に苦しみ、その苦しみを心身に受けて立つところに、日本の救いの道は来ると示されたのである。まさに父子相伝の贖罪感覚であると、記しています。
清水はさらに、「大江 健三郎氏が、戦後の日本国憲法の制定により、基本的人権と良心の自由による民主主義が一時成立したことを心から喜んだことは、純粋な人間信頼の精神として、誰しも共鳴せざるを得ないのである。しかし、人間の自己中心性を少しも改まらず、個人や団体の欲望が自制の実行力を全く持たない現状においては、日本国憲法の理想の実現は、単純にはあり得ない。その点で、森 明の言葉(著作集23頁)のとおり、『歴史の不足』であることを嘆かないわけにいかない。森 有正が感得した将来の道は、その光の道を望むことができるだろう」。日本国憲法の真価は、世界に先駆けた「人権の宣言」「戦争の放棄、平和の宣言」にあるのではない。それはまだ全人類的理想であって、まだ「日本のもの」ではない。憲法の真価は世界に先駆けた「人類の戦争の罪」の告白と、先手を打った服罪と新生の誓いにある。これは、憲法前文の発言であり、これあればこそ、空言ともいえる憲法各章各条の理想的規定に、実現されるべき真実が認められるのである。世界の知恵の結晶ともいうべき憲法本文は、ある意味では外来法文とも言えば言えよう。しかし、森有礼の時代に帝国憲法として出発した日本人の憲法は、苦難を経てすでに成長した。ひとたび到達した日本国憲法を抜きにして、どこに日本人の憲法があるだろうか。これは、やがて世界の国民国家が認めなければならない内容である。それよりも、憲法前文こそ、「日本人のもの」であり、日本が忘れてはならぬ一五年戦争の血の代価と引きかえの所得である。それは、森 明が体現した贖罪観に向かっている。森 明が、大正民主主義の虚無性を救うために熱心に求めたものは、「キリストの贖罪」であり、晩年、東京市内外学生大連合礼拝に期待したのは、文化の拠って立つ根底としての贖罪の真理を、生身の青年の心に刻むことであった。憲法前文の懺悔の精神の根底を求めつつ、森 明先生伝を閉じる。今日も憲法の真価は世界に先駆けた「人類の戦争の罪」の告白と、先手を打った服罪(罪を犯した者が刑に服すること)と新生の誓いにある、と清水は記す。
私たち、この意志と決断を引き継がなければと願う中で、とても憂うることが11月3日にあったことを皆さんも同じ共通認識でおられるのではないかと思う。それは、我が国の首相がフィリピンで高らかに2022年末に改定した国家安全保障戦略でその創設が謳われ、2023年度から導入された政府安全保障能力強化支援OSA(Official Security Assistance)による沿岸監視レーダー無償供与を発表したのは11月3日「文化の日」。この日は何の日かと問われて、最近は答えられない人も増えていますが、「国民の祝日に関する法律(祝日法)」には文化の日制定の趣旨が「自由と平和を愛し、文化をすすめる」と書かれており、1946年11月3日に日本国憲法が公布された、言わば「戦争放棄宣言記念日」。もし、この精神が今の政権に引き継がれていれば、この日に首相が軍事目的のレーダーを供与すると世界に宣言するなど無かった筈。その代わりに、世界で最初に戦争放棄した平和国家日本を代表して、イスラエルによるガザ攻撃の即時停止を発信したのではないか。一刻も早い停戦を願う。アブラハムは、キリスト教会では「信仰の父」と呼ばれ、彼のことを主なる神に忠実に従った模範的信仰者と受け取ることが多いのですが、森 有正は自身の『アブラハムの生涯』の講演集の中で、アブラハムの「神に向き合う根本姿勢」を問題にし、「どうすることが神に従うことなのか」と。アブラハムはただ闇雲に神に従ったのでなく、はっきりとした意志と決断を持って従った。それこそがアブラハムの「内的促し」であったと森はより深く内面の動きに焦点を当てて、その人物を解釈しようとしました。その森の考える人間の生涯の契機とは、「出発」の原動力としての「内的促し」であり、個人一人一人になり、決断する意志を持つことだと。
私たち、「約束の地」、すなわち「天の御国」に向かって歩む過程において、人間は経験を深め、且つ変貌させます。そのような行動を伴った一人一人の存在が社会を構成していきます。この観点から日本の社会や企業、各種組織、学校、施設などを眺めてみれば、個々人の「内的促し」(言葉)を封じ込め、圧殺してしまう力が働いていることを感じるのです。そんな状況下であっても、生涯に亘り「内的促し」によって「出発」していけるような決断をする意志を持った人間を育てることこそ、森 有正が感得した光の道を望むことであろうと思います。また、百年前に「歴史の不足」、歴史の埋め草が必要という森 明の見識と呼びかけは、今尚、「約束の地」に向かって歩む過程の途上にあり、少数であろうとも諦めることなく、粘り強い営みを継承していくことが求められています。
信仰によって、アブラハムは常に神を信頼し、神の意志を超えて働くことを信じました。私たちは神のパートナーとして、神の計画を信じ、希望を失わずに生きることが求められています。アブラハムのように年齢は関係ありません。私たちの役割は、神の約束を次の世代に受け継ぐことです。イエスの死と復活を通して、私たちは神からの言葉を聴くことができます。イエスは私たちのために命を捧げ、私たちが義とされるために復活されました。私たちもアブラハムのように、神からの約束を受け取り、神を信頼して生きることができます。神は私たちに星の数のように多くの祝福を約束し、私たちが神からの希望を信じて生きることを望んでいます。私たちは主の平和と喜びを次の世代に受け継ぎ、神のパートナーとして役割を果たすことが求められています。
(阿波池田教会牧師、善通寺カナン子育てプラザ21チャプレン)