今、森 有正が私たちに問いかけていること 片柳 榮一
〜京阪神修養会・主題講演 I 〜
序
森有正の著作に深く影響を受けながらも、その思想を正しく理解していなかったことに気付いた際、森有正の著作を読むことの怖さと辛さを再認識しました。特に、1970年11月の雑誌『展望』に掲載された「木々は光を浴びて」というエッセーの一節が印象的でした。その中で、あるフランスの若い女性が「第三発目の原子爆弾はまた日本に落ちます」と発言し、森はその言葉が外国人の日本に対する見方を象徴していると感じました。この言葉と女性の気持ちに衝撃を受け、日本が外部からどのように見られているか、森がその気持ちを理解しているかのような書き方に驚きました。そして、この日本で起こりつつある胸を搔きむしりたくなるような出来事について森が語り、放心したように木々が光を浴びているのを眺めていたことに、深い感銘を受けました。このような森有正の日本に対する危機感や悲観的な見方に至った理由を探ることは、今日の課題の一つとも言えます。
第一章 現代世界が共通に抱える問題
Ⅰ「深層の変貌」
現代は近代文明が抱えた世界共通の問題(個人を問題にしない自然科学の支配による磨り潰し)を抱えているが、近代文明を取り入れた日本は、固有の困難さを抱えていると森は考えています。ヨーロッパ自身、自らが確立した文明の基盤の上で、自らがもたらした困難さに立ち向かおうとしているのに対し、その強固な基盤を欠いたままで、個の尊厳を脅かし、磨り潰すものに対峙しなければならないという困難さです。
「社会生活の物質的改善、生活水準の相対的上昇、自然科学、人文・社会科学の有効性の証明、そういうことから、そこに新しい、そういうものに基礎を置く秩序が生まれ始めたということができる。新しい人生観、恋愛観、人間関係観、新しい倫理が芽生え始めた。それは革命によることなく、徐々に社会に浸透し始めている。戦闘的無神論によって宗教を否定するのではなく、宗教に対して無関心になるのである。……しかし何か根本的に新しいものが始まっていることは疑うことはできないと思う。そして、それは外面からは見えにくい形で、人間関係とその習俗の中に根本的な変化が起こっていると考えられる。……さてその見えにくい変化というのはどういうことであろうか。それは一人一人の人間の解放、少なくとも解放の要求の進行ということであり、換言するとそれは新しい命名と定義との探求であり、それは聡明さと異議申し立てによって表明される。第一の新しい命名と定義の探求というのは、自己による批判と判断の追求を意味する。それはあらゆる権威の否定である。聡明さという言葉は……俗にいう『大人になること』である。それはもっと具体的にいうと直接の相手から自由になること、相手の権威から身を退けることである。三番目の異議申し立ても……相手に対して自己を樹てること、自己を対させること、OPPOSERすることである。この三つは正に『経験』というものの構造、すなわち、経験というものは、本質的に自己、すなわち第一人称を定義するものであり、それは同時にその対極として社会を定立するものである、という経験そのものの構造に対応している」(Ⅴ 83―86 頁)。
森は、1968年パリの学生蜂起から始まった世界的な現象の内に、権威の崩壊、最も信頼しうるもの、専門家、体制に依存する在り方が許されなくなってきたことの現れを見ています。それは 19 世紀の後半から知識人たちには意識されていたことが、民衆レベル、社会の全般において確認されたことだと見ています。人は、すべての判断の根拠を自分の内に探るしかないように、個の深淵、自由の不安が開けてきていると考えています。
「二回に亘る大戦とそれに続く戦後の世界の情況は、何か、従来の通念に従うならば、異常なものが、種々の問題を性格づけているのが感ぜられるのである。それは何か黙示録的、と呼ぶこともできるであろう。すなわち、やがて顕れるべき隠された何ものかである。それは端的に「経験的」である。人間が原子核の秘密を把握し始め、原子爆弾を製造してから二十五年近くなる。……その破壊力は日毎に増大しつつある」(Ⅳ 79 頁)。
個人が抗いがたく問われ、そして共同体が、自ら判断し責任を引きうける個の連帯において形成されているかが問われています。しかし日本は、このヨーロッパ文明がうちに抱えて現代に繰り広げている問題性を深く自覚しているのかとの疑問を森は抱いています。ヨーロッパ世界が深刻に自らの問題として考え、アンゴワッス(苦悶)をもって呻吟している問題を日本は引き受けられるのか、との問いです。
第二章 日本が現代において固有に抱えている問題
この問題を森は、日本語という日常生活のレベルに帰りながら、日本人、日本社会の深層の問題を抉り出そうとします。経験が個人を定義するのでなく、二項関係を定義しているという問題です。
Ⅰ 二項関係 ― 「我と汝」ではなく「汝と汝」
「『日本人』においては、『汝』に対立するのは、『我』ではないということ、対立するものもまた相手にとっての『汝』なのだということである……親を『汝』として取ると、子が『我』であるのは自明のことのように思われる。しかしそれはそうでない。子は自分の中に存在の根拠をもつ『我』ではなく、当面『汝』である親の『汝』として自分を経験しているのである。……凡ては『我と汝』ではなく『汝と汝』との関係の中に推移するのである……親と成人した子が真に個人として成立するとするならば、そこには分離と無関心とのみが本質的事態としてあるはずである」(Ⅻ 63―64)
Ⅱ 日本語の「現実嵌入(かんにゅう)」
「助動詞は陳述全体に話し手のその陳述に対する主観的限定を加えるもので本質的に一人称的である。例えば『これは本です』と言えば、意味から言えば『これは本である』、『これは本だ』と全く同じであるが、この二者に対して比較してより丁寧に言うという態度を示している。もっと丁寧になると『これは本でございます』という風になる。……私は、これもまた日本語における『現実嵌入』の顕著な例であって、話し手と話し相手との、その場合の『二項関係』の中に、社会的階層が現れているものと考える。それでは、話の内容、例えば『これは本(である)』という内容とは次元のちがう別のものかと言うと、そうではなく、この場合、この助動詞は両者の関係を示すと共に、話の内容を肯定し、断定し、確言するという意味合いを含んでいる。しかしこの意味合いは、話し手が独立に賦与するものではなく、あくまで話し相手を意識の中に置き、それとの共在の上で下す意味合いなのである」(Ⅻ 86頁)。
「二項関係は、人間が孤独の自我になることを妨げると共に、孤独に伴う苦悩と不安を和らげる作用を果たすのである。また二人の人間が融合することによって責任の所在が不明確になるのである。これは内容的には孤独の苦悩を和らげることと同じである。もちろん苦痛を避け、安全を求めようとすることは、それ自体自然である。その限りそういうものを内容とする二項関係は自然であると言える。しかしそれを共同体構成の原理としてそのままそれに従うかどうかという問題が残っている。結論的に言えば『社会』というものは『自我』と同様に、この点に関する限り、反自然的であると言わねばならない。そしてそれは凡ての道徳の源泉である。『自我』と『社会』とがその内部から不断に構成されて来る共同体は、本質的に道徳的である。道徳というのは、単に規範的であるばかりでなく、不断に自我と社会に分極しようとする『人間存在』の運動そのものの理法である。それは絶えず『自然』に頽落しようとする人間を、『人間』へ向かって、すなわち『自我』と『社会』とへ向かって支えるものである」(Ⅻ 70―71頁)。
「二項関係においては、私は個としての私ではなく、汝に対する汝として現れてくるのです。本当の意味では「私」という「個」が成立しないでいる社会、あるいは、「個」の生成を阻み、押さえつける仕組みでがっちり固めている社会と言えましょう。「空気を読む」「忖度する」とよく言われます。言葉に表現されて現われるものをそのまま受け取るのでなく、その背後にある意図を読み取るのです。これは大事ですが、これが可能なのは、言葉で表現しなくても、他なるものを推測し得る「親密」な関係がすでに成り立っているところ、そのような自明性をもった社会でしかなりたちません。そうしたものが切れ、理解不能な他者、よそ者と生活しなければならない社会では関係はもっと厳しいものとなります。
一時はやった「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という無責任体制が日本の根底に根強く浸透しているとすれば、どうでしょうか。その体制が、3・11の衝撃的な出来事を引き起こしたと言えましょう。
第三章 個を定義する経験 ― 感覚―経験―思想
Ⅰ 経験
「自分のことも、自分の周囲のことも、日本のことも国際場裡に起こることも、それら凡てを含んで、それは一つの経験である、という発見であった。重ねて言うが、それが『私の』経験であったというのでは全然ない。それは私にとって『現実』そのものが『経験』であるということであり、また逆に『経験』は『現実』そのもので『ある』、ということである。何だか無意味なことを言っているように聞こえるかもしれないが、私にとっては、これは巨大な一つの啓示のようなものであった。それに気がつくと共に、この『経験』そのものが、『私』という〝ことば〟、あるいは『自己』という〝名辞〟を〝定義〟するものだということが判ったのである」(Ⅻ 15頁)。
ここでの経験は単に、この言葉が普通意味するような認識の方法、手段ということには尽きないでしょう。人間が生きる、存在する場全体を指しています。そこにはいわゆる対象としての客観、つまり自然、社会全体が含まれています。
森によれば、経験は現実そのものだと言います。我々にはこの現実は真実には見ていない。様々な蔽いがこれを遮っているのです。通念、常識的な感じ方、そういうものに覆われて私たちは現実に対しています。森は、これらを引きはがすための、苦渋に満ちた歩みを為しています。
「自我とか意識とかいうものも、そういう原初的な明確さから析出されて来るあるものに対する、これまた命名なのである。そして経験という名辞を定義している経験という現実は、実はこの現実の世界、ありの儘の、かくあって、それ以外ではない、この現実の世界、その凡ゆる豊かさと不安定さを保ったままの、この現実の世界、と同一のものであって、その他のなにものでもないのである」(Ⅳ 11頁)。
経験は現実であるということは、現実というものが、経験、感覚という認識手段の向こうにある、という常識的な使用を止めることであり、経験というのは、現実全体なのであり、どこまで行っても私たちは経験の外には出ず、その向こうに現実、世界があるのではないということを覚悟することです。経験のほかに現実がないということは、経験とは内側から見られた現実、世界であるとも言えます。経験の中に、我々が言うところのいわゆる「現実」、「世界」は包み込まれているのです。しかもこの「内」は涯はてしない「外」に開かれているのです。
Ⅱ 感覚 ― その純粋性へ向かって
「そこには、主観的、あるいは客観的と呼ばれるものが一挙に包括されているのであって、感覚という漢語の最も重い意味でそれは感覚なのである。それは感ぜられることから外界に向かい、また感ずる内面の自覚へ降下してゆく。……外界はあくまで外界であり、内面はどこまでも内面である。ただその外界の実体は内面にあり、内面の根拠は外界にあるとだけ言えよう」(Ⅳ 35頁)。
「感ぜられてくるということは対象がそのあらゆる外面的、従って偶然的なものを剥奪され、内面に向って透明になってくることであり、対象が対象そのものに還ることだ」(Ⅲ 74頁)。
「感覚」は普通、主観の側に帰せられますが、そのような狭い意味でなく、やがて「現実」全体に伸びて行く「経験」と領域を同じくする全体、世界そのものとも言えるものです。
自分がそのうちにあるものに真に触れるのは、感覚の純粋状態に帰らねば、可能でないから、感覚の純粋性に還らねばならないのです。そしてこのことは、人を独りにします。この接触は、個人の孤独の場でしか、真に生起しません。複数の人の間では、名所、擦り切れた概念など、すでに通用している被膜を通じてものが現われているのです。森が世界の荒れ地を巡り歩くのを非常に好むところにも、蔽いのない、裸の自然、裸の感覚に帰ろうとする努力が現れていると言えます。
「私は、植物である楡を前にして恍惚となる。雄大な石狩川の薄暮の流れに憂愁を托する。それは私も自然なのであるから。しかしそこから内なる自然を自らに対して啓示するに到るには、気が遠くなるような距離を歩みつくさねばならないのである。そこには荒野があり、急流があり、山脈があり、荒れ狂う大海がある。それは外なる自然の四大の狂乱の中を歩み通す旅行者と何の相違もありはしない。しかもそれは、荒れ狂う四元から外に出るためではない。その四元そのものにおいて調和と秩序に達するためである。すなわち自然に還るためである」(Ⅴ 75頁)。
感覚が外界と主観を含んだ「現実」全体を包み込んでおり、これが「経験」の積み重ねと透明化において、ものと自己として析出されてくるのです。ところで感覚は、森においてさらに深い次元をもっています。「そのささやかな本(『聞けわだつみの声』)の中で僕の心を深く打ったのはやがて死ぬこれらの若い魂を透きとおして、裸の自然がそこに、そのまま表れていることだった。暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥かに高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥……見渡すかぎり拡がっている広野、そういうものだけが印象に今も鮮やかに残っている。そこに若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこに見えないのだ。このことは僕に一つの境涯を啓いてくれる。そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、呻きもないのだ。ただあらゆる形容を絶したDESOLATIONとCONSOLATIONとが、そしてこの二つのものが二つとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ」(Ⅰ 4頁)。
Ⅲ 思想
森は「思想」という事柄を、「言葉を語る」という私たちの最も日常的な生活の事実に帰りながら、問題にします。「例えば、『人間』(それはimage である)ということと『人間』という言葉を主語とする命題(それがidée である)、例えば『人間は心身相関体である』ということとの間には越えがたい深淵がある。前者は魅了(fascination)を頂点とするが、後者は理解(entendement)に究極する。定義と言っても、もっと具体的現実を文脈の中に摂取することができる。ヨーロッパについて一言いうことが許されるならば、その『文明』は、従って、思想は、対象をそういう文章において把握するものである。それが日本に来た場合その対象(すでに〝文章〟になっている)を〝語〟によって捕らえ、その上それに対して〝fascination〟を起こすとしたら、これはもう誤解どころの騒ぎではないのである」(Ⅻ 23頁)。
命題によってすべての「人間」に開かれた第三人称的な公共的空間が切り出されます。それ以前は、閉じこもった「私」だけの空間、あるいは「汝―汝」のべたついた秘密の空間でしかなかったのです。「一つの命題には、主語と賓辞(述語)があり、それが繋ぎ辞によって関係づけられて結合されている。その各項は、完全に表明された概念あるいは表象で、その関係を肯定したり、否定したりする。その作用にも色々様態がある。しかし何にし
ても、この命題の形をとることは、主語が三人称として客体化され、それに対して主体が判断を下すということになる。判断には肯定、否定、条件などがあるが、それらの可能性の間から主体は選ぶことが出来る。こうしてあるもの、あるいは事柄に対して命題が建てられる。あるいは観念が確保され、その観念相互の間の論理的な関係も次第に明らかにされて、一つの思想が形成されてくる。ただその際必要なことは、そういう操作は、凡て言葉が命題を構成することによって行われるのであるが、その言葉は、それ自体の中に意味を担う概念であって、その言葉の中に『現実嵌入』が絶対起こってはならないのである。それが起こると精神はその自由な操作を行うことが出来なくなり、現実との接触から起こる『情動』に左右されて精神であることを止めてしまうのである」(Ⅻ 90頁)。
第四章 砂漠へ向かって
Ⅰ「生き甲斐」のうちにある「絶望」
森はフランスでの長い忍耐の思索の中で、ささやかな「安寧」な生活に「生き甲斐」を見出すことの内に、自らに閉じこもった「絶望」が巣くっていることに気づく。森は自分の内だけでなく、日本社会の根底にそのようなものを、覗き込んで戦慄している。そして森はこれに断固として背を向け、出立しようとする。「僕にとって、日本の中に生きることが、生き生きとした、生甲斐を感じさせる時、そしてそれと呼応して、これまで追求してきた生活が急に不可能に見えるだけではなく、つまらなく、生甲斐のないものに見えてきた時、僕は大きい安堵の念と共に、これこそ本当の絶望だということを疑う余地のない確信の形で理解した。そして一瞬も早く、この安堵の念を破壊し、そこから立ち去らなければならない、ということを理解した。これは僕にほとんど無限の強さを与えた。それはただわけもなく、気分を中心にして頑張るのとは全く違うからである。僕は絶望に背を向けて、自己の道を追求しよう」(Ⅱ 140頁)。
Ⅱ 出立 ― 砂漠に向かって
「ほとんど四千年の昔、アブラハムは、カルデアのウルを出かけた。しかしそれは父親と出かけたのである。へブル書の記者は、行く所を知らずして、と言っているが、彼はバビロンの流れに沿って、ハランの城門の傍らに着いたのである。そこは祖先の地であったかも知れない。彼の近親の何人かはハランという名をもっている。そこで彼の父のテラは死んだ。すべては終わったのか。否、はじまったのである。家族と多数の家畜をつれた古代遊牧民の旅はゆっくりとしかできない。ウルからハランまで荒れ地や町々を何千キロも、それは何年もかかったかも知れない。しかしこうして、自分の源泉の地にたどり着いた時、その城門を仰いだ時、彼はやっと出発点に立ったことを自覚しなかっただろうか。自分の中を歩み尽くして、やっと出口に辿り着いたのである。今まではバビロンの流れが自分を導いてくれたのである。それに沿って北上さえすれば、どんなに苦しくともハランの城門に到るのである。……父も死んだ。城門からは、東の方に隊商路が地平線まで長く延びて行く。激しい太陽の光の下に、真昼の沈黙が拡がっている。そこからは誰もかれを呼ばない。無関心と荒廃が限りなく拡がっている。呼び声は、向こうからは来なかった。それは彼の中から来た。しかもそれは呼ぶ声ではなく、追い出す声であった。僕はそれを内面の促しと呼ぼう……それは前方に向かって延びて行く。人はそのあとに従って歩みはじめる。その時、人はそのためにすべてを犠牲にすることができるようになる。意志と孤独とがその時生まれるのである」(Ⅱ 199―200頁)。
このような「砂漠へ向う」深い決意をパリの生活で抱くに至った森有正に、1966年以降『展望』の「霧の朝」に始まる美しい幾つものエッセイにおいて、日本に生きる私たちは出会うことになったのです。
〝表記〟例:Ⅱ 251頁 森有正全集第2巻(筑摩書房 1978年刊行)251頁
(日本基督教団北白川教会員)