在日コリアン三代史 宋 富子
共助会の皆様との新しい出会いを創ってくださいました主に心より感謝いたします。
私はときどき人生をふり返り日本の朝鮮侵略の植民地支配がなかったなら、私はふつうの朝鮮女性としての人生を生きていただろうにと考えます。しかし、人は、自分の力で時代も両親、環境も選択はできません。主から与えられた生命、生命あることに感謝して、生きることから考えようと信じました。
私は、31歳で初めて川崎教会牧師の李仁夏(イインハ) 先生に出合い、初めて真実の過去の歴史を知り、覚醒して自分の人生を真剣に考えて、非人権に抗って社会の正義と平和を創るのが私の使命と考えて83歳の今日までひたすら夢中に生きてきましたが、この度幼い頃の体験の執筆を依頼されましたので、母から聞いた母の父、外祖父のことから書いてみたいと考えました。
《母の父、外祖父:鄭日俊(チョンイルジュン)》
名前は、鄭日俊、慶尚南道陝川郡に住んでいました。1913年夜明け前のうす暗いとき、いきなり日本の憲兵10人が土足のまま母とその父母、3人で寝ている奥の部屋に入ってきて、外祖父の手に荒縄をかけて連行して行きました。1910年「韓国併合」した日本は朝鮮人の土地を取り上げていったのです。外祖父は、背が高く体格はよく、ヒゲはお腹まで伸びていて、当時の面の責任者で員簿(土地の権利書)を預かって持っていたのですが、「死んでも日本人に朝鮮の土地は渡さない」と言って憲兵が何度来ても追い返していたのでとうとう逮捕されたのです。取り調べ室に入ると打殺されてしまうので身体の大きい外祖父は両腕を荒縄で縛られたまま隣りの日本人憲兵を突き倒して両脚を持って振り廻し武器にして3人の憲兵を倒してヘイを乗り越えて広場に出ると偉い人が捕まって大変と隣り村の人まで大人も子どもも大勢集まっていて隠れる場所がありません。とっさに身体の大きいハルモニ(おばあさん)のチマ(スカート)の中に隠れたのです。ふつうは、絶対にバレるのですが、朝鮮人は日本人をよそ(他国)の国に来て、したい放題して朝鮮人を苦しめて皆、憎んでいましたので、探すふりをして生命がけて歩いて5時間かかって朝鮮で一番古い「海印寺(ヘインサ) 」に隠したのです。日本の憲兵は馬を何頭も出して村の一軒一軒を調べて庭に埋めてあるキムチの大きいカメまでみんな割って壊しました。外祖父は、3年で病気になり「海印寺」で死亡しました。
《母:鄭子順(チョンゴスン)》
母は7歳で家が没落しました。母は1人娘で父に似て背が高くスラーッとしていて、目鼻だちは整っていて、顔はとても美しい女性でした。朝鮮では家系を絶やさないためにも兄方の子を養子にもらいます。後に母より9歳下の養子が入りました。
このようなルーツをもつ母は寡黙で気高く身体中に朝鮮人の誇りを漂わせていて歩くのは足早で両手はいつも拳をにぎりしめげんこつで怒っているようにまっすぐ前を見て歩くのです。結婚式やお花見は友だちと白っぽいクリーム色のチマチョゴリで出かけますが、チョゴリ姿の母は、うっとりするほど美しい女性でした。母が36歳のとき、父は病死し長女は結婚していて、次女の13 歳の姉を頭に私が2歳、妹は生後6か月でした。1男5女、6人の子どもを母は重いリヤカーを1日引いて歩き「ボロ買い」をして私たち幼い6人の子どもを貧乏の中で育ててくれましたが、私が20 歳で結婚するまで母は一度も「お金が無い」とグチをこぼしたことはありませんでした。両班(ヤンバン)の誇りに生きた女性でした。寡黙な母が1日中笑顔で明るく楽しそうに朝鮮語で話す日は家が広いので友人7人ぐらいが集り手作りのカルグッス(うどん)を作って食べているときです。
《父:宋判厳(ソンバンオム)》
父の両親は父が幼いとき流行のコレラで死亡しました。父は宋判厳、1899年生まれで母より10歳年上で家は半農半商でした。3人兄弟で長男です。父の性格は姉から聞くと明るく人に優しく特に困った人には親切で家にある物を皆あげるので母にいつも叱られていたそうです。歌が上手く子どもに大きな声で怒ったことは1度もないと言います。大酒を飲んでも乱れた姿は一度もなかったと言います。人夫からも信頼され柔道も2段で給料日は人夫が酔って日本の歌、草津節を歌うと大きい声で「ウリノレ・ハラ!」と怒鳴るそうで一度も日本の歌を歌わなかったと母は言います。父は勇気があっておしゃれでした。千字文も日本語も覚えて15歳で友人を頼って大阪に着き火薬工で働き、技術者の資格を取得して朝鮮人20人の土木工事の責任者になって一儲けして、子どもの頃から好きだった村で誰も着ていない背広を着て蝶ネクタイで目一杯のおしゃれをして隣り村の母の家に行き、一生懸命、蓄えたお金を畳の上に積んで外
祖父に母との結婚を申し込んだのです。父は外祖母に、日本に行ったら養子の三用(サムヨン)を必ず国立大学に入学させて立派な人間に成長させますと約束したそうです。外祖母も両班と農家の家柄との結婚は当時考えられなかったのですが、夫が死亡し家は没落し、収入は無く心細いので承諾したそうです。
父はもう大喜びです。言葉使いも外祖母には一貫して敬語で話し、毎日必ず外祖母の好きな大福餅を買ってきて両手で頭を下げながら「召し上がってください」と言ったそうです。母は私に、「男の子が4人目に生まれたので辛いときもあったけど父が外祖母によく仕えて大切にしてくれたので乗りこえられた」と話していました。母の手の指は長く節はなく美しいです。足の形は両班の家はボソン(足袋)を、小さめのものをいつも履いて足の成長を止めるのです。女性は足が大きいと恥ずかしいとのことです。母の足の形は子どものように小さくて幅がありませんでした。この習慣は中国のてんそくという風習で朝鮮に伝わったのです。
《家族7人で日本へ渡る》
父と母は結婚して朝鮮で生活しようとしたのですが、植民地時代で何の仕事をしても上手くいかず税金を払うと生活できないので父は日本での土木工事の仕事を探してきて父と弟2人、外祖母・長女玉粉(オップン)は生後4か月、養子の三用、母、両方の家族7人で1926年、渡日しました。日本名は船の中で考えて父は廣田徳明、母は政子、長女は敏子、弟は二郎、三郎とつけました。外祖母は「日本に行くの怖いと言って船のカンパンに掴まって「アイゴ! アイゴ!」と泣いたそうです。
日本にきて父の最初の仕事は福井県敦賀の港を拡張する工事で7年かかりました。港にはバラック小屋が並んで150人ほどの朝鮮人人夫が働いていたそうです。三男の三郎おじさんは生前に私を現場に案内してトロッコの跡が残っているのを懐かしそうに見ておられました。仕事は固い岩盤の山にダイナマイトを仕掛けて岩石を小さくしてトロッコに積んで港に運ぶのです。三男のおじさんはダイナマイトの爆発の時に逃げ遅れて両耳が聞こえなくなり生涯定職につけず、競輪、競馬の生活でしたが、70歳で交通事故により死亡しました。優しい性格で一年に一度川崎競馬場に来たときは必ず長女の姉の家と私の家に来て、私の4人の子どもたちにお小遣いをくださいました。家でお寿司を食べ、ビールを飲むと気分が良いのか突然隣の部屋にあるピアノに向かってすごい勢いで、上手に体で調子をとってジャズを演奏される姿に家族中がびっくりしました。おじさんは耳が悪いので戦争中、米軍キャンプで食事の支度をしながらピアノを覚え、ジャズを上手に弾けたのです。父もおじさんも先天的に音楽の才能があったのだと思いました。私たち7人兄妹も三女と私と妹は特別歌が好きです。歌うとみんな拍手をしてくださいます。
敦賀の港の拡張工事が7年で終わると富山県の山奥の道路工事です。富山は雪が深いので京都の小椋池の干拓地を埋め立て伊勢田の田んぼの配管工事、笠置山の山奥の隧道工事、京都では15年、転々として次女、三女、長男、四女、4人の子どもが生まれました。母は今日出産しても翌日5時に起きて人夫の食事の支度をしたそうです。次男の二郎おじさんが故郷の16歳の女性(母の親戚)と結婚して、叔母さんが朝鮮から嫁いできて母の仕事を手伝ったので母はとても助かったと言っていました。1940年奈良県高市郡畝傍町の橿原神宮の表参道の拡張工事の仕事で奈良に来たのです。現場近くにある同和地区の十軒長屋の一室で私は1940年1月1日朝6時にゴムまりが飛ぶように、母が布団に掴まって2回ウンウン唸ると私が元気に生まれたそうです。
私が母の胎内にいた7か月のとき、兄が従兄と遊んでいて寝ている母のお腹を蹴ってしまったのです。母は痛みで苦しんで病院では寝たまま出産を待つしかない、でも出産のときは母親と子どもの生命は危ないと言われていたので、父の喜びは大きく出産後の始末も全部父が行い、私の名前まで自分の父の「守萬」の萬をとって「萬子」と名付けました。私の戸籍には「萬子」です。しかし生まれた私の頭と顔を見てみんな驚いたそうです。頭はジャガイモのようにデコボコ、眼はおデコの下に隠れてひどい奥眼で口は大きくて喜劇役者の口の大きいエノケンに似てるとエノケン、ジャガイモ、弁当箱(昔の弁当箱は柔らかいアルミ製でぶつかるとボコボコとヘコムので私の頭の形を表現しています)、体毒が多く鼻の頭は赤いブツブツができてイチゴです。
日本名の「富子」という名前は、父が女の子でこんなにみにくい顔では結婚できなかったらかわいそうだから、せめて朝鮮語で富豪の男性と結婚して幸福になるようにと「富子」とつけたそうです。姉や妹は人形のように美しく、妹は特に可愛い顔です。駄菓子屋さんのおばさんたちは「廣田さんの娘さん皆きれいなのに、なんで『富ちゃん』だけ、こんなにみっともない顔してかわいそうやな」と私の顔を見ます。私は幼い頃から十円をもらうと一人で駄菓子屋さんに行く習慣がつきました。でも一年に数回母の友だちが集ってきて手作りのうどんを食べた後、母は私と妹に幼い頃から朝鮮語で教えていた朝鮮の故郷の土地の名前や朝鮮の歌やアリランの民謡を歌いなさいと言うと、私は歌が得意なので大きな声で歌います。アジメ(おばさん)たちは手をたたいて褒めます。「アイゴ! チャッカダ! チャッカダ!」賢い賢いとほめて五十銭札をくれます。その時が一番嬉しい時でした。
《父土木工事を辞める》
姉たちは16歳、17歳に成長し、人夫たちはからかいます。両親は土方を解散しました。
父は「し尿吸い取り」の仕事をしながら大きな傘に「廣田商店」と書いて宣伝しホテルの残飯の整理を受けて働き、近くの小高い山を削って平地にし、池を埋め立てて白菜、大根、トウガラシを作っていました。家族では、「カシハラのバッテ(かしはらの畑)」と呼んでいました。豚も飼うため、広い土地が必要です。明日香川の川の向こうに、80坪の土地を買って、20坪の家を建てました。広いマダン(庭)の真ん中には鉄の大きい釜がドンとあります。豚の餌を炊くのです。庭の両方には牛小屋、片方の小屋はトウガラシやニンニクがつるしてあってキムチの大きいカメが二つ並んでいて、大根は一本そのままで漬けます。豚は20頭いて、餌をあげるときはものすごい勢いで食べます。鶏も20羽いて飼い放しで部屋に上がってきます。夏は時々大きな蛇の青大将が柱の上をはっていて大変でした。家は瓦をのせる手前で杉皮を敷いてあるだけで、家の壁も土をこねて塗っているだけで仕上げていません。
父は「カシハラのバッテ(畑)から大八車に野菜を一杯積んで家に帰ると大きい声で「弁当箱いるのかぁ~」と私を呼ぶと2歳の私は「お父さんや~」と言ってかけ出して父に抱かれて喜んでいたそうです。父は食事の間も私を膝の間に座らせて一緒に食事をしたそうです。母や姉は「富子、お前が一番お父さんに可愛がられたんやで」といつも言われました。1943年3月の寒い夜、父は持病の脱腸が悪化して死亡しました。手術前日、父は病院で自分の隣りに6か月の妹の秋子を抱いて親しい日本人の木村のおじさんや村の人にあいさつして姉に「一人息子の完哲兄さんには勉強をさせてくれ」と言い、11時45分に「花馬車が迎えにくるので天国に行きます」と言ってその時間に大きく息を吸うと天国に行ったそうです。享年46歳でした。
長女は結婚していて次女は13歳、私が2歳、妹は生後6か月、1男5女の幼い子どもを残して、父は死亡し母は36歳でした。母の仕事は重いリヤカーを一日引いて地下足袋をはいて「ボロ買い」に落ち着きました。
雨が降ると杉皮を敷いた屋根はものすごい雨漏りで、部屋一杯にナベ、ボールを置きます。台風の時は杉皮の屋根が飛ばされ布団を持って村のお寺に何日も泊めてもらいました。
母は1700円の借金をしてトタン屋根にしたので、雨漏りがなくなり私たち兄妹は大喜びで、やっとほっとしました。
小学校に入学するまでの幼い頃の思い出は、楽しいことばかりでした。家の20メートル先は明日香川、夏は裸でドジョウ、フナ、エビ、魚をとり、田や畑の自然の中で大きい子も小さい子も日の暮れるまで縄跳び、ゴム飛び、缶蹴り、かくれんぼ、明日香川はプール代わりでした。春は母とヨモギ、タンポポ、セリ、ノビル摘み、ヨモギの味噌汁は格別おいしかったです。
(在日大韓基督教会 川崎教会員)