共に生きる喜び 李相勁

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

(ローマの信徒への手紙12章15節、18節)

基督教共助会の一日研究会の恵みに共にあずかる導きに感謝いたします。

新年早々、災害、事故、事件が続き、穏やかではない気持ちであると思います。試練や苦しみのなかで、慰めの主が寄り添い、共にいることを信じて、希望を抱き、支え合って乗り越えていくことができますように、被災された方々を覚えてお祈りいたします。

今年の3月18日(月)~20日(水)、第8回韓日基督教共助会修練会が韓国大田市の韓南(ハンナム)大学を会場にして行われることになり導きに感謝いたします。今日はその準備の時として「日本の日々、そして韓日の真の和解を考える」一人として、平和と和解の恵みを分かち合いたいと思います。

私は1990年に韓国から日本にきてすでに日本の生活のほうが長くなっています。日本での生活のなかで、気づかされ、教えられたことの一つとして、いわゆる「先入観」のようなものから解放される経験でした。日々多くの方々に支えられ、導かれて恵みのうちに豊かな生活を過ごし感謝しております。
反面、暮らしやすい状況とは言えない現実もあります。川崎では「ヘイトスピーチ」と闘い、「共生のまち・さくらもと」を訴え、連帯を求めて取り組み、その過程で、全国に先駆けて「ヘイトスピーチ」に対する罰則規定を設けた「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」が2019年に制定されました。最近ではネット上の差別的な投稿に対して賠償を命じる判決もありました。私も関わっている「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」では、「外国人が暮らしやすい社会は、日本人にも暮らしやすい」と訴えてきました。そこでは、「世界のすべての人びとに開かれた社会を」願い、すべての人びとが地域住民として暮らすことは、「資格」ではなく、「権利」であり、世界の基準理解として「基本的な人権に関わる自由権、社会における等しい幸福にあずかる社会権、そして一方的に国外退去を命じられることのない居住権。こうした〈権利〉を持ってこそ、地域社会を共に形成していく一員、パートナーとなれる」と記されています(「外国人住民基本法」と「人種差別撤廃基本法」の制定を求める国会請願書2023より)。その背景には1970年代~80年代の差別をなくす運動として教会はじめ連帯が世界に広がりました。1980年代、川崎での指紋押捺拒否のときに、当時、川崎の伊藤三郎市長は「外登法」の問題に気づき、川崎市としては拒否者を告発しないと言明しました。「拒否の叫び声に耳を傾け、『法も規則も人間愛をこえるものではない』と宣言し、全国に先がけて拒否者を『告発しない』との方針を打ち出した」と著書『断片の神学』のなかで関田寛(ひろ)雄先生は記されています。社会制度なども人びとのいのち、尊厳のためにあるものであることを改めて思わされます。

川崎教会の初代牧師の李仁夏先生の著書『自分を愛するように』の表紙帯には、「制度化された差別と無関心の中で在日韓国人キリスト者は、聖書の言をどう読みとり、どう行動してきたのか、隣人として『共に生きる』姿勢を、日本人にうながす」と書かれ、本のなかには「制度化される差別との闘い」のところに、「国が差別の根を断ち切らない限り、日本社会から民族差別はなくならないと考え、憲法前文の『世界の諸国民と共に』の普遍原理に立ち、既に国が批准した、世界人権宣言の法制化である国際人権規約の完全実施をしてほしいと願うことに尽きる」と記されています。

また、在日大韓基督教会川崎教会の歩みのなかで、「70年代の川崎教会を語る、もう一つの流れは外からの挑戦として現われ、神はその出来事を用いて、宣教60周年の主題『キリストに従ってこの世へ』を証ししてくれた。それが世にいう『日立就職差別闘争』と完全勝利の出来事であった。この運動は神から委託された宣教のあり様を問うだけでなく、在日同胞を差別と抑圧による屈折から解放し、日本社会と国家に問いかける質問を内包していた。これ故に、教会にとってこの物語は旧約聖書の出エジプト事件とも関わらせることができる」と述べています(『川崎教会50年史』より)。

50年前に川崎教会の祈りのなかから生まれ、「だれもが力いっぱい生きるために」地域実践を担う社会福祉法人「青丘社」の働きを共に支え合って、共に生きる社会をめざして歩んでいます。

李仁夏先生と「和解の福音」のために共に連帯して歩んできた関田寛雄先生の『「断片」の神学』の「共生の課題を担う視点について」のなかに、「『教育改革への模索』に参与する教会にとってその参与の仕方は福音信仰に基づくものであり、それによって絶えず力付けられながらたとえ絶望的状況に立つにしてもこの世に対して希望の証人として立ち続けなければならない。その際に心得るべきことは、『共に』『ために』『として』の視点である。『ために』のない『共に』はないのではないか。大が小に恵む……『ために』はおこがましい限りであるが、小が大の『ために』なっていることは在日韓国・朝鮮人少数者の指紋拒否など、人権をめぐる問題提起は日本社会の『ために』なされたし、日本人は彼らと『共に』闘ったのである。さらに民族や文化の相違を認め受容し合い、共生する時に課題を担う主体の立場の相違を認め、それぞれ『として』参与するところに、責任的な参与の現実が認められるのであって、共生の課題に『として』は不可欠の視点であろう」と記されています。

今日、読んでいただきました聖書の言葉、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と共有、共感、共鳴していく大切さが語られ、また「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧められています。イエス・キリストの解放と希望の福音にあずかり、正義と平和の実践と和解の福音を分かち合い、小さくされた方々に寄り添い、互いに認め合い、支え合って、共に生きる社会をめざして励んでいきたいと願っております。

(在日大韓基督教会川崎教会牧師)