共助会と韓国 飯島 信
はじめに
共助会と韓国との関わりの歴史は、1992年に行われた第1回韓日基督教共助会修練会の報告書である『歴史に生きるキリスト者 ― 真の友情から問いかける日韓関係』(基督教共助会、1993)に記されています。特に小笠原亮一の「韓国と共助会― 韓日基督教共助会修練会を開くまで」は、取り上げられた時代がアジア太平洋戦争の戦時下から1992年までの限りはありますが、共助会と韓国との関わりを出発点から明らかにします。以下、小笠原の記述をまとめる形で述べてみたいと思います。
1.日本への留学と人格的出会い
韓国共助会設立の前史となる韓国留学生と共助会との出会いは、旧制山口高等学校と東京神学大学において始まります。前者には堀 信一教授が、後者には沢 正彦神学生がいました。留学生たちは、これら2人の人格との出会いから、共助会に導かれました。具体的にその名を挙げれば以下の通りです。
まず旧制山口高等学校ですが、戦時下に留学し、堀 信一教授に出会ったのは洪彰義(ホンチャンイ) 、李英環(イヨンファン)、郭商洙(カクチャンス) 、李台現(イテヒョン)の4人でした。堀は、京大に進学した洪 彰 義と李 英 環に北白川教会牧師の奥田成孝(しげたか)を、東大に進学した郭商洙に目白町教会牧師の本間 誠を紹介しています。李台現(イテヒョン)は東大に進みましたが、1945年の解放2ヵ月前に韓国に帰国しました。
また、当時の北白川教会には、後に単立松本日本基督教会牧師となる和田 正がいました。韓国から京都の東寺中学に留学していた李仁夏(イインハ)は、和田と出会い、和田が主宰していた聖書研究会に出席し、信仰へと導かれます。
これら5人の留学生と、堀、奥田、本間、和田ら日本人との交流は、後になって李台現(イテヒョン)が述べた次の言葉によって窺(うかが)い知ることが出来ます。
”I cannot blame Japan and Japanese people because of Prof. Hori.”
(私は、堀先生の故に、日本及び日本人を責めることは出来ない)。
文字通り、5人は、人格と人格との出会いの中で共助会に導かれました。なお、李仁夏(イインハ)を除く4人が歩んだ道は、『前掲書』236頁~241頁に沢 正彦が簡潔に記しています。
旧制山口高等学校に続く解放後の新たな出会いの場は、東京神学大学でした。裵興稷(ペフンジク)、金允植(キムユンシク)、朴パク 錫ソッ 圭(パクソッキュウ)の3人は、神学生として共に学んでいた沢 正彦に出会い、共助会に入会します。
この3名についても、同じく『前掲書』の同じページに記されています。
2.3回の訪韓を経て修練会へ
1945年の敗戦後、共助会は修練会開催に至るまでに3回の韓国訪問を行いました。1966年の第1回の訪問の時に、和田 正、沢 正彦と後に入会する尹鍾倬(ユンジョンタク)との出会いが与えられます。それまで、尹鍾倬(ユンジョンタク)の自らの生い立ちを通して日本人に向けられていた「憤怒の矢」は、和田の「ただキリストの十字架によって」の謝罪の言葉によって「石はむしろ私自身の胸に投げつけられ」(尹 鍾 倬)、和解へと導かれます。この和田、沢と尹鍾倬(ユンジョンタク)との間に起きた出来事は、その後の韓日基督教共助会交流の礎となります( ( (注。
この第1回の訪韓の後、1985年に第2回、1987年に第3回の韓国訪問が行われます。そして、この第3回韓国訪問の時に、共助会は初めて1919年3月の独立運動の時の堤岩里事件の舞台となった堤岩教会を訪れ、姜信範(カンシンボム)牧師を夏期信仰修養会に招くことになります。
36年にわたる朝鮮植民地統治において、日本が犯した最も非道、かつ許されることのない堤岩里事件と真正面から向き合うことによって、共助会は、先の交流の礎の内実がさらに厳しく問われ、その課題を負い続けて今に至っています( ( (注。
このような交流を積み重ねながら、1992年、第1回韓日基督教共助会修練会が開催されました。それから32年、修練会は3~5年の間隔を経ながら7回開催され、韓日両国の参加者は延べ308名になりました。
3.韓国民主化闘争支援の中で
次にお話ししたいのは、共助会としてではありませんが、共助会員の個々が取り組んだ韓国問題との関わりです。それは、1970年代から1980年代に戦われた韓国民主化闘争を支援する働きでした。簡潔に3つを紹介します。
第一は、韓国の夕刊紙であった「『東亜日報』を支援する会」です。当時、「自由言論実践宣言」を発表し、朴正煕(パクチョンヒ) 独裁政権下、言論の自由を戦い、政府によって新聞発行の資金であった企業の広告掲載を妨害され、資金難に陥った「東亜日報」を支援するため、あるいは戦いを理由として解雇された記者を助けるために献金を募り、韓国に届ける運動を行った会員がいました。東京と京都に拠点がありましたが、京都の責任者が北白川教会員の飯沼二郎(京大教授=当時)でした。
第二は、「The New York Times」に載せた韓国民主化闘争を紹介する意見広告です。1973年に発表された自由と民主主義のための戦いの意義を信仰的立場から明らかにした「韓国基督者宣言」全文を、日本人5名の名によって紹介したのですが、その中の3名は共助会員でした。北白川教会の飯沼二郎と奥田成孝、松本教会の和田 正です。
第三は、韓国民主化闘争を支援する国際ネットワークの拠点が東京のNCC(日本キリスト教協議会)に置かれていました。その事務局を担ったのも共助会員でした。後に、第15代金大中大統領が、大統領官邸の青瓦台に海外の支援者を招いて午餐会を行った際、共助会から事務局に関係した2名も招かれ、民主化の喜びを共にしています。李仁夏(イインハ)私です。
4.在日韓国人問題との関わり
京都や川崎を中心とした在日韓国人問題との様々な取り組みは、『前掲書』13頁以降、随所に小笠原が触れています。京都の在日大韓基督教会南部教会を会場として北白川教会の青年たちが中心となって行われた識字学級としての「オモニ学校」や、川崎の在日大韓基督教会川崎教会の牧師や青年たちなどが深く関わった就職差別との戦いである「朴君を囲む会」など、ぜひ一読していただきたいと思います。
ここでは、私と在日韓国人問題との関わりについて述べます。私が、在日の人びとと関わりを持ったのは、今触れた、日立製作所が韓国籍を理由として一人の在日韓国人青年の就職内定を取り消した民族差別裁判によってでした。大学の先輩から紹介され、支援組織としての「朴君を囲む会」の会員となった私は、毎月行われた定例会に参加する中で在日の人びととの関わりを深めて行きました。ここでの経験を記した文章の一部を紹介します。
「『例会』の雰囲気は重苦しかった。2時間も、時には3時間も、ただ(日本人と在日韓国人)両者の間に重く張りつめた沈黙だけが続いた。日本人に対する糾弾も相次いだ。しかし、私にとっては、糾弾とともに、淡々と語る彼らの生活史そのものが、何にもまして重たかった。首を垂れて沈黙を続ける日本人に向かって、苛立ちと怒りを帯びた声が投げつけられる。『俺たちは自らの生活をこうしてさらけ出しているんだ。おまえたちも自分の言葉で、おまえたちの生活を語ってみろ!』と。誰一人として答えることはできなかった。何も知らぬまま、いや知ろうとしないまま、抑圧者として生き続けてきた日本人に、彼らの言葉に対応しきる何が語れただろうか。
『例会』は回を重ねるうち、参加者は次第に減っていった。しかし、私にとってこの1年の沈黙は、確かに抑圧者としての自己の現実をみつめきることを意味した。彼らが語る〈言葉〉に聞き入り、その〈言葉〉に答え得るいかなる〈内実〉をも自己の内に持ち得ていない、人間としての己れの〈貧しさ〉に耐え続けることを通して、私はこの日本の歴史と社会のどこに自分が立っているかを知った。自己の現実に目ざめること、いや目ざめさせられることを通して、私はようやく語る彼らの顔をまっすぐに見つめ、また自分の〈言葉〉でこの問題との関わりを述べることができるようになったと思う。〈主体〉としての彼らと、〈客体〉としての私。コミュニケーションとは、このようにして出会うことを意味していたのか( ( (注。」
また、この間、大学闘争にも教会闘争にも敗れ、虚しく疲れ果てた私の魂に慰めを与えた場が、李仁夏(イインハ)牧師の川崎教会でした。日本の差別社会の中で生きる想像を絶した日々の厳しさの中にあっても、教会のオモニやアボジ、また青年会の仲間たちは、差別する側にいる日本人の私を温かく迎え入れてくれました。そして、この教会の交わりによって魂の傷が癒された私は、一度去った母教会に戻ることが出来たのです。今にして思えば、信仰における共助会との出会い( ( (注、交わりにおける川崎教会との
出会いによって、私はもう一度キリスト者としての歩みを取り戻します。
終わりに
昨年春、裵貞烈(ペチョンヨル)さんが韓国の韓南大学で、宋富子(ソンブジャ)さんが共助会クリスマス会で入会しました。このお二人が相次いで私たちの「主に在る友」として与えられた意味は限りなく大きいものがあります。それは、私たち共助会の韓国と在日の人びとに対する和解の使命がより鮮明になることを意味しているからです。
2015年3月、第6回修練会が済州島で開催されたのを最後に、2019年6月の香隣(ヒャンリン)教会を会場にして行われた第7回修練会を経ながらも、韓国共助会の働きはなお滞っていました。
担い手である尹鍾倬(ユンジョンタク)牧師が高齢となり、活動が難しくなったからです。それでも、私たちは韓日の交流の灯を絶やしてはならないとの使命を覚え続け、祈り続けて行く中で、韓国共助会の新たな担い手として裵貞烈(ペチョンヨル)さんが与えられたのです。
一方、李仁夏(イインハ)牧師以降、夏期信仰修養会で在日の友の証しを聴くことはあっても、共助会に迎えることは出来ませんでした。私たちが、在日の友らが担う課題の一つをも担えていないことの証左でした。そうした中、李相勁(イサンキョン)さんが仁夏(インハ) 牧師の活動の拠点であった川崎教会に赴任したのを機に、(ソンブジャ)さんとの出会いが与えられ、こうして仁夏(インハ)牧師逝去後16年を経て、共助会に新たな在日の友を迎えることが出来たのです。
私たちは、裵貞烈(ペチョンヨル)さん、宋富子(ソンブジャ)さんを通して、韓国併合36年がもたらし、今なお解決し得ていない韓日及び在日の歴史にこれからも向き合い続けます。そして、和解の道を探し求めます。それが、お二人の入会によって神様から改めて示された私たちの使命であると思うからです。
以上、発題と致します。有り難うございました。
(日本基督教団 小高・浪江伝道所牧師)
(注1)キリスト教共助会編 和田 正「ただキリストの十字架によって」、尹 鍾倬「日本人印象記」『沈黙の静けさの中で』、日本キリスト教団出版局、2010、79―100頁
(注2)小笠原亮一ら8名執筆『三・一独立運動と堤岩里事件』、日本キリスト教団出版局、1989
(注3)飯島 信「70年代を生きて」『福音と世界』、新教出版社、1979年10月号、28―29頁
(注4)飯島 信「共助通信 導かれて」『共助』、基督教共助会、1976年2月号