『共助』誌と共に歩む 菅山 あつみ
小高伝道所・浪江伝道所について
この度、飯島 信牧師から依頼を受け、誠に不勉強な一誌友ですが、ここにペンを執らせていただいております。
『共助』は日本基督教団 長野教会員であった父母が読んでいたためいつも身近にありましたが、丁寧に読んだことはありませんでした。2022年3月に教員を退職し、『共助』をはじめ今まで読みたいと思っていた本を存分に読むことができるようになりました。そして同じ年の4月、飯島 信牧師が福島県南相馬市にある小高伝道所の牧師になられたとの知らせは、今後の信仰生活の在り方に思いを巡らしていた私にとって大きな励みとなり、『共助』を通して学びを深めていこうと思いを新たにしているところです。
飯島牧師は『共助』2022年第1号の巻頭言「創立103年目を迎えて ― 試練の地に向かった先達に想いを馳せる」の中で、共助会の使命について「試練の中で重荷を負う人々を尋ね求め、その荷を分かち合いつつ、福音を宣べ伝えることにあるのではないかと思う。創立103年を迎え、聖霊による導きの中に、この歩みを力強く前進させて行きたいと願うのである」と述べられました。この言葉は2024年第1号の宋富子(ソンブジャ)さんの寄稿「新しい出会いは神の摂理」の中で知ったのですが、小高に教会を建てるという業はまさにこの共助会の使命に沿ったものであると考えます。
今暮らしている仙台で私は日本キリスト教会 仙台黒松教会に所属していますが、洗礼を受けて約10年の間日本基督教団 中渋谷教会の会員でした。仙台に来た最初の頃は、中渋谷教会や共助会関係の集まりから離れ異なる教派で教会生活を送るのを
心もとなく感じたこともありました。中渋谷教会の元牧師で結婚式の司式をしてくださった嶋田順好先生が2014年から宮城学院大学の学院長として仙台に来られ黒松教会で説教をしてくださったときは、懐かしい思いでお話を伺いました。そして、目白聖書研究会で知り合った飯島 信牧師から時々送られてくる共助会修養会の案内は、教職と子育てに追われ思ったように教会生活を送ることができない私にとって、いつかもっと信仰の学びを深め信徒として奉仕をしたいという願いに希望を与えてくれました。
前述しましたように、小高・浪江の地に飯島 信牧師が赴任したとの知らせに大きく心を動かされたのですが、その理由は自分が東日本大震災を経験しているからというより、地震・津波・原発の三重苦を負った福島の過酷な現実を常日頃耳にしていたことにあります。
2011年3月11日大地震が起きたとき、私は海に近い宮城県の公立高校に勤務していました。職員室の教材や書類が一気に崩れ、4階にいた生徒たちがあまりの揺れの強さに泣きながら階段をおりてきました。校舎にはそれほど被害はなかったものの、学校に通じる国道45号線は海から川に逆流してきた水に呑まれた車で寸断されました。亡くなった人たちがそのまま中に取り残されている車もありました。生徒は家族のもとにすぐに帰りたがり、夕方5時ころ下校させたのですが、途中で道路に水が押し寄せたため学校に戻ってきた者や、歩道橋の上で夜を明かした者がいました。
宮城県の津波による被害は相当なものでしたが、福島が原子力発電所事故により負わされた被害は別の深刻さがありました。津波で子供を失くした家族は、放射能による汚染で海岸が立ち入り禁止になり、子供の遺骨を探すことができませんでした。東電福島第一原子力発電所から20キロ圏内にあった小高は、2016年7月まで帰還困難地域に指定されました。地震前小高伝道所に通っていた方の大半は福島市など近隣の地域に移住し、一人の教会員の方が残って礼拝が再開される時を待っておられるという状況でした。原発事故後には住民に対し補償金が支払われましたが、その在り方をめぐって地元で様々な問題が起こっているとの現実も聞いていました。
このような状況から、小高に牧師が赴任して伝道所が開かれるということに驚きを禁じえず、飯島牧師にぜひ会って直接お話を伺いたいと考え、昨年11月にお尋ねしました。小高伝道所、付属の幼稚園、浪江伝道所を案内していただいたときに、抱いていた不安はいっきに消えていきました。小高伝道所の礼拝堂は飯島牧師の手によって整えられ、隣の付属幼稚園は、避難した子供たちが残していった遊具がそのままの姿で保存され、日常を断ち切られるということがどういうことなのかを語る記念館のようになっていました。浪江伝道所を訪ねたときは、建物を修理し周囲の草を刈り道を作った方々の働きが目に浮かぶようで、歴代の牧師の写真や蔵書、実際に礼拝で使われているというオルガンを目にすると、礼拝を守ってきた方々がそこにいるような親しみを感じました。
2023年9月には復興に向けて「小高夏期自由大学」が初めて開催され、その様子は2023年第8号に詳しく掲載されました。報告者の一人木村葉子牧師は「小高夏期自由大学に思う」の中で「現在『小高』で起こっていることは、混迷する我が国が負う課題であり、その開拓、希望の模索だと共感させられた」と述べています。三重の苦しみを経験したこの地で、もともと暮らしていた方たちと新しく来た方たちが力を合わせて活動の拠点をつくり、その中にキリストの言葉を伝える牧師が加わるという形が引き継がれていけば、教会が地域の役割を担い用いられるものとなるためのモデルとなると思います。
『共助』に学ぶもの
『共助』の意義は、書かれている方お一人お一人が現に信仰に生きている方であり、聖書の無機質な解説に終始するのではなく、直面している問題に取り組む過程での苦労や悩みが文章の中ににじみでて、同じように恐れや不安を抱きながら信仰を守ろうとする者の心を慰め、思考を深め、また前に向かって歩き出す力を与えてくれるという点にあると考えます。実際真剣にキリスト者として歩もうとすればするほど、様々な場面で疑問や問題が浮かんでくることがありますが、そういったことを乗り越えていくにあたり指針を与えてくれるのが『共助』だと思います。
今私が会員である仙台黒松教会は、開拓伝道を志した蓮見和男・幸恵先生夫妻が家庭集会などを通して信徒を増やし建てられた教会ですが、現在礼拝出席者・受洗者が減少しています。これは日本の多くの教会に見られることかもしれません。しかしこの状況を時代の流れだから仕方がないと捉えているのでは新しい信者を招くことはできません。将来に希望を持てるような教会にするにはどうすればよいかを考えるうえでヒントを与えてくれた文章に、少し前の号になりますが、2013年第7号に掲載された稲垣久和「戦後キリスト教の転回のために」と、小淵康而「私の歩み」がありました。
稲垣氏は冒頭に『基督教共助会九十年』終章で川田 殖先生が述べた次の言葉を引用しています。「共助会の使命はこのような教会の使命をよくわきまえつつ、そこにいのちの水を汲み、世に出でてキリストを証しし、福音の光を掲げ、互いの個性を尊重しつつ、神よりの賜物を生かして、教会の希いを各人の遣わされた場所において側面から支え、生活を通して地の塩となることにある。(中略)しかしそれにはこれらを生きた真理として証しする人格的な交わりの事実が相伴わなくてはならない。『言葉が肉体となる』真の証がここでも求められているのである」
この「共助会の使命」は教派を問わずそのまま「教会の使命」と置き換えることができるでしょう。稲垣氏はさらに「日本のキリスト教や教会に生活臭はない。きわめて観念的である」と述べ、人間生活の基本である家族やコミュニティにおいてキリストの体なる教会が果たすべき役割を説いています。「教会とキリスト教事業体は人間性の解放と回復に力を向けるべきだ」「生きることが喜びであるようなメッセージを語るべきだ」といった言葉から、教会の将来の展望について勇気を得ました。
さらに、同じ号にある小淵康而氏は、オランダの信徒神学者ヘンドリック・クレーマーと隅谷 三み きお喜男の言葉を引用しつつ、日本では牧師が神学書等で準備した説教が礼拝で行われ信徒がそれを聞くという制度化された教会が唯一の模範となっていて、説教を聞いて日常生活に戻った信徒の悩みや苦しみが礼拝とどうつながるかということが置き去りにされている点を指摘し、ご自身が行った「祈りのグループ」、「家の教会」といった実践を紹介していました。
仙台には、『西ドイツの精神構造』などの著作で知られる宮田光雄先生が、東北大学の学生などを集めて始められた「宮田聖研」があり、私も最近出席させていただいているのですが、この会は青年に対する宣教に大いに貢献し、支援学校や福祉事業に携わる人材を多く輩出しました。教会においてもこれに類する会、もちろん祈り・賛美・聖書のみ言葉は欠かせませんが、参加するものが各自の生活の中で経験したことを何でも話し聞いてもらえるような会を持つことができれば信徒のすそ野を広げることができるでしょう。
黒松教会では、昨年伝道礼拝の一環としてパイプオルガンコンサートを行いました。このコンサートの意義は、来場した方が礼拝に来るようになって信仰を告白することを期待するといった直接的な目標にあるのではなく、「ここにキリストの教会がある」という恵みを地域の方に示し、礼拝の中で神を賛美するオルガンの響きを楽しんでもらうといったシンプルな思いにあり、家族や友人を招く機会、未信徒の方に参加してもらう機会として、継続していきたいと思っています。
さて、教会が地域に用いられるものになるための在り方について『共助』から学びを得ましたが、これに加え、ロシアによるウクライナ侵攻、パレスチナとイスラエルの戦闘が続いている今日において、この状況を考えるうえで深い示唆を与えてくれた文章についても触れたいと思います。2023年第7号で片柳榮一氏は「ジャンケレヴィッチの怒りの根底にあるもの」の中で、高橋哲哉さんによって紹介されているⅤ・ジャンケレヴィッチの「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか」について言及しました。ジャンケレヴィッチはユダヤ人虐殺を行ったナチスを生み出したドイツを「罪を悔いない国民」と糾弾しています。以下は片柳氏の文章からの引用です。
「過去は私たちに、思い起こすことを求めています。それなしでは忘れ去られてしまう、とジャンケレヴィッチは言います。しかし他方、残虐に殺されていった人々の断末魔の苦しみは世界の終わりまで続くとも彼は呻くように語ります」
片柳氏は、第二次世界大戦後、本当のアジアの人民への日本による賠償がほとんどなされていない点にもふれており、全体を読み終わって、この世界に現にある消滅することのない悪や、悔いることを忘れられた罪の存在を突き付けられる思いでした。
『共助』と共に歩む
私の家は祖父の代からクリスチャンで、日本基督教団長野教会員でした。長野教会は、植村正久や高倉徳太郎などの指導を受けながらレーマン(教職者に対する平信徒)主義を貫きつつ形成された教会で、そこに集う教員たちは戦後信州教育における「人格主義教育」の担い手として働きました。夏季修養会に、浅野順一先生、福田正俊先生などが講師として招かれました。
大学生になってから、森明が開いた日本基督教団 中渋谷教会に通い始め、佐古 純一郎先生から洗礼を受けました。副牧師をしておられた山本元子先生のお宅には、少しの間ドイツ語をお教えするためにお邪魔させていただき、勉強の後に元子先生が作ってくださった夕食をいただきました。また中渋谷教会では当時礼拝の後、出席者全員が集会室で昼食を食べるという今では思いもよらないような豊かな楽しい時間がありました。両親が親交があった詩人の島崎光正さんがお宅で開催していたジャコビニ読書会にも出席し勉強させていただくと同時に、帰り際「明日食べてくださいね」と手作りの夕食を持たせてくれる夫人の温かさに癒されました。目白聖研で、飯島 信牧師、加藤(木村)葉子牧師と知り合ったのもこの頃です。
共助会に連なる方々、『共助』誌に掲載された文章に、節目節目で支えられてきた日々でした。森 明が共助会をたちあげるにあたって掲げた「主にある友情」の言葉をかみしめます。今後も『共助』から様々な学びを得、キリストと共に生きる方たちの確かな歩みに励まされ、キリストの十字架と許しを知ったものとして歩み続けたいと思います。(日本基督教会 仙台黒松教会員)