寄稿

エフェソ書を読むために― 若干の予備的省察 ―川田殖

パウロの獄中書簡の一つといわれる「エフェソ書」は昔からいろいろな考察がなされていて、結論の出ていない所が多い。結局自分でよく読み、考えて一応の見方をすることになろう。読む人の課題である。私はこれがフィリピ書の少しあと、コロサイ、フィレモン書とほとんど同時にローマで書かれたものと考えている。その理由を以下に少し述べよう。

(1)上記の書簡のうち注目される人物にティキコとオネシモの二人がいる。前者はパウロの伝道旅行以来の同労者(使徒20:4)で、パウロのもとからコロサイ書とエフェソ書を持参して、エフェソに遣わされた(コロ4:7、エフェ6:21のほかⅡテモ4:12)。後者はその時ティキコと一緒にコロサイに行った人だが(コロ4:9)、もとコロサイ教会の中心人物でありパウロのよき協力者でもあったフィレモンの奴隷で、主人の金の使いこみか何かで(フィレ18節)、獄中のパウロのもとに逃れ、回心して信徒となり、パウロのために働いたが、パウロは執りなしの手紙をフィレモン宛てに記し(フィレ10節)主人のもとに帰らせた。

(2)エフェソは当時、エジプトのアレクサンドリア、シリアのアンティオキアと並ぶ東地中海の三大都市のひとつで、ローマ帝国の属州アジア州の首都。小アジア西岸カイステル河の河口から5㎞、ローマとアジアをつなぐ交通・政治・経済上の重要拠点。宗教的には、多くの乳房をもつ多産豊穣の象徴とされるアルテミス女神の神殿で有名。

コロサイはカイステル河の支流リュコス川南岸の町。エフェソと東方諸国とをつなぐ貿易・文化・思想上の交流地。のちには下流にあるラオデキヤ、ヒエラポリス両地の方が栄えた。

(3)パウロは第3伝道旅行でエフェソに3年間滞在し(使徒19章)、伝道も進み、教会も成長した。しかしアルテミス神殿事件(使徒19:23―41)で、ここを去る。その後の交わりも深かったことは、ここの長老たちへの決別説教からうかがわれる(使徒20:17―38)。

コロサイ教会はパウロの同労者エパフラスの設立(コロ4:12―13)。地理上の位置から東西文化交流の接点として種々の哲学思想や宗教が流入し、キリスト教は原始教会以来の正統的信仰(使徒2:22―36、13:16―41、Ⅰコリ15:1―8、さらにはローマ書全文)が危機にさらされた。パウロはエパフラスからそれを聞き、コロサイ書を書いた。

(1)この危険な異端思想と思われるものは、のちにグノーシス(霊による高度の認識)といわれる一種の宗教哲学的世界観と救済論、生活方針を掲げる混合宗教で、ヘレニズム時代に近東で始まり、ローマ世界でも流行した。その特徴は霊魂の清さと神秘性に対し、肉体の汚れと堕落を対立させる霊肉二元論で、それによれば人間の尊さは霊魂に含まれる神秘的な力にあり、この霊力が宇宙に充満(プレーロー)し、それを動かしていると信じ、この霊力を働かせて宇宙の秘められた計画(奥義、ミュステーリオン)を悟って生きることが人間の理想だとされる。肉体は堕落しているから戒律を守り禁欲につとめ、そのために種々の修行、儀式を行うべきだと主張した(こうした考え方は当時のストア哲学などのヘレニズム思想や、ペルシアのゾロアスター教、インドの原始仏教などとも部分的には似ているといえる)。

(2)ここからするとキリスト教は霊のキリストと肉のイエスとを混同した誤りであり、神の子(ロゴス、ことば)が人間イエス(肉)として生まれたという「受肉」、救い主(神の子)が捕えられ、裁かれ、十字架につけられるという「受難」、肉体の死後、神から新たな生命を授かるという「復活」など、すべて霊と肉とを混同した誤りにほかならず、これを救いの要件とすることは不合理の極みということになる。

さらにさかのぼれば、旧約聖書以来の天地創造の神は低級な物質界や神に逆らう人間を作った不完全な神であり、最高神とは認められない。むしろ全知全能の霊力こそ神(々)であり、人間もそれと同根であると考える方が理に叶っているとした。(こうした考えは今日のインテリ無神論者の共感を買うのではないか。)

(3)パウロの出身地が小アジア・キリキア州の首都タルソスであり、アテネやアレクサンドリアと並び称され、ギリシア哲学の学校もあったこと、また信仰的には柔軟なヘレニズムユダヤ教の環境で育ち、若き日にはパリサイ派の権威ガマリエルの門下としてエルサレムで教育を受けたことはよく知られている。彼が回心してキリスト教の伝道者となった後も、小アジア、ギリシア、ローマで活躍し、異教・異文化との交渉に深い思索を迫られたことは、例えばⅠコリ1:18―2:16やローマ1:16―32、9―11章などに明らかである。

また彼が信じてきた神は旧約以来の主(ヤハウェ)で、その性格はたとえば、出エジプト記34:6―7にあるように「憐れみと恵み、慈しみとまことに満ち、罪・咎・悪を赦す神、しかし、罰するべき者をば決して赦さぬ神」であり、また生活の中で語りかけて応答をうながす歴史的人格的な生ける神、やがて預言者たちを通して明らかにされる愛と正義をもって、世界を裁き救う唯一の神であることが彼の不動の信仰と認識となっていた。

その彼から見れば聖書の主題は宇宙の創造と完成であり、その核心は人間の堕罪と赦し、信頼関係の断絶と回復という救済論にあることがわかる。回心を通してイエス・キリストによる救いこそ宇宙の完成の核心であることを悟り、キリストにおいて示された神の愛への応答として生きることこそ、まことの知恵・知識と実践を一体とした生活であり、それを可能とする神の心と力(聖霊)をいただく事実を彼は公私の生活を通して確信した。

このようなパウロの信仰からすれば、当時のグノーシス思想は「救いをよそおう空しいだましごとの哲学」(コロ2:8)以上のものではなく、人間の本当の救い(罪と死からの自由、愛にもとづく生活)、問題の本当の解決ではない。まことの救いは、まことの神の子イエス・キリストを通しての霊による働きにあり、その働きは、恵みによって召された者たちの集団(エクレシア、教会、召団)に集中する。

神はこのエクレシアを人間の救いの核心、宇宙完成の要かなめとして、人の思いをはるかに超える創造と救済の計画(オイコノミア、宇宙を家とみた経営計画)を実現する。具体的には神のひとり子にして救い主たるキリストを中心とした召団によって、それを実現する。これこそグノーシスが詐称する(救いの)知恵と知識の完成である。

キリストは、彼らの言う誤解どころか円熟した者の語る知恵と知識の力あふれる完全充実体(プレーローマ)である。コロサイ書はこのような考えによって異端を排撃するばかりか、「壮大なキリスト論」を展開してグノーシス主義を圧倒し、教会の意味を再確認するのである。そのキーセンテンスはコロ1:13―20であり、その根本的考えはコロ2:3である。

以上のような背景の中でエフェソ書を読んでみよう。ここでは特徴的な点だけを取り上げる。

(1)まず注目すべきは書き出しにも結びにも固有名詞がないことである。いわば、みなさま宛の公同書簡で、特定の人、特定の教会に限らず、ティキコが接するエフェソの人が宛先になっていると考えられる。

(2)本文に入ってまず戸惑うのは壮大な神賛美で、原文は1:3―14まで一つの長文、関係代名詞でつなげている(ローマ書の書き出し文を思い出させる)。重ねて出てくるキーワードは祝福、選び、予定(あらかじめ定める)、賛美の四つ。

ポイントだけのべれば、⑴ 「祝福」とは日本語では「幸福を希い祈ること」だが、聖書の脈絡では「(神が被造物の)繁栄や幸福のための力を与えること」(例 創1:22、28、2:3、14:19など)、さらに「そのようなものとして神から賜わる恵み」のこと。⑵ 「選び」とは日本語では「心に叶ったものをとり出すこと」だが、聖書の脈絡では「神が恵みと自由意志をもってよび出すこと」(例 申7:6―11、Ⅰコリ1:26―31、いずれも必読)。

⑶ 「予定」とは日本語では「あらかじめ計画すること」だが、聖書の脈絡では「人間の思いに先んじて神が選ぶこと」(例、エレ1:5、ロマ9―11章)。また⑷ 「賛美」とは日本語では「ほめたたえること」だが、聖書の脈絡では「神のみわざに対する感謝の応答」、例はあり過ぎる程ある。

第1章にはこれらの語のくり返しの上に「キリストにおいて」(時にはキリストによって)というパウロの愛用語が幾度も出てくる。これは、自分とののっぴきならない生命的・人格的つながりをのべたもので、祈りつつ神の心と力(聖霊)をいただいて生きる中で感得されることがらである。

7節から19節までは、その「キリストにある」信仰と思想が、まず聖霊と神の力による実体験の証明としての贖罪すなわち「キリストの十字架の死と復活の生命をわがこととして全人格的に受けとる応答」に加えて、それを土台とした省察と感得によって、神の予定(人知に先んずる計画)の奥義を知らされる消息を述べる。その奥義をひとことでいえば、神が万物をキリストにあってひとつにまとめ、和解と平和の根本を実現することである。

(3)20節以下、これを使命として与えられているのがエクレシア、すなわち神の恵みによって選ばれ、キリストの贖罪にあずかり、召されて神の愛の充実体(プレーローマ)として存在する召団である。キリストはそのエクレシアの頭であり、エクレシアはキリストの体、有機体である。(この意味ではエクレシアは旧約新約全体を貫つらぬく神の心と力によって導かれる者たちの群れである。)

(4)以上の大筋が会得できれば、エフェソ書のむつかしさはいくらか薄らぐのではないか。第2章は以上の見方を読者の現実にあてはめて省察したもので、異邦人はもとより、全人類・全世界が心から願っている平和、和解、信頼、協力の根源的あり方は、神の前に個人(あるいは集団)エゴイズムが粉砕されて、新しき人新しき集団が誕生すること、しからざれば、そのようなことを心に望みながら住み分けて交流をすることであり、そのいずこにもエクレシアが有機体として存在活動することだと論を進める。

(5)第3章の前半は、そのような壮大な使命をもつエクレシアの形成に参与するパウロ自身の仕事への省察である。獄中にいながら、その心のなんと自由で広いことか。苦難をのりこえる人間の心のおきどころを反省させられる。後半はそのパウロの祈りであるが、その壮大さを見よ。内村鑑三の最後の祈りが、「宇宙の完成」であったことが思いあわされる。

(6)第4章以下は以上のキリスト論、教会論にもとづく具体的な教会生活、社会生活上の勧めである。キーワードは「聖霊による一致」。ともに神の心と力をいただき、有機体の一員として、個性を生かして共同体のために尽くす人間のあり方が具体的に記されている。ことに4:25、32など、深く味わい実践したい。

5章においても実践的勧めは詳細を極める。パウロの長年の伝道体験の発露ともいうべく、今日においても、そのまま当てはまることが多い。22節以下は夫婦・親子・主人奴隷の関係を教会論に照らして述べたものであるが、聖霊による一致があれば、外形は柔軟であるべきだろう。単純に時代遅れの見解として全否定されるべきかを考えたい。

(7)パウロはしかし信仰においても生活においても、人間的な心構えと努力で、すべてが解決できるとは思わなかった。ローマ書7章後半に記したような肉の弱さを身に染みて知っている彼は、人間の体と心を神から引き離そうとする悪霊の力をリアルに感じていた。すでにローマ書8:38―39に記された悪霊的な被造物は、エフェソ1:21では「支配」(アルカイ)「権威」(エクスーシアー)「権力」(デュナミス)「主権」(キュリオーテース)などの、堕落天使の名で出てくる。

また、エフェソ2:2では、「空中の権を持つ霊」として出てくる。これらは、空中にありつつ、地上にもその誘惑力を及ぼすとされていた。人知・人力には限りがある。イエスでさえ悪魔と戦うには神の言葉と祈りが必要であった(マタ4:1―11、引用はすべて申命記8:13、6:16、6:13)。悪魔の策略に打ち勝つには信仰の武具を身につけて、御言葉にもとづく祈りを力として生きることをすすめている。

(8)以上を、エフェソ書を読むにあたっての着眼点を若干の省察として記したが、ほかにも注目すべき点が多々あることはいうまでもない。しかし、それとともに望まれるのは、祈りと実践の中でこれらを読むことである。コロサイ書、エフェソ書のような高遠な議論を展開しえたパウロが同時にフィレモン書を書き送ったことを心に刻みたい。

(1)ちなみにフィリピ書は先にも触れたように、おそらくコロサイ書よりも前に記されたものである。理由は3:2以下にあるようなユダヤ教律法主義者への警告で、伝道の初期からパウロを悩ませたものである。しかるにもかかわらず、この書にはフィリピの人たちに対する感謝と愛情が溢れている。苦難のなかの「喜びの手紙」といわれたゆえんである。しかもすでにこの手紙にパウロの視野の広さ、関心の深さは2:6―11の「キリスト讃歌」にいかんなく発揮されている。そこにはすでにキリストの宇宙論的意義を語る土台があるとみることができるだろう。

(2)先に見た異端への警戒は、いわゆる「牧会書簡」(テモテ前後、テトス)にも見られる。1テモ第1章には、明らかにコロサイ書と同じ種類の宗教思想への警戒が見られる。

若き日よりパウロと行動を共にし、獄中までも従い、最後にはエフェソで教会の監督ともなったテモテへの信頼関係とともに、エクレシアのために尽くすべきことに真剣なパウロの姿が見られるのではないか。同じく同労者でクレタ島へ困難な伝道をしているテトスへの手紙の中にも同様の配慮が見られることは、エクレシアの健全な成長を脅かすものが依然としてはびこっていたことをうかがわせる。

(3)以上はエフェソ書そのものを理解するためにも他の書簡を読んでみることの有用性に気づかせるが、さらにさかのぼってイエスと原始教会のあり方を福音書や使徒言行録前半で知ることはもっと大切である。イエスに始まった福音の伝道と広がりは、エフェソ書にみられるような思想的展開にまで至り、さらにはその後の古代教会の進展につれてギリシア哲学やローマ

文化との折衝が盛んになるが、それは進展である一面、また合宗教になる惧おそれをも含んでいる。のみならず、さきに一言したように、宗教や哲学の多様性は今の東洋にも溢れており、それがキリスト教に及ぼす影響は正負両面で、無視できないものがある。いっそうの学びの課題としたい。

しかし何よりも大切なのは、聖書自体を全体としてよく読み、よく考えること。自他の生活や歴史と照らし合わせて、わがものとすることである。それには自分自身の努力が大切なことはいうまでもないが、共同の生活の中で、共同の学びと共同の祈りが加われば、なおよいであろう。聖書は元来、エクレシアの中で生まれたからだ。佐久での学びでそれを体験できれば、なによりだと思う。      2022年5月24日

(哲学者 日本基督教団 岩村田教会員)