追悼

志垣 暹先生を偲ぶ 川田殖

私が志垣先生と出会ったのは1970年春、国際基督教大学を辞めて佐久に引きこもった時だ。あとでわかったことだが先生は1930年5月7日韓国のお生れ、幼い時に父上を亡くし、母上の手ひとつで育てられた。敗戦後、母上のご郷里九州に引き揚げられ、キリスト教主義の高校卒、やがて上京して日本聖書神学校に入られた。軍国少年から福音に目覚める価値転倒の中で、その間のドラマは察するに余りある。渋谷の聖ヶ丘教会 ― 当時稲垣守臣牧師 ― に出席され、よき学友がたと共に聖書研究に集中された。

1960年、前牧師病気療養中のところ、懇請されて、岩村田教会に赴任、以来30余年、人生の盛りの大半をそこで過ごされた。その間、日本聖書神学校長で池袋西教会を牧しておられた金井為一郎先生の紹介で1961年、池袋西教会員で付属いずみ幼稚園教諭の持田たけ子さんと結婚、めぐみさん、創そうさんの二児を与えられた。私たちもほぼ同様の家族構成だったので、家族ぐるみの付き合いをさせていただいた。

岩村田教会の礼拝は極めて厳粛、志垣先生の説教はいわゆる雄弁ではなかったが、実に着実な聖書研究の上に立った福音的説教であり、心に沁みた。その準備には時と力を尽くされ、ご家族からみても、いたましいほどの念の入れ方だったという。さらに感服するのは、次週の週報には簡潔ながら実に的確な「先週の講壇」と題する要旨がのせられ、私たちは、それによってメッセージを再確認、おさらいすることができた。30年に亘るこの記事だけでも立派な著書になるだろう。それほど先生は説教に心血を注がれた。

しかし先生の本領はそれにとどまらず、あるべき牧者としての心がけと実践において卓絶していた。家庭訪問や病気見舞いは言うに及ばす、困った人があれば時と所を問わず、早速相談に応じ、対策を講じ、問題の解決まで、ご夫妻で労を担ってくださった。酒乱の息子をなだめに行ったり、夫婦喧嘩の仲裁に入ったりすることは日常の茶飯事で、こうしたことは会員のみならず、保育園の保護者がたにも及んだ。私の妻が交通事故に遭ったときも、妻の一言で連絡を受け、ご夫妻が万事を整え、つきそってくださった。当時、大阪勤務で、その帰途車中の私は、家に帰ってそのことを知り、上田に入院の妻の所に行く始末であった。その間なお幼かった息子たちの配慮をいただいたことも言うまでもない。30有余年に及ぶこのような先生(ご夫妻)の「信頼できる人」との声望が、保育園の保護者のみならず地域一般に広がっていたことは当地の人びとが何よりもその証人であろう。ほんとうの牧会とは、このようなことかと私も深く教えられ、反省させられたことが多い。しかも先生は右の手のしたことを左の手にも知らせない方だった。敬愛の思い、いや増すばかりである。

先生はすでにその頃開かれていた佐久学舎にも参加され、毎日必ず出席された。この場合は礼拝と違って、ほとんど発言されず、ひたすら聞き役に徹せられ、その会の最後の祈りにすべてをこめられた。言葉が多くなりがちな私などは教えられることが多かった。

やがて共助会への入会のご希望があり、私たちは心から喜んでお迎えしたが、この時にも先生の謙虚さはいささかも変わらず、たいていはその存在さえも感じさせないほどだった。しかし今に残る先生の『共助』への寄稿を見ても、先生がいかにこの会を理解信頼し、一員としてそれに心から加わっていてくださったかがよくわかる。まさに「汝いま知らず、のち悟るべし」の主のことばを思い合わさずにはいられない。共助会は先生のような方によっても支えられていることをしみじみ思い合わされる。

ちなみに同じことは本号に寄稿された鷹野禮子さん・則昭さんにもいえる。このご夫妻がいかに志垣先生ご夫妻と苦楽を共にされたかは知る人ぞ知るであるが、その行きとどいた心づかいとお仕つらえは、一度でも佐久学舎に参加した人ならば忘れることはできないだろう。禮子さんは志垣先生ご夫妻のあとの小雀保育園の園長として多年にわたりそのご奉仕を続けられた。その仕事は志垣ご夫妻の精神を継ぐ配慮と実行であって、卒業生の子どもたちはいうに及ばず、その保護者がたが時を越えて信頼と感謝を持ち続け、それがこんにちの盛んな教会学校となっている。ひとつの伝道の心すべきあり方ではないか。

志垣先生はおのれをほとんど語られない方だった。だから、先生の内外の面について、知っている共助会の人はほとんどいないかも知れない。しかし先生に接した人ならば忘れることのできない印象と感銘を与えられる方でもあった。礼拝や集会が伝道であることは勿論だが、その土台には教えを聞いて実行すること、さらにその土台にある人格や存在が伝道であり、教育であることを思わずにはいられない。今や先生世になし。しかしその祈りと愛労は心ある人のうちに生きていて、燎原の火のように他に燃え移って行くに違いない。私たちはこのことを覚えて残されたいささかの生涯を先生にならって歩みたい。先生と生活労苦を共にされたたけ子先生もいまや老齢、ホームに入っておいでだが、いただいたご恩を感謝するとともに、主の御守りを切に祈る。2024年4月

(日本基督教団 岩村田教会員)