追悼

志垣 暹(あきら)牧師先生追悼 鷹野禮子

2023年のクリスマスを前にして、12月2日、 岩村田教会28代牧師、社会福祉法人湧泉会小雀保育園の初代理事長であった志垣 暹先生が天に召された。93歳のご生涯であった。日本基督教団 岩村田教会、社会福祉法人 湧泉会 小雀保育園の歴史の中で忘れてはならない牧師としてのお働きを記したい。

志垣牧師は1960年4月、岩村田教会牧師として着任、翌年牧師夫人であり小雀保育園の主任を務められたたけ子夫人と結婚。34年の永きにわたり、キリスト教伝道の困難と言われた信州佐久の地で牧会、幼児教育に尽くされた。

岩村田教会百年史には1980年に新しく教会と保育園を建てられた時の想いが綴られていて、私はこれを読むたびに偉大な牧師の祈りに心打たれる。

《「神の作品」 志垣 暹牧師「ともしび」第一号より》

「入り口を入って、スーと見上げる天井の高さは、天を仰ぎ見て人間の狭い思いを捨てさせ、更に自分の倣慢な思いを捨てさせ、神を仰ぐ気持ち、神のみ言葉を聴こうとする気持ちを起こさせる。梁の緩やかなまろやかさが天井で一つとなり、ステンドグラスから流れ来る様々な色あいは、神のあわれみに包まれたように、ひときわ強調するかのように語りかけてくる。

教会の外観は、まずその色調が何とも柔和で嬉しい。何の気負うところとてなく、ひときわ高く立つ塔に一切が集約されている。その塔は十字架を仰ぐことによって8本の支柱にユニティーが形成される構図となっている。罪赦されることから生まれる一致、ここに教会存在の理由が具象的に、そして対外的に宣言されている感が強い。一体このような会堂が与えられようとは、だれが予想しえたであろうか。

忘れもしない。一昨年の2回に及ぶ臨時総会を。私たちは墓地建設に引き続いて、息つく暇とて許されない侭に教会改築という大事業を決断するべく導かれたのであった。行く先を知らずしていで行くにも似た、無謀とも思える決断に不安もないではなかった。ひたすらな祈りがいつとはなしになされていた。意見の一致を見ない時など、沈痛な重苦しさを通らねばならなかった。

信徒数20名がやっとである。礼拝、祈祷会ごとになされる祈りに何度慰めと励ましを与えられたことか。何にもまして感謝すべきは、神が最善の道を備えてくださったことである。

今回の建築を通して神の絶大な富こそ私たちの立つべき根拠であることを示された。この神の愛の確かな根拠がわからないと、私たちの信仰は中途半端なものになってしまうのではないか。あの聖書冒頭の創世記天地創造に宣言されているように、神の永遠の愛に支えられてこそ、私たちの存在意義が確立されるのだ。「建築は金ではなくて人である。否、神である」との経験を与えられて私の胸は今も膨らむ思いである。

私たちは、目に見えるものの奥にある恩寵の事実に盲目であってはならない。かつて、初代教会の先達が、キリストにある愛の勝利の故に、苦難にあえいでいる人々に希望を与え新しい命を植え付けていったように、キリストのいない所に、教会は存在しないことを銘記し、前進すべきものでありたい。

1980年8月31日教会と同時に建てられた小雀保育園は公的な福祉施設であるため、国や県の補助金を受けて建築がなされたが、教会は宗教法人であるために一切の補助金を受けることはできない。小さな田舎の教会である。20人足らずの信者で、夢のようなはなしである。志垣牧師は常々説教の中で「神が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」「人にはできないことも、神にはできる」と語り「どうか、岩村田の地に新しい教会を与えてください」と熱心に祈り続けておられた。そして「祈りは必ず聞かれる」ことを、志垣牧師はすでに確信されていた。

勿論、教会員も本気で祈り献金をささげた。だが、志垣牧師夫妻がすべての蓄えを捧げ・尽くされて、教会は完成したのである。

私の夫が当時教会の会計役員であり、建築会計役員でもあった。牧師の給料は低く、夫はいつも「せめて普通のサラリーマンぐらいの給料を差し上げたい」と口癖であったが、教会員の献金だけの収入ではとても無理であった。田舎の教会が、幼稚園や保育園の運営をしている目的の第一は勿論キリスト教の伝道の為であるが、牧師の給与だけでは生活できないため、園長としての給与を合わせて何とか普通の生活レベルをキープするための目的もあったのではないかと私は思っている。志垣牧師夫妻は、赴任してからの牧師給与を蓄えられていて、それをそっくり献金されたのである。教会では個人の献金額は公表しない。感謝のしるしとして、自分と神との契約の捧げものである。教会の会計責任者だけは教会員の献金の額を知りえているが、一切公にすることはない。志垣牧師夫妻の献金を夫が公にしたのは、牧師夫妻が34年間の岩村田での働きを終えて、宮城県角田市の角田教会に開拓伝道を決意され、岩村田教会最後の役員会の席であった。それは莫大なささげものであった。

教会と同時に新築された小雀保育園は2階建てで、廊下も広く、明るく、暖かく、トイレも気持ちよく、子どもたちにとっても先生たちにとっても、使い勝手の良い設計がなされていた。礼拝堂は、今も、幼児礼拝、入園式、卒園式、幼児祝福式、クリスマスページェントが行われ、創立者賀川豊彦牧師の遺言「魂への彫刻」にふさわしい、厳かな小雀保育園の大切な教育の場所となっている。

私は志垣牧師と28年間生活を共にした。その間、志垣牧師の誠実で暖かいお人柄を忘れることはできない。先生ご夫妻の日々の生活を通して「神様が一番 !」の聖書の教えを確かなものにできたと信じている。

現在の礼拝堂と保育園は建築からすでに44年が 過ぎた。多くの人たちは、この建物の美しさに老朽化を感じないと言う。志垣牧師の信仰と篤い祈りをつぶさに見聴きしていた私たち夫婦は、特に教会の建物はわが子のように大切に守ってきた。

美しさ、厳かさを損なわず、修理、手入れを惜しまず、つい最近できた建物と思われるように愛情と誇り? を忘れたことはない。

「先生、楽しいこともいっぱいありましたね。岩村田教会で最後の送別礼拝をして大勢の街の人たちや、教会関係者が涙をもってお送りしたのに、街はずれの住吉町まで行ってから、すぐ引き返して、誰にも見つからないように、保育園の水洗化トイレの設計図を引いたこと。だって、明日までに提出しなければ、来年度の補助金が受けられず、後を任された私が困るのでそうせざるをえなかったのですよね。水洗トイレはそのときの賜物です。そして 『サンキューベリーマッチ』は先生の口癖。先生、あの時は本当に『サンキューベリーマッチ』でした」。

「天に宝を積む」「神と人から喜ばれる」志垣牧師が語り実践された聖書の言葉を、私も生きる者でありたい。先生と苦楽を共にできた幸せな時間を噛みしめ、いつの日か神の国にての再会を信じながら。       (日本基督教団 岩村田教会員)