橋爪長三兄を偲ぶ「右手が使えるようになったヨ!! 」伊藤 道雄

ハワーちゃんは8歳のかわいい女の子です。生まれながら右手に障害があり、手を開いたり、握ったりすることが出来ません。それでも左手を上手に使いながら、何でも出来る賢い子どもです。しかし障害があるため、様々な差別を受けてきました。学校に行きたくても行けません。特に食事が大変です。

彼女の住んでいるところは、バングラデシュの片田舎ボグラという所で、貧しいながらごくごく普通の家庭です。六人兄弟姉妹の末っ子で、みんなにかわいがられスクスクと育っていますが、何せ右手が不自由です。右手が使えないため、食事はみんなと一緒に食べることが出来ないのです。イスラム教の世界では、右手は潔い手、左手は不浄の手と言われており、食事は右手で食べます。左手で食べることは決してありません。主婦は給仕 のため最後に食べるのが普通です。ハワーちゃんはみんなの食事が終わった後、炊事場の土間で隠れるようにして左手を使って食事をするのです。外に出て近所の子どもたちと遊ぶこともないのです。ご両親は心配になり、バングラデシュ中の高名な先生を訪ねていったのですが「治すことは不可能です」と言われ、さらに日本の東大にあたるダッカ大学の有名な先生からも、「どんなにお金を積まれても無理です」と見放されてしまっていたのです。がっかりして希望のない日常に戻っていくのが常でした。

そんな中、日本から短期で整形外科、外科チームがボグラに来て無料で治療してくれるとの噂を聞き、藁にもすがる思いで一縷の望みを抱きながら診てもらったのでした。幸いなことに、この医療チームの中に橋爪長三先生がいたのです。

橋爪長三先生は信州大学医学部を卒業後、整形外科医局に入局されましたが、手の外科に興味を持たれ、中国に渡り、ハンセン氏病の患者さんたちの治療、さらに瀬戸内海の長島愛生園に勤務されながら、大勢の方の手の再建をてがけ、独学で新しい再建術式を考案されました。手の外科の世界では新潟の田島か、信州の橋爪か、と言われる位、一、二を争う先生で、最先端の医療を提供されていたのです。教科書には載っていない術式を考案され、バングラデシュでも、大勢の患者さんを治療されて、みんなから感謝されていました。

1991年にバングラデシュで大洪水があり、約10万人の人が死亡しました。その後長年バングラデシュで医療協力活動をしてこられた宮崎 亮、安子先生ご夫妻が帰国され、新生病院に赴任されました。そして翌年1992年から短期でバングラデシュの医療協力をされたのです。そのチームに橋爪先生や私も加わり協力するようになりました。

橋爪先生はハワーちゃんの手を診察し、「難しい手術になるけど、きっと右手は使えるようになりますよ」と言って手術をしました。手術は大成功でした。本人はもとより御両親も大喜びでした。

翌年、再びボグラの病院へ行ったとき、ハワーちゃんは「右手を使えるようになったヨ」と小さな本を右手でつかんで、持ち上げて見せてくれました。どんなにかうれしかった事でしょう。今では 家族みんなと一緒に食事ができ、外に出て友達と遊ぶことが出来るようになり、学校へも通っています。ハワーちゃんは「これから一生懸命勉強し、 将来は看護婦さんになりたい」と目をかがやかせ話してくれた姿は今でも心に残っています。

橋爪長三先生は天に召されましたが、先生の残された功績は、いつまでも人々の中で生き続けることと思います。最後まで主に仕え病んでいる人々に仕えた先生の足跡は、残された私達の歩むべき道を指し示していてくださっているように思います。橋爪先生に倣う者となりたいと思います。(日本基督教団 長野本郷教会員)
《「長野教会通信」ぶどうの木 第29号からの転記》