歩み続けて 橋爪 範子
橋爪長三(ちょうぞう)兄は私の夫裕司のすぐ上の兄で、5人兄弟の下から2人目に当たる。生家は天竜川が流れる長野県伊那市の駅近くにあり、当時食料品を商っていた。家族に聞くところによれば二人の関係は、兄が釣り竿を持って「釣り行くぞ!」と声をかけると弟は「ハイ!」とビクを持ってついて行くというようなものだったと。弟にとって、常に一歩前を歩いてくれた頼りがいのある兄だった。
彼らがキリスト教に出会ったのは伊那の黙然庵集会。きっかけは長三兄が近くの友人宅へ遊びに行き、大声で歌を歌っていたらすぐ下に住まわれる集会の主宰者で音楽の先生から声がかかり、歌のアドバイスを受けると共に集会へも来ないかと誘われたという。弟もついて行くことになった。終戦後間もなくの旧制中学生の時代だった。やがてそこへ京都から、後には松本から和田 正先生が毎月来られるようになり、その後兄弟は先生から受洗した。長三兄は医師を志して松本の信州大学医学部へ進学し、和田先生の教会の一員となり、松本を離れるまで導きを受けて来た。
昨年わが家で本棚の本を出し入れしていたら1961年発行の『共助』誌が出てきた。奥田成孝先生の書かれた「来て助けよ」という一文があった。先生が教会員を訪問するために国立ハンセン病療養所の長島愛生園へ行かれ、医師不足が深刻であることを聞いて書かれたものである。当時愛生園には入所者が1600人余りおられた時代であるのに医師は定員の半数程度だったようである。大学を卒業して医師になった長三兄は大学病院に残っていた。持ち前の正義感からやがて最も人の行きたがらない所で仕えて働きたいという志をもって夏休みには何度か愛生園へ研修に行っていたようであった。「来て助けよ」の声も当然聞こえていたに違いない。
1963年1月、奥田先生が訪問された教会員の一人で愛生園の眼科医だった共助会員の日比久子姉と結婚。整形外科医として愛生園で共に働くことになった。診療を始めてみると環境も設備も大学病院とは大違い。その中で不自由な手足が少しでも使える動きを取り戻してくれるようにと願い、絶えずその方法を考えていたようであった。後にあの時の体験は自分を育ててくれた本当に貴重なものだったと振り返っていた。バングラデシュでの働きもその経験あってのものだったかもしれない。
私たちは居住地が離れていたため、その後40年余は時折の手紙のやり取りや冠婚葬祭で顔を合わせるぐらいだったので、長三兄の生活について詳しくは知らない。息子家族と共に時折行き来するようになったのはここ15年ぐらい、私が数泊して訪ねるようになったのは長三兄が仕事を終えた後のこの3、4年ぐらいだっただろうか。朝は食前に聖書を読み、主の祈りに続き、各自が祈ってスタートするのが日課だった。長三兄は必ず罪を悔い、赦しを願う祈りをされたのが心に残っている。寒い冬の夜も夕食後一息ついたら別室に一人こもって聖書を読んでいた。90歳を超えても変わらぬ姿勢に驚かされた。
娘の知子さんに、自分が召された時には葬儀の奏楽にバッハの「おお人よ、汝の大いなる罪に泣け」を弾いてほしいと頼んだことがあったという。それを聞いた時、ふとあの婚約式の奏楽もそれだったのではなかったか? と思い出した。礼拝次第などが書かれている北白川教会の黒板に奏楽の曲名が書かれているのも珍しく、婚約式に罪に泣けとは?? と思ったこともあって覚えていた。当日の集合写真を探し出し、確かめたらやはりそうだった。奏楽を担当したのは弟の裕司、後になぜ曲名を書いたの? と尋ねたら「長チャが書けと言ったから」と答えたことを思い出す。新しい生活への出発にも、人生の締めくくりにも主のみ前に罪を悔い、主の十字架のゆるしの下に生きる決意、そして生かされてきた感謝の思いがあったのではないだろうか。
長三兄は仕事特に手術が大好き。手術のアイディアをよくわからない私にも熱心に話してくれたことが懐かしい。懸命に話す時の口をとがらせ、ワクワクするような表情は純粋な子どものようだった。60年に及ぶ主にある交わりにただ感謝あるのみである。
(日本基督教団 駿府教会員)
《故人略歴》
1929年(昭和4)5月1日 長野県伊那市荒井区通り町に生まれる。
1948年(昭和23)3月28日 松本日本基督教会伝道所で和田正牧師司式により洗礼を受ける。
1963年(昭和38)1月15日 奥田成孝牧師司式により日比久子と結婚。一男一女が与えられる。
1986年(昭和61)4月7日 妻久子を天に送る。
1988年(昭和63)10月10日 藤沢一二三牧師司式により牛越敦美と結婚。
2021年(令和3)10月16日 妻敦美を天に送る。
2022年(令和4)11月19日 午前5時43分召天、93歳。