【シンポジウム 発題2】イスラエル・パレスチナ問題をめぐって(二)シオニズムという問題 片柳 栄一
序
現在のイスラエルという国家を建てる原動力になったシオニズムについて考察したい。シオニズムが決して、ユダヤ教、ユダヤ教徒、そして現在のイスラエル国全体を代表し、表現するものでなく、近代ヨーロッパ社会より新たに生まれた、そしてその近代の抱えた様々の問題を、その特殊な運命において表現した思想であること、そしてその近代の問題は、我々日本も負わされた問題であり、現代の我々に共通に関わる問題でもあることについて考えてみたい。
Ⅰ シオニズムの特徴
ヤコブ・ラブキンによれば、シオニズムの主導権を握った潮流の特徴として四つが挙げられるという。
(1)トーラーを中心として民族の垣根を超えるものとしてあったユダヤ・アイデンティティを、他のヨーロッパ諸国の例に倣って民族的〈国民的〉アイデンティティに変容せしめること。
(2)聖書ヘブライ語、ラビ・ヘブライ語を基礎に据えながらも、まったく新しい通用語ないし国家語を発展させること。
(3)ユダヤ人をそれぞれの出生国からパレスティナへ移動させること。
(4)パレスティナの地に対する政治、経済上の支配権を確立すること。(ヤコブ・Ⅿ・ラブキン、『トーラーの名において―シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』、菅野賢治訳、平凡社、2010年、25頁)
Ⅱ 近代 思想としてのシオニズム
18世紀にヨーロッパで、近代社会が成立し、「人民主権」という理念が生まれた。そしてそれに触発される形で「ネイション」という観念も生まれたと言える。それ以前の農耕社会を支配していたいかなる王国も、人民の全体がその行政、およびその文化にアクセスするのを歓迎したことは決してなかった。国家の側からは、民衆の協力は無用に思われていたし、そもそも国家にはそれを実現するのに必要な、技術的・制度的ないしコミュニケーション上のいかなる手段もなかった。「この前近代社会で人口の圧倒的多数を占めていた無学な農民は、迷信や蒙昧主義の垂れこめる地元文化を永続させるだけだった。主権の支配下にある町の内部やその近隣に住む農民の場合、その方言は中央の行政言語により近く、その分だけ彼らは「民族(プープル)」と定義づけしうるような存在の一部を形づくっていた。それに対し、政治的中心から離れた地帯で耕作する農民の場合、彼らの話す地域方言と中央の行政言語のつながりは、稀薄であった。人間社会が「人民主権」の原理というよりも、むしろ「神授権」にもとづく統治原理のもとにある間は、統治者は臣民の愛をかちえようとする必要などなかったことを忘れてはなるまい」(シュロモー・サンド、『ユダヤ人の起源―歴史はどのように創作されたのか』、高橋武智監訳、浩気社、2010年、62頁)。
フランス革命による「人民主権」の観念、そしてそれを武器にして、解放戦争のスローガンのもとに隣国に侵攻したナポレオンが人々に与えた「自立した自らの国(ネイション)」への希望は、現在の私たちには想像できないようなものである。「主として商業資本主義、ついで工業・産業資本主義時代の特徴である社会的流動性の結果としての法的・市民的・政治的平等という意識は、したがって、参加してくる者を喜んで迎えるアイデンティティ上の避難所の創出に貢献した。……『民族』を、完全に自分の主人となるよう定められたネイションとみなそうとする政治的熱望を根拠づけるのもまたこのパラダイムである。こうした民主主義的な側面、つまり『人民の統治』は全く近代的なものであって、古い社会的な諸形態(部族・世襲王権下の農民社会・内部位階性をもつ宗教共同体、さらには前近代的な「……人(プープル)」)からネイションを根底から区別するものである。このような市民的平等という包括的感情と、みずからの運命の主人となろうと求める大衆総体抑えがたい渇望とは、近代化過程より以前のいかなる人間集団にもみいだせない。人々はみずからを主権をもつ存在と考えはじめ、政治的代表制を通じてみずからを統治しうると考えることを可能にした意識あるいは幻想が、ここに由来する」(S・サンド、同書80頁)。ところでナポレオンによって惹き起こされた激震は、ヨーロッパの西と東とでは、大いに異なる様相を呈した。そのことがシオニズム誕生を引き起こし、この思想に暗い影を落とすことになる。東欧のナショナリズムは国家主導で、フランス的な啓蒙思想、「人民主権」に反感を抱いていた結果生まれたものであった。したがってこのナショナリズムは、自らのうちの「異分子」を排除する方向に傾かざるをえなかった。その犠牲者がユダヤ人であった。「シオニズムは、19世紀、中央ヨーロッパの同化ユダヤ人たちの間に興った。彼らは、社会から排除され、反ユダヤ主義の標的とされた末、周囲の文化に完全に身を移したいという彼らの当初の意志が完全に拒絶されてしまったと感じていた。他方で、彼らは―そしてしばしば彼らの両親の世代も―もはやトーラーの教えを遵守しなくなっており、ユダヤ教の規範的枠組みに関する知識も失っていた。実のところ、彼らは、当時のヨーロッパを席巻しつつあった非宗教化の波に乗りながら、それでいてなお、一般と変わりない非宗教人として周囲の社会に受け入れてもらえないことに苛立ちを募らせていたのである」(Y・ラブキン、同書28頁)。シオニズムが、自由・平等をもとめて近代社会に溶け込もうとしたユダヤ人、しかも啓蒙化され宗教に対して批判的に成りつつあったユダヤ人が、その社会から拒否されたことの衝撃、苛立ちの中で生まれたことは、近代社会・国家のもつ矛盾を鮮明に表している。「しかし同化ユダヤ人たちのもとで苛立ちがいかなる域に達していたとしても、それが個々人の感情にとどまっているうちは集団の動きを起こすにはいたらない。その種の集団運動が一躍発展を見たのは、社会・政治状況がユダヤ人にとってより不利な場所においてであった。こうして東ヨーロッパ、とりわけロシア帝国の西の辺境一帯が実践的シオニズムの揺籃の地となった。シオニズム思想の伝播の様態には当時のユダヤ人たちの集団意識に生じつつあった決定的な変化が如実に映し出されている。シオニストたちは、まず、ユダヤ教との断絶を確実なものとするため、徹底した反宗教の宣伝活動に着手した」(Y・ラブキン、同書30頁)。そして東欧・ロシアで社会から排除された啓蒙ユダヤ人が中心になり、民族国家「イスラエル」を、それまでイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が平和的に共存して生活していたパレスティナの地に建設しようとしたことに大きな問題があった。「二十世紀初頭、ロシアから脱出したユダヤ人のうち、パレスティナへ向かったのはわずか一パーセントにすぎなかったが(残る大部分は北アメリカに渡った)、以後、これら少数のロシア・ユダヤ人がシオニズム運動の強固な中核を構成していくことになる。東ヨーロッパのユダヤ文化から産み落とされたこのシオニズムが、その後、重要なヴェクトルであり続けるだろう。シオニズムのエリート層は、みずからの過去を抹消してしまいたいという願望とは裏腹に、パレスティナの地に、東ヨーロッパ特有の文化と政治のモデルを再生してしまうのだ。この文化的覇権がまずは〈聖地〉に住まう敬虔なユダヤ教徒たち、ついでイスラーム諸国からのユダヤ移民たちの反感にさらされることになる」(Y・ラブキン、同書31頁)。
Ⅲ 正統ユダヤ主義からのシオニズム批判
伝統的ユダヤ教とは意識的に断絶して始まったシオニズムの主張は、正統派ユダヤ教から厳しい批判を受けた。ユダヤ教のうちで受け継がれてきた「三つの誓い」に正面から歯向かうものだったからである。「ユダヤ教の伝統において、この世の救いはもっぱらメシアの介入によってもたらされると考えられている。しかし同時に、ユダヤ教の伝統はこの点においてきわめて用心深く、ユダヤ教の古典、とりわけミドラシュには、「終末を無理強いする」こと、つまり贖いの到来を故意に早めようとする行いに対する厳しい警告が盛り込まれている。……タルムードは、イスラエルの民の残党が世界の四方に離散する前日に交わしたという三つの誓いを今に伝えている。いわく、民としての自律を獲得しないこと、たとえほかの諸々の民の許可が得られても〈イスラエルの地〉に大挙して組織的な帰還を行わないこと、そして諸々の民に盾を突かないこと」(Y・ラブキン、同書138―139頁)。
(旧約)聖書によれば、アブラハム一族自身、〈イスラエルの地〉の出身者ではなかった。〈約束の地〉ということも、そこに住まう人そのものを根拠にしてではなく、約束を与えた「神」のみを根拠にしているというのが、伝統的ユダヤ教の解釈であるという。「そもそもモーセ五書に従うならば、ユダヤ人―より正確には「イスラエルの子ら」―は〈イスラエルの地〉の出身者ではなかったことになる。彼らはエジプトの地において、あくまで流る 謫たくの民として姿を現し、ついでシナイ山の麓において、トーラーの授受を通じて民として聖別され、その他諸々の民から明確に区別されたのだ。〈約束の地〉という表現の意味するところは、まさに、その地が〈約束〉を受け取る側ではなく、〈約束〉を与える側に帰属しているということである。伝統的解釈によれば、トーラーがその書き出しを天地創造で始めているのは、〈イスラエルの地〉を含めて、この世の全土が神のみの所有物であること―「地は我のものなり」―ことを示すためであるとされるのだ」(Y・ラブキン、同書124頁)。
Ⅳ シオニズムに内包された人種主義
シオニズムが抱える最も大きな矛盾は、自分たちが受けた民族差別を回避するために、ユダヤ民族のための「国家」を設立するという目的を掲げるが、この純一なるユダヤ民族という考えが、他の民族を差別することになるという矛盾である。宗教としてのユダヤ教をもはや受け入れないで、なおユダヤ人の人種的一体性を主張するとすれば、その民族的アイデンティティは国家主義とも容易に結びつく。「危険なのは、それ(民族的アイデンティティ)が国家主義や権力への意志に姿を変えてしまうことである。それこそムッソリーニが意味していたところの民族的アイデンティティにほかならない。」(Y・ラブキン、同書101︲102頁)。
Ⅴ シオニズムの隆盛
シオニズムは、「国無き民」としての「流謫」のユダヤ人が、「民なき国」であるパレスティナに国家を建設するのだとのスローガンを掲げた。しかしそれは虚偽である。パレスティナにはすでに、アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒が平和に共生していたのである。「ユダヤ教徒であれ、アラブ人であれ、パレスティナの古株の住民たちは、『国なき民』の代表を自称する社会主義系の新しい移民たちが思い描く『民なき国』のイメージには折り合わない存在であった。シオニストたちは、数世紀来、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が共存する土地に新たに到来したのであった。しかしながら、シオニズム・イデオロギーに染められた彼らの目に、その〈地〉はあくまでも空と映っていたのだ」(Y・ラブキン、同書230頁)。
多民族共生の地にやって来たマイノリティのシオニストが、委任統治を始めたイギリス政府と結びついて、多数派にのし上がっていったのである。シオニストが多数派となる以前には、増え続けるユダヤ人と他の宗教の人々の間の「多民族国家」の可能性があった。そしてこの形にしか、パレスティナの地での「未来」はありえない。この可能性を求めたド・ハーンが暗殺されたことは、パレスティナの悲劇を予告したとも言える。「オランダ生まれの詩人、ジャーナリストにして弁護士でもあったド・ハーン(1881~1924)は、シオニズムへの共感から1918年パレスティナに移住する。……しかし、ジャボティンスキーほか、当時、ヨーロッパのファシズム運動を信奉し、後にイスラエル右派の指導者となる人々を深く知るにつれ、ド・ハーンは、次第にシオニズムのもつ暴力的な側面に対する危機感を強めていった。……そのうちに彼は、『アクダット・イスラエル』、その他、敬虔なユダヤ教徒たちの集団をまとめ上げ、そこに現地のアラブ人名士たちをも加えた一種の反シオニスト連合組織の結成を思い描くようになる。」(Y・ラブキン、同書217︲218頁)。このような連合を阻止すべく、1924年に彼は暗殺された。
Ⅵ シオニズム・イスラエルが直面する困難
不法に武力で占領地を拡大するイスラエルの姿勢は、最初の専守防衛から、先制攻撃もやむを得ないとするエートスを生み出し、それによって、いつ全面的破局がくるかもしれないという恐怖を生み出している。そうした潜在的不安と恐怖は昨年10月のハマスの攻撃で再確認されたといえよう。しかしこの果てしない不安と恐怖については、あの「輝かしい」六日戦争の時にすでに警告として発せられていたのである。ラビ、アムラム・ブロイは次のように述べていた。「この目覚ましい電撃戦によって、彼らは勝利を収めたと思っている。たしかに彼らは、今日、その力の頂点に達しているのであろう。しかしそれは同時に下り坂の始まりでもあるのだ。彼らは、遅からず、今回の戦利品によって引き起こされる厄介事の存在に気づくことであろう。アラブ人の憎しみはさらに増し、必ずや復讐を求めるであろう。シオニストたちは、今、国境の内部に数十万人の敵勢を抱え込んでいる。われわれは皆、「今ここ」において大きな危険にさらされているのだ」(Y・ラブキン、同書205︲206頁)。
Ⅶ 目指すべき方向
もつれにもつれているパレスティナの地をめぐる唯一の解決の方向は、このパレスティナの地を、ユダヤ人のみの土地とする「シオニズム」の思想から、イスラエルの人々が解放され、パレスティナの人々と共存して、パレスティナの人々も、イスラエル国を殲せん滅めつするというスローガンを降ろし、多民族が平等、自由に共存する国家を、共同して建設することにしかないと思う。そしてそれはかつてド・ハーンが、平和を求めるユダヤ教徒、イスラム教徒、そしてキリスト教徒の連合を築くこととして構想したものの延長線上にあろう。そしてイスラエルの心ある人々も、少しずつこの「共生」の道を探ろうとしていることに、この絶望的な暗がりのなかで、なお一条の光を覚えさせられる。
パレスティナ出身のE・サイードは、2001年12月に述べている。「イスラエルでは、たとえば豪胆なパレスティナ人のクネセト議員アズミ・ビシャーラが議員の免責特権を剥奪され、暴力を扇動したかどで遠からず公判にかけられることになっている。なぜか? 占領に抵抗するパレスティナの権利を彼が長年にわたり訴えつづけ、世界中の他のすべての国と同じように、イスラエルも、ユダヤ人だけの国ではなく、その市民すべての国でなければならないと論じてきたためである」(エドワード・W・サイード、『オスロからイラクへー戦争とプロパガンダ 2000―2003』、中野真紀子訳、みすず書房、2005年、198頁)。この世界中の他のすべての近代的国家と同じ条件の国家になるという、当たり前の方向が、絶望的に困難であっても唯一可能で、目指すべき方向であると思う。
(日本基督教団 北白川教会員)