聖書研究

イエス様が与えてくださった解放  石田 真一郎

― ガラテヤの信徒への手紙【第4回】

「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕しもべ(ヘブライ語で奴隷)と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(1~3節)。イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けるまで、私たちはそうだったのです。日本基督教団の洗礼式の式文には、こう書かれています。

「私たち人間は罪の中に生まれ、肉に属する者でありますから、そのままでは神の御心に適うことができません。思いと言葉と行いにおいて、罪を犯している者であります」。「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」とは、「罪を犯しながら生きていた」ことを意味します。悪魔の誘惑に負け、罪の奴隷として生きて来たのです。

たとえば、この手紙の著者パウロの場合は、道徳的には極めて潔白でした。徹底した律法主義者でした。自分の努力で、モーセの十戒をはじめとする神様の律法を100%守り、自力で天国に入ることができる人間だと、自信満々でした。それだけ高慢の罪に陥っており、それに気づきませんでした。自分を神とする偶像礼拝に陥っていたとも言えます。プライド、誇り、自負が心の中に満ちていました。全く謙遜に欠けた、悪魔の子になっていたのです。

「しかし、時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(4節)。クリスマスの出来事です。女とは、マリアです。「女から」生まれたということは、イエス様が、私たちと全く同じ肉体をもつ人間として生まれたことを意味します。「律法の下に生まれた」とは、モーセの十戒をはじめとする律法が支配する世界に生まれたということです。私たち人間と、全く同じ制約下に生まれて下さったのです。

それには明確な目的がありました。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(5節)。イエス様が生まれたとき、両親は律法に従って長男イエス様を、神様に献げるためにエルサレムの神殿に連れて行き、律法に従って山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げたはずです(ルカによる福音書2章22~24節)。そしてイエス様は、モーセの十戒を真の意味で完全に守って生きられました。神様と人を愛して生き、遂に十字架にかかられます。それは、十戒を100%守ることのできない私たちの罪にする、父なる神様の正当な怒りと裁きを、すべて引き受けるためでした。イエス様のお陰で、私たちは律法の支配下から贖い出され、解放されたのです。イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けると、私たちは神の子になります。すべてイエス様のお陰です。

「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(6~7節)。「アッバ」は、イエス様が語られたとされるアラム語で、「お父さん」「パパ」に近い、父親への非常に親しい呼びかけの言葉と聞きます。イエス様ご自身が、十字架直前のゲツセマネで、「アッバ、父よ」と祈られました。私たちもイエス様と同じに、「アッバ、父よ」と呼びかけることができるほど、父なる神様に近しい神の子とされました。私の知人に、いつも「アッバ、父よ」の呼びかけから祈りを始める方がおられます。私も真似したいと思います。

 「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」(8~20節)

 「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました」(8節)。ガラテヤの諸教会の人々は異邦人ですから、真の神様を知りませんでした。私たちも、真の神様でない偽物の神々に奴隷として仕えていたのではないでしょうか。軍国主義や無限の経済成長という偽物の神々(欲望)の奴隷となっていたのではないかと、考えてみる必要があります。

「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(9節)。私たちは、神様から知られ、神様に愛されている一人一人です。詩編139編にこう記されている通りです。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬ先に、主よ、あなたはすべてを知っておられる」(1~4節)。

「あの無力で頼りにならない諸霊に下に逆戻り」するなとパウロは強く述べます。「無力で頼りにならない諸霊」は、迷信です。イエス様を信じる私たちは、迷信という偶像礼拝を断固拒否します。迷信に惑わされてはならないのです。雑誌等に星占いや占いが載っています。聖書では占いは罪として厳禁されています。

「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、『あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである」(申命記13章2~4節)。

「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(10~11節)。いろいろな迷信があります。姓名判断、手相、風水、こっくりさん、おみくじ、大安・仏滅、オウム真理教等のカルト宗教、ノストラダムスの予言、軍国主義、無限の経済成長等です。私の両親は、仏滅の日に結婚式を挙げたそうです。これらの迷信には何の根拠もないばかりでなく、悪魔が司っていると言えます。ですから私たちは、これらとの関わりを絶つ必要があります。私たちは、イエス様の十字架と復活によって、悪魔・罪・死に勝利したのですから、二度とこれらの支配下に戻ってはならないのです。イエス様の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)の御言葉とも響き合います。

「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、またキリスト・イエスでで

もあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(13~15節)。ガラテヤの諸教会の人々は、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、神様の前に義と認められると知って、信じて洗礼を受けました。そして聖霊を注がれ、幸福と祝福と愛に満ちあふれたのです。「あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」(15節)。パウロが眼病を患っていたのではないかと言われます。それで見栄えが悪かったのでしょう。ローマの信徒への手紙はパウロが口述し、テルティオという人が筆記したのです。ガラテヤ地方の教会の人々は、聖霊の愛に満たされ、パウロに自分の眼をえぐり出してプレゼントしたいと言うほどに、パウロを愛しました。

しかし、割礼も受けないと救われない主張する人々が来たとき、信仰だけでは義と認められないのではないかと、彼らの信仰は動揺しました。不安と恐れに支配されるようになったのです。パウロは彼らを、信仰義認の真理へと立ち帰らせたいのです。イエス様の十字架にのみ、私たちのすべての罪を赦す偉大な力がある。イエス様の復活にのみ、私たちに永遠の命を与える偉大な力がある。自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架と復活に、ひたすら依り頼むことで、必ず救われる、天国に入ることができる。割礼は全く不要。イエス様の十字架と復活は、悪魔のすべての業に勝利しています。姓名判断、手相、風水、こっくりさん、おみくじ、大安・仏滅、オウム真理教等のカルト宗教、ノストラダムスの予言、軍国主義、無限の経済成長を信用することは、すべて偶像崇拝(悪魔崇拝)です。イエス様の十字架と復活による福音は、以上のすべてに勝利して余りあるのです。このことへの揺るぎなき確信が、私たちの信仰です。

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(19節)。崩れかかっているガラテヤ地方の諸教会が、もう一度キリスト中心の共同体に立ち直るように、パウロが産みの苦しみをしています。教会とは何か。「キリストがあなたがたの内に形づくられる」、これが教会だと述べています。どこまでもキリストが主役です。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソの信徒への手紙1章23節)。教会は、神様と聖霊が満ち満ちておられる場ということだと思います。イエス・キリストの愛と福音が一人一人に行き渡り、それらが満ち満ちている共同体です。

但しクリスチャン一人一人にもまだ罪があるので、どの教会も、全体としての教会も、完成途上にあります。

「教会とは何か」がテーマとされるエフェソの信徒への手紙を、もう少し見ます。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(2章14~16節)。「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合されて成長し、主における聖なる神殿となります」(2章20~21節)。キリストが強調されています。パウロはガラテヤの人々に「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」と書き送りました。キリストの心が行き渡っている共同体が教会だと思うのです。クリスチャン一人一人は、小さなキリストです。

イエス様のたとえ話も、教会の本質を言い当てています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15章5節)。イエス様の愛と福音という栄養分が行き渡って、聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制〈ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節〉)を結ぶ共同体が教会です。姓名判断、手相、風水、こっ

くりさん、おみくじ、大安・仏滅、オウム真理教等のカルト宗教、ノストラダムスの予言、軍国主義、無限の経済成長を信用する偶像崇拝(悪魔崇拝)と教会は、全く両立しません。これらに逆戻りしてはなりません。

 「二人の女のたとえ」(21~31節)

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」(21節)。ガラテヤの諸教会に、異邦人クリスチャンが割礼を受けないと救われないと主張する人々が来て、教会を混乱させていました。ユダヤ人にとって重要な割礼ですが、割礼には私たちの罪を赦す力が全くありません。イエス様の十字架にのみ、その力があります。割礼を受けないと天国に入れないという教えは、迷信です。クリスチャンは迷信を、あくまで拒否することが必要です。決して迷信の奴隷になってはならないのです。そしてパウロが、ガラテヤの諸教会への割礼導入を断固拒んだもう一つの理由は、割礼がユダヤ人の選民意識のプライドと自我と高慢の強力なシンボルになっていたからだと思います。自我の力で私たちが天国に入ることはできません。遜へりくだって、イエス様の十字架の愛に頼る信仰によってのみ、天国に入ることができます。

このことを分かってもらおうと、パウロは旧約聖書の創世記のエピソードを引用します。「律法の下にいたいと思っている人たち(旧約の割礼に心惹かれる人たち)、あなたがたは律法(旧約聖書の教え)の言うことに耳を貸さないのですか。」創世記のメッセージを示すことで、彼らの間違いに気づかせようとするのです。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています」(22~24節)。

神様が75歳のアブラハム(当時の名はアブラム)に「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12章7節)と約束されましたが、アブラハムとサラ(当時の名はサライ)夫婦に子どもが生まれません。サライがしびれを切らし、アブラムに女奴隷ハガルを側女とすることを提案し、アブラムが受け入れ、イシュマエルという男の子が生まれます。ですがイシュマエルは、神様の約束の子ではなく、人間の自我の力でもうけた子です。神様の最初の約束は、あくまでもアブラハムとサラ夫婦の間の子によって実現してゆきます。アブラハム100歳、サラ90歳のときに、遂に夫婦の間に、神様の約束の子イサクが誕生します。神様が世界を祝福する約束は、イサクの子孫としてダビデ王が生まれ、イエス様が生まれることで、進められます。人間の自我の力で生まれたイシュマエルではなく、神様の約束によって生まれたイサクを通して進みます。パウロが強調するのは、この点です。

パウロは書きます。「聖書に何と書いてありますか。『女奴隷(ハガル)とその子(イシュマエル)を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女(サラ)から生まれた子(イサク)と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります」(30節)。(ひどい言葉にも聞こえますが、神様はハガルとイシュマエルにも配慮しておられます。)神様の救いは、人間の自我の力によってではなく、神様の愛の約束・意志によって実現することが急所です。つまり割礼によってではなく、イエス様の十字架の死と復活という神様の愛によってのみ、私たちは救われます。人間の自我と高慢のシンボルである割礼や、反キリスト(姓名判断、手相、風水、こっくりさん、おみくじ、大安・仏滅、オウム真理教等のカルト宗教、ノストラダムスの予言、軍国主義、無限の経済成長)の奴隷になってはならないということです。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカリヤ書4章6節)。私たちは反キリストから完全に解放され、感謝と喜びをもって、ただイエス・キリストに従いゆきます!

イエス・キリストだけが私たち人間を真に救い得る方です!

(続) (日本基督教団 東久留米教会牧師)