聖書研究

キリスト者の自由を正しく用い、聖霊の実を結んで生きる 石田真一郎

【聖書研究 ガラテヤの信徒への手紙 第5回】

「二人の女のたとえ」〈Ⅱ〉(5章1節)

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛くびきに二度とつながれてはなりません。」

「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった。」私たちは何から自由にされ、解放されたのでしょうか。私は前回、「人間の自我と高慢のシンボルである割礼や反キリスト(姓名判断、手相、風水、こっくりさん、おみくじ、大安・仏滅、オウム真理教等のカルト宗教、ノストラダムスの予言、軍国主義、無限の経済成長)」から完全に解放され、自由にされたと書きました。同時に次のように述べることもできます。私たちが「律法と罪と死と悪魔と神の怒り」の支配から完全に解放され、自由にされたと。パウロは強く語ります。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

〈キリスト者の自由〉(5章2~ 15節)

2節「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」ガラテヤの諸教会に、非常にユダヤ主義的な人々が入り込み、誤った教えを説きました。イエス様の十字架と復活の恵みの福音(キリストの真実)を信じる信仰だけでは足りない(信仰義認の真理の否定)。神様は「ただキリストを信ずる信仰により、われらの罪を赦して、義としたまふ」(日本基督教団信仰告白)方です。しかしユダヤ主義者たちは、「旧約聖書で大事にされている割礼をも受けないと、あなたがたは救われない、天国に入れない」と説きました。これは間違いです。しかし、これを聞いたガラテヤの諸教会の人々に動揺が起こりました。「それなら割礼も受けておこうか」と思ったのです。しかし、天国に入るために割礼は全く不要です。イエス様の十字架の贖あがないの死のみが、私たちのすべての罪を赦す完全な力です。十字架だけで完全。他の追加は一つも必要ないのです。割礼等の追加が必要なら、イエス様の十字架の死は、私たちの救いのための完全な力でないことになります。そのようなことは決してありません。十字架だけで十分。これはパウロも私たちも、絶対に譲れない点です。

割礼を受けることは、律法を自力で完璧に実行して救われようとする悪しき自己義認への逆戻りです。それはキリストを捨てることです。信仰義認をキリスト義認と言い換えることができます。キリスト義認と自己義認を半分ずつ採用するまぜこぜは不可能です。キリスト義認に100%徹することだけが、救いの道です。

3~4節「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」律法の実行による自己義認に逆戻りするなら、キリストとの縁が切れるとすらパウロは言います。天国の恵みを失うとまで警告します。この手紙2章21節が思い出されます。

「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」この箇所を『新約聖書翻訳委員会訳 約聖書』(岩波書店、2004年)は、「もしも律法によって義が〔与えられるのだ〕としたら、キリストは無駄死にしたことになってしまうからである」と訳していて、印象的です。イエス様の十字架の死を無意味にすることは絶対に許されないとの、パウロの命を懸けた決意です。「主(イエス様)を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」(コリントの信徒への手紙 一16章22節)とのパウロの言葉に通じます。私たちもパウロのように、イエス様を愛し抜きたいのです。宇宙広しといえども、イエス様の十字架の死以外に、私たちの罪を完全に赦す力はない。このことを痛感するために、繰り返し聖餐を受けることがどんなに重要か、骨身にしみて悟りたいのです。

 私たちには、生まれながら原罪があります。原罪を含む私たちの罪は、イエス様の十字架によってしか赦されません。イギリス生まれのペラギウス(354-ca. 420)という修道士が道徳的には清い生涯を送りましたが、人間に原罪があることを否定し、人間は自由意志と努力で道徳的に清い生き方をすることが可能と主張しました。これに対し、アゥグスティヌス(354-430)という教会の重要な指導者が、人間は原罪のゆえに罪を犯さないで生きることが不可能で、神様の恩寵(恵み)のみが人間に、「善をなす力、信仰、罪の赦し、救いを与える」(宮谷宣史『アゥ

グスティヌス』清水書院、2013年、78~79頁による)との真理を語りました。ペラギウスの説は、異端説です。私は、アゥグスティヌスの考えはパウロの信仰と一致し、パウロが妥協なく退ける割礼主義者の主張は、自力救済説なので、ペラギウス説と共通すると感じます。イエス様の十字架という恩寵にのみ、原罪をもつ私たちを救う力があるのです。

6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」口語訳では、

「尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」新改訳2017では、「大事なのは(~)愛によって働く信仰だけなのです。」聖書協会共同訳では、「愛によって働く信仰こそが大事なのです。」私が訳すと「大事なのは、愛を通して働く信仰です。」堀田雄康神父は「『愛から生じるのではなく、愛の働きという形で現れる』(信仰〈石田注〉)の意である。『信仰』こそ『愛』の原因・源であり、そして『愛』は『信仰』の証しなのである」

と書いています(『新共同訳 新約聖書註解Ⅱ』日本キリスト教団出版局、196頁)。あくまで信仰から愛が生じるのです。

11~12節「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」イエス様の十字架だけが私たちの救いという福音は、人間のプライドを逆なでします。私たち人間の罪は、十戒に違反することに加えて、私たち人間のプライド、誇り、高慢です。社会で弱い立場にある方々や少数民族の誇りは、大切にされる必要があります。それは生きる力だからです。しかし強い立場にある人々や多数派の誇りは、強調されてはならず、遠慮がちであることが必要です。でないと共同体が不健全になります。「すべての人が生まれつき罪(原罪)をもっている」、「イエス様の十字架によらねば、誰も救われない」との聖書の教えは、私たちのプライドを非常に逆なでします。ですが、そこでこそへりくだって、イエス様の十字架と復活による救いを受け入れることが、神様の御心に適うことです。私に洗礼を授けてくださった牧師に洗礼を授けた牧師は、受難節には、首から釘を下げて、祈り奉仕し、生活しておられたと聞きました。ご自分のためにも十字架で死なれたイエス様の深い愛を、体で実感するために、首から釘を下げて過ごされたのだと思います。

13~14節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会と

せずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」これはイエス様の御言葉とも完全に一致します。「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」」(マタイによる福音書22章37~ 40節)。

私たちは、イエス様の十字架と復活のお陰で、「律法と罪と死と悪魔と神の怒り」の支配から完全に解放され、割礼とすべての迷信から自由にされました。但しこの自由を誤用しないように注意する必要があります。私たちはしばしば、自由とは好き勝手にすること(放縦)と誤解します。それは大きな誤りです。マルティン・ルターは、著書『キリスト者の自由』の冒頭に記しました。「キリスト者は、すべてのものの自由な君主であって、何人(なんぴと)にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する奴隷(僕しもべ)であって、何人にも従属する。」イエス様のように、喜んで人様の足を洗わせていただくことが、真の自由です。それは愛です。〈霊の実と肉の業〉(16~26節)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(16~17節)。聖書の御言葉と霊(聖霊)の導きに従って生きなさい、ということです。肉とは人間の自己中心の罪です。「自分のしたいと思うことができない」とは、イエス様に従いたいと願いつつも、罪と悪を行ってしまうことです。パウロは、ローマの信徒への手紙では、こう述べています。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。(……)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(7章21~ 24 節)。

この状態を乗り越えるためには、洗礼を受けてイエス・キリストと明確につながることが必要です。イエス様は言われたのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)。「何もできない」とは、愛を行うことができないとの意味と思います。洗礼を受けてイエス様としっかりつながることで、私たち(枝)はイエス様(ぶどうの木)から聖霊、愛という栄養分を豊富に受け、神様と隣人を愛し始めることができます。自分の努力では愛せない敵(性格、意見の合わない相手)をさえ愛し始めていると思うのです。

19~21節は、罪のリストです。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」私たちはよく祈り、聖霊に導かれて、これらと縁を切りましょう。罪から離れることで、真に自由になります。私たちが地上で100%聖化されることはできませんが、それでも意識して、これらの罪と縁を切ってゆきたいのです。「わいせつ」は原語のギリシア語でポルネイアです。ポルノの語源と思います。ネット社会になって様々な画像があふれ、ポルノに非常にルーズな社会になっていると感じます。よくよく気をつける必要があります。パウロは厳しく述べます。「このようなこと(19~21節に列挙された罪)を行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(21節)。

 

22~23節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」肉の業と霊(聖霊の実)は水と油、正反対で両立は不可能です。ここには聖霊の9つの実が記されています。愛(アガペー)がトップにあるので、愛の実に他の8つの実が含まれると考える人もいます。その読み方も正しいと思います。これらの9つの実はすべて、イエス・キリストのご性質です。聖霊はイエス様の霊ですから当然です。私たちが自力でこれらの実を結ぶことは、不可能です。洗礼を受けてイエス様とつながり、よく祈り聖書を読んで、イエス様の助け、聖霊の助けを受けて、少しずつ聖霊の実を結ばせていただきます。人格がイエス様に似た者に変えられてゆきます。これを聖化と呼ぶことができます。それはキリスト化です。

「寛容」の原語はマクロスミアで、ローマの信徒への手紙2章4節では「忍耐」と訳されています。従って「寛容」は、イエス様(神様)が何でも赦してくださるという甘い意味ではなく、イエス様(神様)が私たちの罪をすぐには裁かないで、忍耐をもって私たちの悔い改めを待っていてくださるとの意味にとるのがよいでしょう。旧約聖書のヨナは、こう告白しています。「あなた(神様)は、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ書4章2節)。次の聖句も関連すると思います。「ある人ちは、(イエス様の再臨が)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペトロの手紙 二3章9節)。神様は、忍耐の神様なのです。

私が仕えている教会の婦人・Aさんが、病のため昨年6月に天に召されました。80歳でいらっしゃいました。私たちは深く悲しんでいます。緩和ケア病棟で天に召されたのですが、その暫く前にお見舞いに伺いました。その時、こう言われたのです。

「病院に入った時は試練だと思っていましたが、今は祝福と思っています。」私は感嘆しました。クリスチャンでも、なかなか言えない言葉と思います。ご病気の中で、神様によって人格が練り清められたのではないかと感じました。ご本人が祈り、教会の方々が祈り続けられた中で、Aさんに改めて聖霊が注がれたと思います。聖霊の実を結んでおられると感じたのです。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマの信徒への手紙5章3~5節)。

25~26節「わたしたちは、霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」私の友人である牧師が、大変悲しいことに、昨年7月に病のために天に召されました。ご両親はご子息に「平和の大将になってほしい」との祈りを込めて命名されたと、葬儀で伺いました。その通りの牧師でした。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」ご両親とご本人の祈りに応えて、聖霊なる神様が、ご本人によき実を結ばせてくださっていました。召された次の日曜日の礼拝説教題も決めていました。次の日曜日も説教奉仕を行うつもりで、天に召される直前まで、霊(聖霊)の導きに従って、祈って前進しようとしていました。友人として、深い尊敬の念を覚えます。

クリスチャンの中には、聖霊が住んでおられます。イエス様の霊が住んでおられます。私たちの心の中で、自我が弱くなり、イエス様(聖霊)がますます主人公になって、私たちの歩みをリードしてくださるように、祈ります。アーメン。

(日本基督教団 東久留米教会牧師)