だから目を覚ましていなさい 片柳榮一
マタイ24:36-44
今年の京阪神共助会信仰修養会の主題は「だから目を覚ましていなさい ―― 戦後八十年を省みつつ」としました。日本、世界の不気味ともいえる混迷が深まる中、戦後八十年という節目の年を迎えて、私たちに何が今、問われているのかを、静かに考えようとの思いからです。主題の前半部はマタイ福音書24章42節から取りました。「だから、目をさましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」。あなたがたと呼びかけられた人の主人がいつ帰ってくるのか分からない、とあるように、呼びかけられているのは、主人に仕える従僕です。確かに私たちはこの世界の中で、何事でも思うようになすことのできる「主人」ではありません。いつも思いがけない出来事に襲われ、混乱し途方に暮れる「主人ならざる者」です。この世界を動かす者としての主が来臨し、私たちに、自らの為したことの決算、総括を求める時が、いつ来るか分からないから、目を覚ましていなさいと言われています。これはドキッとさせられる言葉です。従僕は、主人から仕事を任せられ、その仕事の成果を主人から点検され、評価される立場なのです。
しかし次の節はこれと異なります。従僕でなく主人の立場を考えています。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜の何時頃やってくるかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう」(43節)。ここでは家の全権を握っている「主人」を考えています。自分の財産を所有している者です。その主人にとって、心配なのは、他人から評価されることではなく、その財産を如何に管理し、維持するかです。その場合脅威となるのは、自分の財産を奪う盗人です。そのような主人が盗人の侵入の計画を知ったら、それに備える万全の防備をするだろうというのです。そのように備えて「目を覚ましていなさい」と呼びかけています。この主人も自分になしうるのは、泥棒がそもそも存在しないよう根絶することではありません。そのような自分の分を越えたことではなく、自分の家を少なくとも堅固にするための備えをすることを「目を覚ましていなさい」という言葉で勧めています。それがこの世界の中で、人間という存在にできる最善の備えであることを示唆しているように思います。
「夜のいつごろ」と訳された言葉は、独特の言葉です。ギリシア語ではピュラケーという言葉ですが、これは元来見張りを意味する言葉です。古典ギリシア語辞典においてはこの「見張り」の意味しか載っていません。何故この見張りを意味する言葉が、時間を表す「いつごろ」の意味になるのか、首をかしげましたが、新約聖書用の辞書を見ると、夕方の六時から朝の六時までを四つに分け、第一ピュラケー、第二、第三、第四ピュラケーと呼ぶローマの習わしから来ているとのことでした。おそらく軍事大国のローマの、軍隊用語が日常用語に転用されたのでしょう。ローマ帝国の中で用いられたギリシア語、民衆語コイネーの性格がよく表れているように思われます。対応するルカ福音書12章38節「主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰ってきても」では「真夜中」は午後9時に始まる第二ピュラケ―という言葉であり、「夜明け」は午前零時に始まる第三ピュラケ―という言葉です。泥棒の侵入は通常夜なされます。
ですからこの言葉は日常語として、夜の時刻を表すものですが、もともとローマの軍隊が夜の見張りに用いた言葉がここで使われていることは、印象的です。
「見張り」ということでは、私たちは詩編130編6節を思い起こします。「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」。暗がりのなかで、夜の明けるのを待つ見張り、その不安は測り知れないものがあります。彼らは何よりも、敵の襲来を恐れています。暗がりの中では敵がすぐ近くにいるかもわかりません。その見えない暗がりが一層その不安と恐怖を増幅するのです。私たちは現在をとりまく暗がりの中で或る種不気味な地鳴りのようなものを感じながら生きていると言えます。そのような不安の中で、夜明けを待つ見張りの気持ちがよく判るように思われます。だからこそまた「目を覚ましていなさい」との勧めも、切実なものとなるように思われます。
ところでテサロニケの信徒への手紙1、5章1~6節にも同じように「目を覚ましていなさい」との勧めがなされています。この手紙はパウロの最も初期のものとして、若いパウロの生き生きとした魂の息づかいともいえるものが感じられます。しかしここでは先のマタイ福音書の警告とは少し違った響きがあります。出だしは同じように始まります。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やってくるように、主の日は来るということをあなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ、安全だ』と言っているその矢先に、突然、破滅が襲うのです。丁度妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れません」(1~3節)。盗人が夜やって来るように主の日がくるということをあなたがたは知っているという表現は、パウロが生きた時代の、終末待望の一般的な雰囲気を表しています。私はこれまで、ここまでしか注意していなかったことを思います。ところがこれに続く箇所は、違った調べを奏でています。「しかし兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたは光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属してはいません。従って、他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(4~6節)。ここでは一方で、盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っていると語られます。それは思いがけず、私たちが眠りこけようとしている時に、突然襲うと警告しています。しかし続いてパウロは驚くべきことを語ります。これまでの警告とは打って変わって、あなたがたには主の日は盗人が夜思いがけずやってくるということではないというのです。あなたがたは暗闇の中にいるのではないからだと言います。
確かに私たちは今、濃い暗闇の中にあるとしか言い得ません。その中で、当惑し戸惑い、手探りの歩みをせざるをえません。パウロの時代はそうではなかったというのではないでしょう。騒乱と圧政の暗がりの中であったでしょう。しかしパウロはなお、自分たちは暗がりの中にはいないと、決然として語ります。ここで改めて思わされるのは、自然現象として語られる夜、暗がりが、私たちの目の前にある、単なる客体として語られているのではないということです。そうではなく、主体としての「わたし、あなた」に属するものとして用いられ、「あなたがたは光の子、昼の子だから、暗闇の中にいるのではない」ときっぱりと言われています。光の子、昼の子というのも、私たちの経験的な事実として、私たちが何の暗がり、汚れをもたない「純粋無垢な存在」だというのではないでしょう。私たちが常日頃から知っているありのままの自分から、自分は光の子だと語っているのではないでしょう。この世の暗がりの只中にありながら、主の赦しと約束に基づいて、自分たちがその希望に生きている「主の日」の光に照らされて、「わたしたちは夜にも暗闇にも属していません」とパウロは述べているように思われます。
確かに現在私たちは夜の闇の内に在り、盗人が襲来するかのように、これからやってくるものに怯えているのが実情といえましょう。しかもそのような中で、自分の有りようの総括を迫られ、裁きの宣告を聞くべき者として立たされているのです。しかしパウロはもっと違った仕方で、来るべきものの前に出ているように思われます。自分たちを光の子、昼の子と呼ばせしむる「光」に照らし出されているのです。暗がりの中で、なおそのように光に照らしだされながら、「目を覚ましていなさい」との励ましの言葉に促されているのです。そのことに励まされて、なお主の招きに応じて、手探りの歩みをなしてゆきたいと思います。
(日本基督教団 北白川教会員)
