講演

だから目を覚ましていなさい  片柳 榮一

マタイ24:36-44 

1 戦後八十年への省みの中で、どう生きるかを考える

 私達は今年戦後八十年を迎えています。戦後八十年を考えるということは、1931年の満州事変に始まり1945年に敗戦で終結したいわゆる15年戦争をどうとらえるか、から始まるべきなのでしょう。昨年韓国を訪問して、独立記念館などで日本の侵略に関わる資料を見ながら、日本は明治維新の当初から西洋諸国に伍して生き残るために、近隣諸国を植民地化してゆくことを画策していたことを思わされました。明治10年の西南戦争自体、早期に朝鮮半島を植民地化しようとする西郷隆盛らの「征韓論」を時期尚早として力でねじ伏せた戦いでしたが、問題は何時侵略するかのタイミングの相違であって、明治政府は、近代的な日本帝国憲法を、明治22年に制定し、富国強兵政策を推し進める中で、着々と侵略の準備を整えていったのです。そして1894年(明治27年)の日清戦争は、李氏朝鮮を独立国として清国から分離させ、日本の支配下におくための戦争でした。そして1905年の日露戦争の勝利は、1910年の韓国併合にそのまま繋がっていました。1932年の満州国建国は、国際連盟によって、日本の侵略と断定されたため、日本は33年に国際連盟を脱退し、その後は、一直線に「十五年戦争」に突き進み、1945年の敗戦を迎えます。

私は、そのような日本の近代の歩みを思うにつけ、いつも思い出すことがあります。それは、()仁夏(インハ)先生が1981年の基督教共助会京阪神信仰修養会で統一主題「隣人とは誰か」のもとで主題講演されたお話です(『共助』1982年2・3号6]7頁、及び2024年第5号21]22頁。韓日修練会での私の「応答」に掲載されています)。そこで先生は、明治の10年代に日本でキリスト教の洗礼を受けた韓国の学者を尊敬の念で受け入れた日本のキリスト教会が、日本政府の朝鮮支配の野望が現実化して行く中で、自らも変質し、社会全体の風潮に染まっていった歴史を語られました。

 私にとってこの講演は、衝撃的なものでした。明治憲法発布以前の日本で、韓国のキリスト者を迎えての、すがすがしく、晴れやかな出会いと畏敬の雰囲気すら感じられる光景と、日本の朝鮮支配の野望の込められた日清戦争後の、醜悪と言うほかない日本人の変化した態度の対比には愕然とせざるをえませんでした。そしてそこにキリスト者も例外なく巻き込まれていったのです。私たちが歴史的事実として知っている日清戦争以来の出来事が、私たちの心の内に影を及ぼし、次第に韓民族に対する畏敬の念を奪い、侮蔑の意識へと変えてしまったことに慄然とさせられました。そしてその影は今も厳然として私たち日本人の心の内にも外にも及んでいます。内には無理解、無関心、果ては侮蔑へと内向しています。そして外には街頭でのヘイトスピーチやそれを公然、隠然と支える体制と人々の動きに現われています。私たちは過去の、殊に自分が生まれてもいなかった時代の民族の罪に責任を覚え、謝罪しなければならないと言われた時、自分はその当事者でなかったのだから、と逃げ口上を言いたくなります。私は李仁夏先生のこのお話を聞いて、明治時代に始まった日本の韓民族侵略の影が現在の日本の、自分が生きているこの日本の中に、そして自らのうちに、色濃く及んでおり、決して過去の過ぎ去った、自分に関係のない出来事ではないのだということを、鮮烈に示されました。歴史を生きるということは、そのように自分を越えたものが、自分自身を全面的に規定していること、そしてその中に諸共(もろとも)に巻き込まれて生きるということであることに慄然とさせられました。

 戦後八十年の私達の歩みは、そのような日本の過去の侵略の影を拭うことができたのかとの問いには否定的にしか答ええないでしょう。単に侵略を受けた当事国から過去の侵略の償いを迫られ、なおそれに十分答えていないからということだけではないでしょう。これからを生きる私たちが、少なくとも明治初頭の日本人が持っていたことが知られる、韓国、及び他のアジア諸国の人々に対する尊敬の眼差しを回復しないかぎり、私達の過去への清算は済んでいないことは肝に銘じておかねばならないと思います。相手への尊敬と信頼が根底にない関係は、どうしても近隣諸国との様々な利害がぶつかり合う国際関係の中で、あっけなく、脆く崩れて、大きな抗争へと発展しかねません。だからこそ過去との勇気ある向き合いを重ねてゆかなければならないのです。

 アジアにおける日本の過去の侵略の責任を担うという個人だけでは負うことのできない課題の前に私たちは立たされていますが、しかし、日本対韓国、日本対中国、というように抽象的に考えるのでなく、そこに生きる具体的な個人として接触する機会を、私たちはできるだけ作ってゆくしか、道はないと思います。私たちには韓国の人々と共助会を形成してゆく中での交わりが辛うじて許されており、また熱河宣教で生まれた中国の隠れた「家の教会」との僅かな交流の路も残されていると思います。手探りしながら歩みを続けて行きたく思います。

 

2 現在世界を覆う暗がりをどうとらえるか

 私にとって歴史が動いたという実感をもったのは、1989年のソヴィエト体制の崩壊でした。私達の世代、そしてその前の世代の人々にとって、アメリカを先頭とする西側とソヴィエト連邦を中心とする東側との間の冷戦構造は、恐らく自分が生きている間は続くだろうと思っていたと思います。これは日本人だけでなく、東西冷戦によって分裂を経験したドイツ人の何人かからも、自分たちが生きている間は、この二つの体制の抗争は続くだろうと思っていたという話を聞いたことがあります。

 ところで昨年の暮れに亡くなられた田中邦夫さんが、3年前に、この修養会でお話をすることになっていました。しかし病に倒れられて、お話を聞くことはできなくなったのですが、その時の、いわば幻の主題は「奥田成孝先生とウォーラーステイン」ということでした。最初私は、何故信仰者である奥田先生と社会科学者として名高いウォーラーステインが同列にされているのかと思いました。この学者については、社会の基礎構造を問題にしているということを聞きかじりしただけだったので、社会、歴史を自然科学的に扱おうとしている学者というイメージがあり、一層首を(かし)げました。しかし田中さんが主題の説明として書いた文章を読んで、愕然としました。田中さんは1990年代のはじめに京都国際会議場で聞いたウォーラーステインの講演から受けた衝撃について語っています。その時の講演の題は「アフターリベラリズム」というものでした。当時ソヴィエト体制が崩壊して、冷戦構造がみるみる瓦解してゆき、自分たちが生きている間は続くであろうと考えてきた冷戦状態が一応の決着をみ、それまでの、いつ核戦争が勃発してもおかしくないような緊張した東西関係が終結したかに見えていました。長い間待ち望んだ平和がようやく目の前にあるとの安堵感が全体を支配していた時代でした。しかしウォーラーステインはその1990年代の初めに、これから少なくとも50年、或いはもっと長く続く混乱状態がやってくるであろうと語ったというのです。今からは平和がやって来るとの解放感に浸っていた田中さんは、愕然とし、何故そんな全く逆のことをウォーラーステインは言うのかと考え込んだとのことでした。そしてこの学者の著書を読み解くうちに、田中さんにも次のことが明らかになってきたと言います。つまりソビエト体制の崩壊は、決して自由主義的民主主義の勝利だったのではなく、大きな歴史の流れの中で、リベラリズム、自由主義の終焉だったというのです(『アフターリベラリズム』藤原書店、1997年)。ソヴィエト体制が自由主義だということには、一見奇異な感じがしますが、19世紀の産業革命以来の資本主義体制を牽引してきたのは、基本的に個人の自由を基盤とする自由主義でした。しかしそればかりでなく、資本主義体制を厳しく弾劾したマルクス主義自体、前衛としての指導者が自分の利害でなく、社会全体の公正な富の分配をしうることを前提しており、そうした理性的なエリート知識人達の存在を基盤にしていました。前衛による独裁政治の容認も、まさに公正な分配への信頼から出ており、基本的にはリベラリズムだとウォーラーステインは断じます。しかしソヴィエト体制の崩壊は、少数エリートの公正さは、机上の空論であり、官僚が成功を賛美するだけの幻だったことが明らかになったのです。50年以上にもわたる混乱の時期が続くとのウォーラーステインの予想の根底にあるのは、基本的には一部の先進工業国への富の偏在にあり、その上に立ったリベラリズムが、膨大に取り残された途上国の問題を十分に担い切れていないとの認識があるようです。つまり地球の現在の人口80憶人のうち、10億にも満たない先進国の人々で半分以上の富が独占されている格差状態が続く限り、混乱状態は収まらないというのです。

 2022年のロシアのウクライナ侵攻、或いはその翌年10月のハマスによるイスラエル侵攻以来、世界を覆う暗がりがますます濃さを増してきています。しかし田中邦夫さんによれば、すでに1990年代の初め、多くの人がベルリンの壁の崩壊を新たな希望の始まりとみていた頃、ウォーラーステインは、新たな混乱の時期の始まりをみていたのです。そしてこの混乱は長く恐らく、80億の人間への公平な分配システムへの展望が新たに開かれるまで続かざるをえないのでしょう。そのような富の格差からくる窮乏の中で、多くの人々は自国ファーストの叫びに同調せざるをえなくなるのでしょう。少なくとも80億の人々の共生が視野に入らなければ、この混乱の解決の糸口はないと覚悟しなければならないでしょう。

 ここで最大の問題となるのは、どのようにして、南北の格差を解消して行く方向をみいだせるか、そしてさらにAI技術の急速な発展に伴う労働市場の激変、失業者の増大と富の偏在から生まれる格差社会をどう解決してゆくのかということでしょう。しかも近代産業社会が生み出した地球温暖化による自然災害も視野に入れた地球全体における「公平な社会の実現」が目指されねばなりません。混乱と暗闇が一層深まる中で、一層この課題の解決の必然性が顕わになって来るでしょう。そのような困難な課題の前に私たちは立たされているということだけは、知っていなければならないのだと思います。

3 今キリスト者として問われていること

 先ほど開会礼拝では「だから目を覚ましていなさい」との聖書の箇所について語りました。現代の先の見えない暗がり、不気味な地鳴りが絶えず続いているような今の時代の中で、意気阻喪せず、絶望せず「目を覚ましている」ことの困難さについて述べました。あの聖書の箇所では、不意に訪れる主の日について語られていました。油断して備えをせずにいるところに主人が帰って来て、狼狽する従僕について、あるいは不意に無防備に盗人に襲われる一家の長が譬えに語られていました。しかもテサロニケの信徒への手紙においては、時代の暗がりの中にありながら、信仰者にとっては、主の日は盗人のように夜やってくるのではないとの励ましも語られました。しかし聖書にはこれとは異なる怠り、見過ごしについて語られているところがあります。

 一つは、エマオ途上での復活の主との出会いの話です。その書き出しは次のように記されています。「ちょうどこの日、二人の弟子がエルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切のできごとについて話し合っていた。話し合い論じあっていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスと分からなかった」(ルカ24章13~16節)。全く主であることに気づかなかったというのは異様です。その理由として「目は遮られていた」と言われています。単なる経験的事実のレベルでない霊の現実が問題とされていることが暗示されているように思えます。弟子たちに、何を話しているのかとイエスは問い掛け、この弟子たちは、仲間の婦人達が復活の主に出会ったという出来事について、互いに論じていたことをイエスに語ります。しかしおそらく自分たちは信じられないと二人の弟子はイエスに語ったのでしょう。この不信によって「目を遮られ」ていたのでしょう。そのことはイエスの反応で分かります。「そこでイエスは言われた『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことを信じられない者たち」という嘆きです。エマオへの道すがらイエスの聖書の解き明かしを聞きとおし、エマオよりさらに先に進もうとするイエスを強いて押しとどめて、共に宿に泊まります。そして食事の時に、「賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」その時に、二人の目が開けて、イエスだと分かったと記されています。私はこの聖書の箇所を一つの「呼びかけ、招き」の言葉として受けとめたいと思います。つまりこの復活の主の訪れを、現代の私たちにも起こりうる霊的な出来事への招き、語り掛けとして受けとめたいと思います。私達の目は、実際「塞がれ」ています。この「今、此処」を、復活の主が訪れたもう場として、開かれないまま生きています。その意味で、主イエスが見えないままです。主の密やかな「訪れ」に気づかないままです。その意味で「だから目を覚ましていなさい」との言葉が鋭く当てはまるのです。

 しかしこのエマオの記事には励まされます。エマオ途上のイエスは、私達の「ものわかりの悪さ、不信仰」を厳しく非難しながらも、道々聖書の解き明かしを主は懇切にしてくださったことが記されています。そしてその解き明かしを聞いた時、二人の「こころは燃えていた」と記しています。確かに復活の主の密やかな、私達にとっては、思いもかけぬ、不意の訪れは、私たちが自由に望んだ時に与えられるものではありません。「イエスご自身が近づいてこられた」(ルカ24章14節)とあるように、復活の主が、私達に「近づいてこられる」のです。私達の「今、此処」に近づいてこられるのです。私たちにできるのは、目を塞いで、見過ごすことのないよう備えることだけでしょう。そして私達に語り掛けられる呼びかけに、「心を燃やす」ことができるよう備え、そのように「目を覚ましている」ことが求められているのです。

 もう一つは、マタイによる福音書25章31節からの有名な、そして身震いさせられる話です。終わりの日に右側の人々には、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(35~36節)と語られ、いつ自分たちがそのようなことを為したかと不思議がる人々に対して、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」と、厳かに答えられます。これに対して左側の人々には「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」と言われます。私たちは慄然として、世界は、このような困窮した人で一杯です、どうして私たちがそのすべての人にすることができましょうと答えたくなります。この話のポイントは、あらゆる困窮者のことを配慮せよ、さもなければお前は裁かれるということではないでしょう。そうではなく私が出会う具体的な人々の中に、しかも最も小さな者の一人のところにイエスは向かい、その傍らに立っておられる、或いは御自身最も小さな一人として私に出会おうとされているということなのでしょう。だから私もその、最も小さな者の一人として、その場に赴かねばならず、そこにおいて主に出会うように招かれているというのでしょう。この混乱の暗がり、薄闇の中で、なお主は最も小さな者の一人として、私たちを訪れ、出会っておられることを聖書の記事は語り続けているのです。私達は、日々の歩みの中で、自分がそこで何をなすのかをいつも、そして密やかに問われているのだと思います。   

(日本基督教団 北白川教会員)