テコアの牧者 山本精一
紀元前8世紀半ば、南ユダ王国テコアの地に、アモスという名の一人の牧者がいた。彼は、あるとき預言者として召し出された。その彼の言葉を基にして成ったもの、それがアモス書である。そのなかに、彼自身自らの召命経験について語っている部分がある。そこには、アモス召命の決定的瞬間を画する恐るべき言葉がある。その言葉はいったい何を意味しているのか。またわれわれに何を語りかけているのか。
テコアは、南ユダ王国の首都エルサレムから18㎞ほど南に位置する町である。このテコアのすぐ南と東には、荒涼たる荒野が広がっている。このような厳しい地勢にありながらも、テコアそのものは耕作可能な小平原にあった。しかもそこは、孤立幽遠の地にあらずして、ラクダに乗って砂漠を行き交う商人たち(隊商)の重要な通商路が近傍を通り、彼らを通して他所の様子を広く聞き知ることのできる土地柄でもあった。その地で彼は、家畜の飼育、イチジク桑の栽培(七14)に勤しむ日々を送っていた。そのアモスを、突如、主ヤハウェからの途方もない呼びかけが襲う。北イスラエル王国へと出向き、その民に向かって預言せよ、と(七15)。アモスは、この主の呼びかけに従い、北王国の中枢部、すなわち首都(サマリア)さらに国家聖所(べテル)へと赴き、この国を覆いつくす不義と腐敗と虚偽を敢然と告発し、激烈な審き(禍い)の預言を語る。テコアの牧者を、そのような熱情の預言者として新たに立たしめたもの、それがこの召命の出来事に他ならなかった。
プロローグ(一1、2)には、アモスの時代背景が簡潔に記されている。それは、南ユダではウジヤ王(BC787―736在)が、北イスラエルではヤロブアム二世(BC782―743在)が、それぞれ長期にわたって統治した時代であった。この時代、北イスラエル王国は、一時的に国力を回復し、領土を拡大した(列王記下一四23―25)。しかしアモスは、まさしくその王国内の民の不正・不道徳・偽善を、獅子吠える(三8)がごとく糾弾する。
ヤロブアムによる領土回復は、イスラエル社会に富の増大をもたらした。だがそのことによってその社会はどうなったのか。アモスは、その実態を暴露する。一方には、富を搾取・独占奢侈(ししゃし) に泥なずむ少数富裕層があった。それは主として、王侯・貴族・地主・商人から成っていた。彼らは私腹を肥やすことには極めて敏くあったが、その彼らの貪りによって土地・財産を奪われた人々は、奴隷として身を売る外なき困窮へと追いつめられていった(二6)。
アモスは先ず、諸国民の罪を厳しく断罪する。べテルの国家聖所で、南からやって来たこの見知らぬ男が語り出した近隣諸国民断罪の言葉に、祭りに参じた多くの北王国の民は、初めのうちはやんやの拍手喝采を送ったことだろう。しかし、一転して、自分たちの罪こそが、諸国民の罪にもましてさらに一層厳しく指弾されたとき、その祭りの場は、たちまち憤怒怒号の場に一変したことだろう。そのなかで、アモスは、このイスラエル社会に澱のように降り積もり、それによって苦しむ人々を一層苦しめていく社会的不正義への審きの預言を語りぬく。かくて、国家聖所に蝟集する人々に向けて真っ向からアモスが語ったのは、彼ら自身の生活の根底に巣食う虚偽・不正(五21―23)に他ならなかった。
今回アモス書全体を繰り返し読むなかで、アモスへの畏怖の念を、さらに一層深くそして新たにした。テコアの牧者アモスとは、まことに言葉の人であった。そしてこの言葉の人は、自分の生きている時代から寸分も遊離することのない言葉を語る人であった。人々が見て見ぬふりをする現実を、かくも徹底的にかくも誤魔化しなしに語りきるその剛直は、単なる一個人の傑出した内面的特質などと言って済ますことのできないものである。いやむしろ、そうした個人的特質云々ということをはるかに超えて、その時代全体の最深部にある、人間の傲慢と、その傲慢に踏みにじられる人々の苦難の現実に、つまりは人間と社会の現実に、彼の言葉は直接している。その意味で、アモスという人は、以上のことを可能にするもの、すなわち自分自身諸外国、そして何よりも自国の道徳的頽廃と社会的不正義の実相を徹底的に弾劾するアモス書は、イスラエル社会が当時どれほど冷酷無惨な格差分断社会であったのか、その証言の書でもある。アモスは、その悲惨な現実から目を逸らし、豊かさに狎れ、おのれの安逸を貪る者たちに対して、容赦のない審きを語り、覚醒と悔い改めとを烈しく迫る。しかしその審きと覚醒と悔い改めの預言は、古のイスラエル・ユダの枠を突破し、何よりもわれわれの今を直撃する。
アモスを襲った神は、単にイスラエル・ユダにのみ限定された神ではない。諸外国、いな全世界の神である。アモスがこれほどまでに鮮烈に同時代の罪を認識し、これほどまでに厳しく審きの言葉を語りえたのは、畢竟、彼の個人的宗教的天才によるものではない。彼は、ヤハウェの神が出エジプトの民と結んだ契約というものに、徹底的に立ちかえっている(二4、10)。モーセと結ばれた契約は、アモスの今を鮮烈に生かし動かしている。それは、アモスにとっては、決して、旧来の言い伝えでも、祀り上げられた伝統でも、ましてや民族的な誇りの拠り所でもなかった。時代と自国が今現在丸ごと陥っている度し難い傲慢と不正と虚偽とを見抜き、さらにはその現実に安住する者たちを指弾せずには止まぬ(五10―12)衝迫力をもつものであった。その根底には、アモスが、時代のなかで時代を超えて、契約の神ヤハウェと新しく出会ったということがある。そのことこそが彼に、尽きることなく、時代の不正義を見抜く「深い知識と鋭い感覚」(ピリピ二9協会訳)とを与えたのだと思う。テコアの牧者と世とを超えているものに烈しく出会わされた人だったのだと思う。彼はまたその根本経験に動かされて、よく学び、深く聞き、記憶すべきことを徹底的に記憶する人であった。このアモスのありようは、後続のイスラエル預言者たちのうちに、脈々と受け継がれていく。
アモスは、アモス自身の現実を遙かに超えるものに出会っている、といま述べた。そのことは、ごく短い部分であるが、彼の召命に関わる記事のなかに、驚くほど率直に吐露されている。アモス書中、アモスが自分自身について言及しているところはほとんどない。しかしそうしたなかにあって、7章14― 15節は、自身についてなされた数少ない自己証言の箇所である。
1章1―2節のプロローグでは、アモスは三人称で記されている。それに比して、アモスが一人称で自らについて述べている箇所、それが7章14― 15節である。その直前箇所では、北王国イスラエルの国家聖所ベテルの祭司、つまりは国王ヤロブアム二世お抱えの祭司にして、王国そのものの安泰・安寧・安全・安心を祈る国家祭司アマツヤが登場する。アマツヤは、アモスのことを自分と同類の職業的宗教人と決めつけたうえで、そのアモスを蛇蝎のごとく忌み嫌い、北王国から追放すべく立ち回る。彼はアモスに面と向かって、「われわれの前から一刻も早く立ち去れ。このままでは命の保証はない。もと来た南ユダの片田舎におとなしく引っ込み、そこでお前なりの講釈を売り物にして食いつないでいくがよい。さすれば今回は見逃してやる」と、恫喝・脅迫の言葉を投げつけた。じっさい、アマツヤにしてみれば、その民同様、アモスの語る審きの言葉は、不安を掻きたてる「耐えられない」(七10)ものでしかなかった。
地上の権力に宗教が迎合し、それと結託するとき、その宗教のありようを批判・断罪する預言者は、その宗門の権威筋にとっては「耐えられない」危険な存在となる。宮潔めのイエスに殺意を固めたエルサレムの宗教家たちを筆頭に、アマツヤのならいは、様々なかたちをとって、今の今に至るまで預言者を抹殺し続けてきたものである。
そのアマツヤの恫喝・脅迫に対して、アモスは一歩も退かずに審きの預言を語りきる(七17)。その直前でアモスは告白する。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」(七14)と。アマツヤはアモスを「先見者(ホーゼー)」(七12)と見なした。アモスは、アマツヤの型通りのこの決めつけを全面的に払いのける。アモスは自らを、「先見者」はおろか、「預言者(ナービー)」でもなければ、「預言者の弟子(ベーン ナービー=職業的預言者集団に属する一人)」でもないと断言する。では何者なのか。「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」。これがアモスの答えである。アモスは牧者として独立不ふき 羈の生を生きていた。その一点に確と立って、彼は、何一つ臆することなく、ベテルの国家祭司アマツヤに対峙する。だが、上等な祭服で身を固めたアマツヤにとっては、このアモスの返答は、意味不明の戯言にしか聞こえなかったはずである。
諸外国、そして何よりも自国の道徳的頽廃と社会的不正義の実相を徹底的に弾劾するアモス書は、イスラエル社会が当時どれほど冷酷無惨な格差分断社会であったのか、その証言の書でもある。アモスは、その悲惨な現実から目を逸らし、豊かさに狎れ、おのれの安逸を貪る者たちに対して、容赦のない審きを語り、覚醒と悔い改めとを烈しく迫る。しかしその審きと覚醒と悔い改めの預言は、古のイスラエル・ユダの枠を突破し、何よりもわれわれの今を直撃する。
アモスを襲った神は、単にイスラエル・ユダにのみ限定された神ではない。諸外国、いな全世界の神である。アモスがこれほどまでに鮮烈に同時代の罪を認識し、これほどまでに厳しく審きの言葉を語りえたのは、畢竟、彼の個人的宗教的天才によるものではない。彼は、ヤハウェの神が出エジプトの民と結んだ契約というものに、徹底的に立ちかえっている(二4、10)。モーセと結ばれた契約は、アモスの今を鮮烈に生かし動かしている。それは、アモスにとっては、決して、旧来の言い伝えでも、祀り上げられた伝統でも、ましてや民族的な誇りの拠り所でもなかった。時代と自国が今現在丸ごと陥っている度し難い傲慢と不正と虚偽とを見抜き、さらにはその現実に安住する者たちを指弾せずには止まぬ(五10―12)衝迫力をもつものであった。その根底には、アモスが、時代のなかで時代を超えて、契約の神ヤハウェと新しく出会ったということがある。そのことこそが彼に、尽きることなく、時代の不正義を見抜く「深い知識と鋭い感覚」(ピリピ二9協会訳)とを与えたのだと思う。テコアの牧者と世とを超えているものに烈しく出会わされた人だったのだと思う。彼はまたその根本経験に動かされて、よく学び、深く聞き、記憶すべきことを徹底的に記憶する人であった。このアモスのありようは、後続のイスラエル預言者たちのうちに、脈々と受け継がれていく。
アモスは、アモス自身の現実を遙かに超えるものに出会っている、といま述べた。そのことは、ごく短い部分であるが、彼の召命に関わる記事のなかに、驚くほど率直に吐露されている。アモス書中、アモスが自分自身について言及しているところは
ほとんどない。しかしそうしたなかにあって、7章14― 15節は、自身についなされた数少ない自己証言の箇所である。
1章1―2節のプロローグでは、アモスは三人称で記されている。それに比して、アモスが一人称で自らについて述べている箇所、それが7章14― 15節である。その直前箇所では、北王国イスラエルの国家聖所ベテルの祭司、つまりは国王ヤロブアム二世お抱えの祭司にして、王国そのものの安泰・安寧・安全・安心を祈る国家祭司アマツヤが登場する。アマツヤは、アモスのことを自分と同類の職業的宗教人と決めつけたうえで、そのアモスを蛇蝎のごとく忌み嫌い、北王国から追放すべく立ち回る。彼はアモスに面と向かって、「われわれの前から一刻も早く立ち去れ。このままでは命の保証はない。もと来た南ユダの片田舎におとなしく引っ込み、そこでお前なりの講釈を売り物にして食いつないでいくがよい。さすれば今回は見逃してやる」と、恫喝・脅迫の言葉を投げつけた。じっさい、アマツヤにしてみれば、その民同様、アモスの語る審きの言葉は、不安を掻きたてる「耐えられない」(七10)ものでしかなかった。
地上の権力に宗教が迎合し、それと結託するとき、その宗教のありようを批判・断罪する預言者は、その宗門の権威筋にとっては「耐えられない」危険な存在となる。宮潔めのイエスに殺意を固めたエルサレムの宗教家たちを筆頭に、アマツヤのならいは、様々なかたちをとって、今の今に至るまで預言者を抹殺し続けてきたものである。
そのアマツヤの恫喝・脅迫に対して、アモスは一歩も退かずに審きの預言を語りきる(七17)。その直前でアモスは告白する。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」(七14)と。アマツヤはアモスを「先見者(ホーゼー)」(七12)と見なした。アモスは、アマツヤの型通りのこの決めつけを全面的に払いのける。アモスは自らを、「先見者」はおろか、「預言者(ナービー)」でもなければ、「預言者の弟子(ベーン ナービー=職業的預言者集団に属する一人)」でもないと断言する。では何者なのか。「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」。これがアモスの答えである。アモスは牧者として独立不ふき 羈の生を生きていた。その一点に確と立って、彼は、何一つ臆することなく、ベテルの国家祭司アマツヤに対峙する。だが、上等な祭服で身を固めたアマツヤにとっては、このアモスの返答は、意味不明の戯言にしか聞こえなかったはずである。
かくて次に発せられる言葉、そこにこそ、私は、預言者アモス召命の出来事の核心を見る。「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」(七15)。アモスには、羊の群れを追うという、日々なすべき労つ とめ 働があった。ここで「追う」という語を、ある英訳はfollow としている。follow には、「従う」という意味もある。われわれは日々自分の仕事に携わる。しかしその仕事を遂行するためには、それぞれの場面で必要とされる事柄を的確に見極め、その必要を勘案しつつ事を進めてゆかねばならない。そうでなければ、そのわざは独りよがりなものとなって空回りし、よき仕事はなしえない。まさしくその意味で、羊の群れをfollowするには、羊たちの必要と状態を的確に見取り、折々の状況の変化に適切に対処する、日々の経験の積み重ねが必須不可欠となる。かくてアモスは、事を見極め事に従いつつ、日々のわざに倦まず弛まず従事する牧者であった。それは、厳しくとも祝福された労働であり生(生活)である。
しかし、その生(生活)を丸ごと奪い取る呼びかけが、突如、アモスを襲う。「主は」その「ところから、わたしを取り」(七15)とアモスは語る。この箇所を文語訳は「然るに エホバ羊に従ふ所より我を取り往ゆ きて我が民イスラエルに預言せよと エホバ我に宣い へり」としている。この「取る」という言葉に、私は心底震撼する。これは原文では、ラーカッハという動詞である。
この語の用例は幅広いが、アモス書に限って言えば、ここ以外あと二個所で用いられている(五11、12)のみである。それらを見ると(「弱い者から穀物の貢納を取り立てる」・「賄賂を取る」)、いずれも強引不当な取り立て行為を表している。すると、アモスは、そのような語を、よりにもよって、自らの召命経験の核心を語る言葉として用いているということになる。むろん、両者がまったく同じ意味だとは思わない。しかし、だからと言って、両者がまったく無関係だとも思えない。牧者を牧羊の現場から「取る」という事は、当の牧者からすれば突然その現場から「取り立てられる」という事である。そこには有無を言わさぬ強さの響きがある。その点に注目するならば、両者の「取る」の間には、強引さの点で似通うところがある。
アモスの不撓不屈の預言活動の始源には、この「取る」という言葉が響きわたっている。預言者として立つことは、アモス自身の選びとった道ではない。願った道でもない。主が彼を一方的に取ったのだ。アモスは、黙々と羊に従う日々の労働にあって、そこから突如自分を「取る」主ヤハウェに直面させられたのだ。しかし、それは同時に、それまでの祝された生(生活)がアモスから奪い取られたことを意味する。それはアモスにとって、痛みに満ちた「審き」の経験である。その意味で、アモスは、ここで「ヤハウェが取る」という審きの全重量を経験している。アモスこそが初めに審かれているのだ。しかしまた、それがアモスにとって預言者として召されるという事であった。この召命かつ審きの出来事こそ、王国の社会的不正義に対して、同時代人のたばかりに対して、ただ一人不退転で否と叫び続けた預言者アモスの熱情の、汲めども尽きない源泉であった。私は、アモス書の言葉に宿るいのちの源を、以上の出来事に見る。
牧者として祝された生を生きていたアモスは、しかしまたその祝福を奪い取る自由を有する神に出会った。この預言者アモスの神を震えつつ仰ぐとき、世に預言者と呼ばれ続けた救い主イエスの、あの審きと痛みに満ちた恩寵の叫びが、アモスとともにアモスを超えて轟き聞こえてくる。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」(ルカによる福音書六46)(2021年9月1日)
(日本基督教団 北白川教会員)