「関わること」を願い求めて 江村 悠子
「学生から学ぶ準備が本当にできているか?」先日の職員会議で投げかけられた問いだ。図星だった。
私の働くアジア学院で学ぶ農村リーダーたちのことを、便宜上日本語では学生と呼ぶが、英語ではパティシパント(参加者)と呼ぶ。職員のことは決して「先生」と呼ばない。この共同体に参加する人は皆、平等に先生であり生徒である。
そう得意げに語る一方で、彼らから学ぶ機会を活かせていない自覚が私にはある。学ぶとは情報を得ることではなく、他者との関わりから生じる自分自身の変容だ。だから私にとって冒頭の問いは、「ここで出会う人々と関わっているか」とほぼ同義である。これまでの学院での出会いを顧みると、学びと喜びに満ちた関わりも多く与えられてきたが、恐れや煩わしさ、自信のなさによって避けた関わりも数えきれない。卒業式を終えて帰国する一人ひとりに別れを告げる時、別れの寂しさよりも、関われなかったことへの寂しさが勝つことがある。この寂しさは、孤独で虚しい。
自分や相手が変えられるような人格的な関わりを、私はずっと願い求めている。関わりを避けがちな私がこのように願うのは、これまで共助会や様々な場で、心を砕いて関わろうとしてくれる友たちを与えられ、それによって変えられてきた実感があるからだ。この変容こそが、互いのいのちを大切にする、共に生きる世界を築いていくのだと確信している。だから私も、関わる人でありたい。
関わりが困難なとき、讃美歌21―575「球根の中には」の英詞の一節を思い出す。「Unrevealed until its season, something God alone can see」―その季節まで隠された、神様だけに見えるもの。目の前の人の真実も、出会いの意味も、私に見えるよりずっと奥に神様は見ておられる。信頼して、諦めずに関わり続けたい。 (アジア学院職員)
