巻頭言

パレスチナ問題に対する私の逡巡と夏期信仰修養会 井川善也

今回の修養会主題「赦しと和解」は、私に少し参加をためらわせる主題でした。ガザやウクライナの状況と平和への希望、特に昨年10月以降のパレスチナの問題は毎日の祈りの課題です。しかしこの問題への私の知識はニュースや新聞報道の程度であり、「武力衝突の当事者」(戦いを止める決断をする指導者層:ハマスとイスラエル)が、アブラハムの神を唯一神と奉じつつも「イエス・キリストを救い主とは認めない」信仰に立つ者同士であるとの理解の中、私は(聞くはともかく)何を語り合えるのか、加えて第二次世界大戦中のユダヤ人に対するドイツの罪責やアジアに対する日本の罪責が論じられた世代であるために、それが(ヨーロッパ諸国の対応と同様に)パレスチナ問題に対する自分の理解(立ち位置)にバイアスを与えているとの自覚もあり、そうした思いが重なり、やや後退りする心持ちで参加したためです。

修養会では、若い世代の参加者が「ガザの惨状に対して声を上げる・意思表示をしようとする」姿が印象的でした。共助会は若い人たちがその問いを投げかけようと思える場であり、そこに集う人は問いを投げかける甲斐のある相手と思われる、それは共助会が時代の中で今も生きている(生かされている)「印」のように思えたことも、理由の一つかもしれません。高橋哲哉さんはシンポジウムにおいて、パレスチナとイスラエルの間の和解(共存)には「無条件の赦し」が必要ではないか、「無条件の赦し」をキリスト者はイエスの十字架において見出すだろうが、アブラハムの神の宗教(ユダヤ教とイスラム教)、さらにそれを超えた世界にも見出す望みがある、という旨のことを語られたように思います。

修養会の後、ベツレヘムの教会で語られたクリスマスメッセージ(福音と世界2024年6月号、《Isaac Munther Christ inthe rubble》でyoutube 検索)を改めて読み・聞き返し、パレスチナの地に苦難の中の人々と「共に在る」キリストを示されると同時に、熱河の荒野や分断された隣国を歩まれるキリスト、差別された人々と共にあるキリストに招かれ従って歩んだ共助会の先達をも想起しました。また、イスラエルに対する預言者の厳しい警告(ミカ書2章―3章など)、神の正義のもとでの国々の平和(イザヤ書2章1―5節、ミカ書4章1―5節など)を私たちもまた世界も、時代を貫いて響く神様の呼びかけとして聞かねばならないでしょう。

( 日本基督教団 富山鹿島町教会員)