説教

桜美林中学校礼拝メッセージ-飯島信

■日 時:2015年10月14日(水)
■説教題:「響き合う心と力 ― 震災4年半の今を生きる」
■聖 書:マタイによる福音書 第25章34~46節

お早う。

この1年、元気でしたか?

中学校2年生以上の君たちには昨年も会ったけど、1年生に会うのは初めてだね。

改めて紹介させて下さい。

飯島信です。

現在、土曜と日曜は千葉県の松戸にある教会の牧師として働いているけど、月曜から金曜の平日5日間は、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国にある1700余りの教会によって組織されている日本基督教団事務局で働いている。君たちの教会であるここの桜美林教会も私たちの仲間。

ところで、今日は、これまで具体的に話すことのなかった私の仕事、つまり、東日本大震災で被害を受けた被災地の復興の仕事について紹介したいと思う。

 

ボランティア活動について。

つい最近も、集中豪雨による鬼怒川の決壊によって、茨城県常総市では大きな水害の被害が出たね。今週の日曜日の新聞によると、今なお400人の人々が家に戻れず避難生活を送っている。日本基督教団の水海道(みつかいどう)教会も被害に遭った。水は教会堂の床上60センチまで溢れ、3台あった幼稚園バスが水に浸かって使えなくなった。

ところで、雨の止んだ翌日から、全国各地からボランティアが訪れた。誰に頼まれたわけでもなく、自然に、困っている人を何とか助けたいと。

ボランティアに来たからといって、お金がもらえるわけではない。

むしろ、現地までの交通費、作業のための作業着や軍手などの用具、滞在期間中の食費や滞在費など、出て行くお金はばかにならない。

交通費と言っても、鉄道で来るわけではない。お金が無い中で来るのだから、高速バスを使う。

 

でもどうして?

損得から言ったら、得なことなど何もないよ。

お金も、時間も、体力も消耗し、泥だらけになり、疲れ果て、堅い木の床で皆一緒にごろ寝する・・・。

考えてみたら、得することなど何もないよね。

でもなぜ皆来るの?

頼まれもしないのに、わざわざ泥まみれになりに・・・。

 

そして、あの東日本大震災より4年半が経った。

君たちはあの時何年生だった?

中3の君たちは、あの時小学校4年生だから、中1の君たちはまだ小学校2年生だったね。あの時のこと、覚えている?

勿論だよね。人生の中で生涯忘れることの出来ない時だったから。

でもね、もう4年半もたった。

新聞やテレビでも、3月11日が来ると思い出したように取り上げるけど、普段の日はすっかり忘れられているよね。

しかし、皆(みんな)が皆(みんな)そうかと思ったら、違う。

被災地を、そして被災者を、私たちは決して忘れてはいないよ、と呼びかけ続けている人々がいる。

 

誰?

君たちだよ。

この桜美林中学、高校の君たち。

日本全国に数あるキリスト教主義の学校の中で、あるいは、それ以外の無数の公立中高の中で、君たちのように3・11を覚え続けている学校が果たして幾つあるだろうか?

数えるほどだと思う。

そして又、この夏、驚いたことがある。

私たちが運営している東日本大震災のボランティアセンターは、岩手県釜石と宮城県仙台、同じく石巻にある。その中の仙台と石巻を訪れたボランティアの数、7月から9月の3ヶ月間で何人来たと思う?

 

震災から4年半、新聞もテレビも取り上げない中で、忘れられても不思議はないのに、全国各地からやって来たボランティアは、何と延べにして2,000名を超えた。君たちと同じように覚えているだけではない。実際に、夜行バスに乗って、真夏の太陽にじりじりと照りつけられながら、黙々と畑の伸びきった草を刈り、ねぎを植えかえ、新しい住まいに移り住む家の引っ越しを手伝い、疲れ切った身体を教会の長椅子に横たえる。

そのようなことをするために延べにして2,000名がやってきた。

しかも、日本だけではない。台湾からも40名がやってきた。台湾からのボランティアの希望者は多くて、彼らは抽選に通った青年達だった。

いじめとは縁遠い世界。

憎しみとは縁遠い世界。

そこでは、自分のためではない、見ず知らずの他人のために、自分の持てる時間と力を惜しみなく捧げる人々がいる。

 

何の報酬も求めず、又人から誉められることも求めず、ただ困っている人の事を思い、この夏を生きた若者がいる。

彼らが惜しみなく捧げたその場所には、被災地に生きる人々の笑顔があり、感謝があった。

そして、その笑顔は、感謝の思いは、疲れ果てたボランティアの身体を癒すのに十分過ぎるほどのものだったんだよ。

なぜか分かる?

 

活動を終えて帰るボランティアの振り返りの言葉から分かるんだよ。

自分は、被災者のために何かが出来ると思ってやって来た。

でも、今振り返ると、自分に何かが出来たのではない。

そうではなく、被災から立ち上がる人々の姿を見て、自分こそ被災者から生きる力をもらって帰るんだと。

だから、又来ますと。

 

今日与えられた聖書の箇所は、マタイによる福音書25章34~46節。

いと小さき者にしたことは、イエス様にしたことと書いてある。

いと小さき者とは誰だろう。

いと小さき者、それは君の力を必要とする人たち。

どんなに貧しくとも、弱くとも、君が誰かのために何かをしたいと思ったその時、その誰かとはイエス様だよ。

そして、イエス様は君の助けを待っている。

 

さあ、思い切って一歩を踏み出そうよ。

自分のためだけではなく、君の力を必要とする人々のために。

それが、明日を生きる力ときっとなる。

私はそう信じている。

一緒に祈ろう。