説教

苦悩への畏敬(二)下村 喜八

共苦

一六世紀の大航海時代に、スペインは、南米諸国を植民地とし、原住民を奴隷として過酷な労働を強い、莫大な富を獲得しました。この時代に、バルトロメー・デ・ラス・カサス(一四七四―一五六六)は奴隷解放を訴え、インディオの自由と人権擁護のために活動しました。アメリカ南北戦争の約三五〇年前になります。シュナイダーの作品に、この人物を主人公にした『カール五世の前に立つラス・カサス』という小説があります。

この作品で、ラス・カサスの分身ともいえるベルナルディーノという人物が登場します。彼は征服者たちと行動を共にし、プランテーション経営によって財をなしました。彼は征服者、植民者として数え切れないほどの罪を犯してきました。罪は必ず裁かれるでありましょう。しかしそのような人間にも救いの可能性が残されていることを、この作品は見事に描いています。彼は、女奴隷ルカーヤとの出会いによって、失われていた良心を取り戻しはじめます。さらに重い病に冒され、生死の境をさまよいながら、自分の過去をラス・カサスに告白することを通して罪の自覚を深め、信仰に立ち返ります。その回心の過程のなかで、罪あるいは病や苦悩が大きな意味をもってきます。そこが彼にとって神に出会う場所となります。彼は次のように語ります。「私は善行を残すことはできませんでしたが、私の罪は実を結ぶことでしょう。おそらくわれわれの度外れな罪が、われわれの最後の希望ともなりましょう」。また、ほとんど恥ずべき罪以外の何をもなしてこなかったスペインに残された最後の希望は、ほかでもなく、その度外れな罪以外ではないということがこの作品で表現されています。

ルカーヤは、ひ弱に見えるために奴隷市場で買い手がつかずに売れ残っていた少女です。ベルナルディーノは多数の奴隷を購入した「おまけ」として彼女を手に入れます。なぜかこの娘に引きつけられるのを感じたからです。自分を引きつけた彼女の不思議な力について、彼はラス・カサスにこう語ります。「何

が私を彼女のところに引き寄せたのか、私にはわかりません。恐らくそれは、彼女の体を震えさせていた苦しみだったに違いありません。それが私の忘れていた心のなかの何かに呼びかけたのでしょう。苦しみへと引き寄せられる人間には、もしかしてまだ救いの余地が少しは残されているのかも知れません」。

三〇年ほど前に初めてシュナイダーの作品を読んで驚いたのは、今までに聞いたことも考えたこともない言葉がたくさん出てくることでした。この言葉もその一つです。そしてこの言葉のとおり、このときから彼の良心が目覚めはじめます。ベルナルディーノとルカーヤの関係は主人と奴隷の関係、征服者と_被征服者、加害者とその犠牲の関係であるにもかかわらず、両

者はほとんど神秘的としか表現しようのない仕方で結ばれています。そのような結びつきを成り立たせているのは、もっぱらルカーヤの心の質ですが、同時にベルナルディーノの「苦しみへと引き寄せられる心」であることも否定できません。

ルカーヤは自分のために何かを欲するということを知りません。むしろ人に与えようとします。たとえば主人からもらった金のネックレスも真珠の飾りも丁寧にしまっておいて身につけようとせず、女奴隷たちが畑の畝を盛り上げるのに鉄の棒しか与えられずに苦しんでいると、彼女は、主人の贈り物と交換して手に入れた鍬くわをもっていってあげます。彼女が示す喜びも、また苦しみも、ベルナルディーノの理解を超えています。彼は、彼女のことを「私たちの生とはまったく違った仕方で花咲き、何かを欲することなく枯れてゆく根本的に理解不可能な生」と呼んでいます。

彼女はルカーヨ諸島から連れてこられたのでルカーヤと名づけられました。彼女は、人の苦しみを我がこととして苦しむことのできる心をもっています。先にも一例をあげたように、奴隷たちにさまざまな援助の手を差しのべます。また、一人の子供が疲れ切った母親の胸で死んだり、荷物かつぎが倒れたり、とにかく奴隷の身に何かが起こると、主人はルカーヤの顔からそのことを読み取ることができます。すなわち彼女は、ベルナルディーノが彼女の国民に加えた不幸を、自分自身の身に起こったかのように受けとめ、それを耐え忍びます。ついに彼女は、奴隷捕獲場面を目撃して、苦しみのあまり倒れ、間もなく死にます。「彼女は、彼女の国民の苦悩のゆえに死んだ」と言えます。しかし、彼女は彼女の国民のために苦しむだけでなく、自分の国民を虐待する人間のためにも苦しみます。ベルナルディーノは彼女の死に際に、彼女が自分の同胞のことで苦しんできたのと同じほど主人である彼のことで苦しんできたことを知らされます。彼女はキリスト者のあり方を純粋な形で体現していると言えるでしょう。このような彼女の生き様がベルナルディーノの心を変えてゆくことになります。彼は「今や私は、ルカーヤのなかには私が手に入れることのできない何かがあることがわかってきました。(……)そのころ私ははじめて、私の生が最も奥深いところで分裂するのを感じました。生は二つに割れました。(……)裂け目は深くなるばかりでした。私のなかには、することなすことに反対する何かがありました。私は、あの物静かな少女が私のなかに培ったこの反対の声を心から払拭することはできませんでした」と語っています。

ルカーヤとの結びつきのおかげで、ベルナルディーノの魂は守られ、生きつづけることができました。ラス・カサスは彼に尋ねます。「あなたは時に自分の魂を軽蔑し、憎悪し、虐待してこられた。そしてインディオに加えたのと同じことを自分の魂にもさんざん加えてこられた。しかしこの魂は死んでしまいま

せんでした。いったい誰が生かしつづけたのでしょうか」と。その質問に、ベルナルディーノはこう答えます。「私の魂ですって。私にまだ魂と呼べるものがあったのかどうか、私にはわかりません。たぶんそれは長い年月、別の人のなかに住んでいて、その人が死んだ後にようやく私のところに戻ってきたのでしょう」と。別の人とはルカーヤのことを暗に指しています。

ルカーヤはその愛の純粋さにおいて比類がありません。しかし愛は、罪の現実のなかでは必然的に苦悩の姿をとらざるをえませんし、そして愛は純粋であればあるほど苦しむ人のためにより多く自己を使い果たすことになります。われわれは彼女において、純粋な愛と苦悩とは一枚の紙の表裏のように一つであることの典型的な実例に出会います。しかし苦悩と完全に一つであるような愛は、ベルナルディーノも言っているように、利己的な利害の打算や、せいぜいギブ・アンド・テイクで動いている人間や社会にとってはとうてい理解することのできない、異質で、超自然的な事態であると言わなければなりません。しかしわれわれは不思議なことに、このような実例に出会うとき、深く心をうたれ、自己のなかに今まで未知であった新たな何かが生まれてくるのを体験することがあります。利害の打算からできている一つの完結した世界が、新しいものの侵入によって破壊され、分裂するのを体験します。このような事態をわれわれは、現世の生活秩序のなかに異次元の光が差し込んでくると表現するほかありません。私は学生時代の大変苦しい時期に、この北白川教会でそのような事態を経験しました。その後も経験しております。

ルカーヤと出会って以来ベルナルディーノに変化がはじまります。まずインディオたちへの思いやりが彼の心に生じてきます。そして紆余曲折を経ながらも、彼は帰国の際、農園と奴隷を解放します。さらに、ラス・カサスとの親密な交わりのなかで、ルカーヤが念願していた神の大いなる慈悲も彼に与えられ、次第にこの世の財への執着を断ち切ることが可能になってゆきます。しかしそれは、悲しいことに、彼女の死後かなり経過してからのことです。「客が去ったあとでようやくその人が理解できるようになる、そういう人を神が私たちの家にお遣わしになることがあるのであろう」。

ラス・カサスは世界史の進路を左右するような領域で活動していますが、その彼を深いところで動かしているものは苦悩です。彼には、どこへ行ってもどこに居ても、仕事をしていても祈っていても、休もうとしても説教をしようとしても、乱獲されて死んでゆく鳥たちの嘆きの声が聞こえてきます。夜も昼も、滅んでゆくインディオたちの言語を絶する悲惨が彼を苦しめます。そればかりでなく、彼は、人々からは「スペイン人のための心をもっておらず、インディオを思う心しかもっていない」と考えられていますが、彼の最も深い苦悩は、スペイン人の滅んでゆく魂に向けられています。彼を生かし、人権擁護の闘いに力と勇気を与えているものは、その現れ方や現れる世界に大きな差異があるとはいえ、ルカーヤの〈苦悩と一つである愛〉と本質は同じであると言えます。

裸の十字架

次に、ナチス時代に体験したシュナイダーの精神的な状況についてお話しします。当時(ナチスの時代)、ドイツ人が重ねている罪は彼には、「存在するすべてのものをかき集めて裁きへと押しやっているように見えます」。この国と国民の未来には、神の裁きと滅びしか見えません。いやそればかりか、国民は今、絶対に解けない矛盾のなかに追い詰められていました。事態は過酷でした。彼は自伝のなかで、友人で詩人のヨヘン・クレパーが召集されたときに語った「私たちはみな、神の前に殺人者だ」という言葉を思い起こしています。(クレパーは後に自殺をします)。召集された兵士は、戦場で敵を殺すことを命じられます。その兵士の良心の苦しみをシュナイダーは身につまされる思いで書いています。「自分が行動しても、行動しなくとも罪を犯すことになることを知りながら、個人的にどちらかを決断しなければならない。自分を相手に殺させれば、相手を殺人者にしてしまう。自分が殺せば、自分が殺人者となる」。またある若い友人が召集されました。彼はまったく兵士には向いていませんでした。それゆえ上官たちは彼に厳しい態度をとり、東国出身の若い娘を射殺することを命じました。「彼は命令にしたがった。その後、彼は自殺を遂げた」。

そのような解くことのできない矛盾は兵士だけのものではありませんでした。その事態を一般化して次のように述べています。「これらの惨事を是認すれば同罪を免れることはできないことは明白である。しかし是認しない人間であっても、手をこまねいていては、新しい罪を犯すことになる。なぜなら創世記にもあるように、私たちは神からこの世の管理をゆだねられているからである(創一・二八)」。しかし今の事態のなかでどのような管理がなされるべきであろうか、と彼は自問します。「私は自分が裸の十字架の前に追いやられるのを知った。そしてその場所に立ち尽くしている」と書いています。キリスト教の歴史のなかで十字架はさまざまな形で濫用されてきました。「裸の十字架」は、キリストが十字架につけられたままの十字架のことですが、森明が用いた意味での「血みどろな十字架」に近似していると思われます。

シュナイダーが、惨事を押し止めたくともそうできない事態と、そこに立たされた人間の運命をどれほど苦しんだかは私たちには想像することもできません。恐らく日本においても、第二次世界大戦中、心あるキリスト者は、そのような苦悩を体験したのであろうと推測します。澤崎堅造や和田正を熱河に赴かせたのもこのような苦悩であったと思われます。

彼の生きた時代は人間を十字架の悲劇へ導く時代でした。複数の可能性のうち、どちらに決断しても罪を犯すことになるという状況のなかで、こう書いています。「われわれは決断しなければならない。一つ一つの決断は必然的にわれわれに傷を負わすことになる。そしてわれわれの愛のなかに深く食い込んでくる」。したがって、この時代は一人一人の人間の生がキリストの犠牲死に近づくこと、キリストの生と同じ形を取ることを求めているのであると彼は言います。彼は祈ります。「キリストの生が犠牲であったのと同じように、われわれの生を犠牲であらしめてください」と。

希望

時代の現実を見れば、絶望だけがあって希望はどこにもないように思えるなかで、彼が希望を見いだした場所がありました。それは時代の罪と諸矛盾のなかで苦しんだ人々の深い苦悩です。そこに神の力が働いています。そこに神の国、愛の国が始まっています。そこに希望の光が射しています。そこにしか希望はないと彼は考えます。

私たちは第二次世界大戦中、ナチスの独裁に対して取ったボンヘッファーの態度を思い浮かべます。彼は、今や、かつて倫理上の判断を可能にしていた理性、理念、良心、自由といった尺度が全く使いものにならない時代になってしまったために、「善か悪か」という単純な二者択一はもう不可能であると考えました。そして、国家があるべき姿から逸脱して人々の権利を奪い、暴虐を働いたとき、キリスト者の為すべきことの最後の可能性として、「車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるだけでなく、車そのものを停める」行動に出ることがあり得るとしました。そして巨大な悪の歯車を停めるために、ヒトラーの暗殺という悪、すなわち殺人の罪を選択しました。

それは彼の良心の最も秘められたところでの決断であったのでありましょう。シュナイダーは一九四七年の講演で、ヒトラー暗殺未遂計画に関与した人々の「良心の決断」に深い理解を示し、彼らの死を気高い犠牲として讃えています。

シュナイダーの信仰とそれに基づく倫理の中心は「共苦」です。彼は、愛とは苦しむ人と共に苦しむことであること、また、それが倫理の根本であることを、中世の神秘主義者たち、およびショーペンハウエルとウナムーノから学びました。そして彼はキリストの愛を「共苦」と定義します。キリストは、われわれの罪と、罪から発するあらゆる苦悩を担ってくださった。そこに救いがあります。そのような共苦の愛に生かされることによって、隣人に対して共苦の人となる可能性が開かれます。そしてまた、どんな苦悩をもキリストと共に担う十字架として担うことができます。苦悩を通してますますキリストに属するものとされます。キリストと我、キリストと隣人、隣人と我は共苦によって結ばれる。そこから真の和解と平和が生まれる。そのように彼は考えます。

一般に理解されている意味での、キリスト教への招きは、救いへの、自由への、永遠の命への招きでありましょう。しかし彼は、「苦悩への招きがキリスト教への招きである」と、耳を疑うようなことを言います。そして、苦悩に関して大事な点は、われわれが苦悩によって人間として浄化されたり、成熟を促されたりすることでも、またそれを克服することでもない。

「キリスト教は苦悩を克服しない。それを受け取るのである」と。イエス・キリストは、この世の苦悩を自分の身に引き寄せ、それを担い、そして死なれました。それと同じようにキリストという真理を生きるキリスト者も、あらゆる苦悩する人々のなかにキリストを認め、愛することを求められています。彼は次のように言います。「苦悩がキリスト自身への接近によって価値あるものとなるということ、このことはキリスト教の途方もないところである」。「すべての苦悩はキリストの所有となった。われわれもまた苦悩しつつキリストの所有となる」。

 

罪との闘い

以上述べてきたことは主に他者のための苦悩ですが、キリスト者には、自己の内なる罪ゆえの苦悩もあります。キリスト者は信じることによって安心立命の境地に達するとか、絶えずキリストのうちに喜びと平和、希望と力を見いだして揺るがないというものではないように思われます。一度信仰に入ったら、それ以降はキリストと継続的に不断に結びついて生きている人々がいるかもしれません。しかしシュナイダーの信仰はそうではありませんでした。「キリスト者は自己のうちに天使と悪魔を併せもつ、誘惑にさらされた人間である」と彼は言います。そして、信仰が深まれば罪を犯すことが少なくなるかというと、必ずしもそうとは言えません。むしろ、キリスト者の内面では、信仰が深まれば深まるほど、罪意識も深まってゆきます。罪の誘惑との闘いのなかで、信仰が崩壊するぎりぎりのところまで追い詰められることもあるかもしれません。彼にあっては、キリストへの接近、キリストとの一体化が深まってゆきますと、まるで天も閉ざされているかのような様相を呈し、神に見捨てられたキリストにまで近づく経験をします。この点については、私はまだ十分には説きあかすことができません。彼の言葉の紹介に留めておきます。「これは、取りもなおさず、キリストがわれわれに彼の後を追って、彼の経験された最も暗い時間のなかにまで入ってくるように呼び寄せているということである。嵐は弱い木の枝を引きちぎり、闇のなかへ舞い上げることがある。もはや幹との目に見える結びつきは存在しない。しかし、キリストは十字架上でなおいっそう孤独であった」。ところで、森明や奥田先生の文章を読んでいると、行間から、罪との闘いの呻きが聞こえてきます。そこに私たちは畏敬の念を覚えます。

 

苦悩の価値

小説のなかでラス・カサスは次のように語ります。「この地上で私たちがもっているものといえば、私たちの罪を除けば多くはありません」。「真の苦悩は、罪ある人間の手のなかでさえある種の価値を失わない」。この二つの言葉から考えますと、私たちがもっているものは、ほとんど、罪と罪によって得たもの、あるいは罪によって為したこと以外はないと言えます。だとすれば、私たちがもっているもののなかで、何らかの価値があるものといえば、もはや苦悩だけしか残らないのかもしれません。キリストへと導いてくれる病と苦痛、罪と闘う苦悩、苦しむ人と共にする苦悩、キリストに従おうとするがゆえに生じる苦悩、行為しても行為しなくても罪という状況のなかでの苦悩、裸の十字架の前で立ちつくすこと、それら以外にないのかもしれません。しかしその苦悩を神は見ておられる。外からは何も見えなくとも、何一つ為していないように見えても、魂のなかで起こっていることを見ておられる神には見えるでありましょう。そして、「罪びとの私をお赦しください」という悔い改めの心を神が是とされるのと同じように、その苦悩を神は是とされるのではないでしょうか。