【早天礼拝Ⅱ】土台:服従と信仰 中村 頌

マタイによる福音書7章21―27節

1 「確かな土台に立っているか」― 独立学園生のことばが私に問うもの

この人生で、本当に確かなものに出会いたい。「私」を本当のところ生かすものに出会いたい。あるいは、出会い続けたい。これは僕の願いです。おそらくこのように願うのは、誇ることのできる確固たる信仰を、僕自身が持っていないからでしょう。皆さんにとってはどうですか。一度キリスト者になれば、こうした願い求めは、もはや自分には関係のないものとなりますか。

僕は高校教員として働いていますが、少なくとも僕の知っている高校生にとって、こうした願い求めは非常に切実なものです。今日は、彼らのことばをいくつか紹介したいと思います。

勤務校の基督教独立学園高校では、年に一度「修養会」というクラス行事が行われます。日常から離れ、自分自身について、また自分たちの関係性について、見つめ語り合う機会です。「どんなテーマを話すか」という事前準備も、当日の司会進行も、生徒たちが行います。一泊のスケジュールのなかには少人数のグループの話し合いもあり、教員は主に聴き手としての参加がゆるされています。先日二年生の修養会に僕自身が参加させてもらった折のことですが、グループでの話し合いのなかで、ある女子生徒が次のような発言をしていました。話題は「なぜ自分が独立学園に入ったか」についてでした。中学校生活のなかで、「自分が周りからどういう人だと思われているか」を、自分はよくわかっていたと思う。高校入学前までは、その「相手から求められている自分」に合わせて生きていこうと心に決めて、自分をつくっていた。ある意味でそれはとても楽だったけれど、ふりかえってみるとそのような仕方で一緒にいる人のことを、自分は心からは信じてはいなかったし、相手も自分のことを信じていなかったと思う。中学時代は、自分には土台がないから、人と合わせることしかできなかった。けれど同じような思いをしたくなくて、自分は学園に来た。卒業後、出ていく先にもいろんな人がいると思うから、独立学園で自分の軸・土台となるものを作りたいと思ってる。

思いを話してくれた彼女に、「軸や土台ってどういうこと?」と質問が飛びました。「他の人から『〇〇しようよ』と言われても、ブレずに『私はこうだ』と言えるものを見つけたいんだ」と、彼女は答えていました。自分のうちに、本当に確かと言えるものを見つけたい。状況が変わっても、誰が何と言っても、「これを私は選ぶ」というものを持ちたい。そのような願い求めが共有されたわけです。その場にいた参加生徒のうちに、深い共感が広がっていくのが分かりました。呼応するように、他の生徒もまた思い思いに、自らのうちにある共鳴する思いを話してくれました。

そしてグループでの話し合いの終了予定時刻が丁度過ぎたくらいのタイミングで、質問が教員へと向きました。「頌さんの人生の軸、土台はなんですか」。それは真剣な問いでした。不確かな世の中にあって、本当に確かなものを求める若者の叫びが、そこにはありました。僕は、焦って適当に答えてはならない問題だということだけは分かった。丁度準備していた日曜礼拝の講話(説教)と響き合う内容でしたので、「よく考えて、講話の際に話す」と伝えました。

講話の準備は簡単ではありませんでした。独立学園生には、クリスチャンの家庭で育った子もそうでない子もいます。多様な生徒がいるなかで、借り物のメッセージ、いわば「血の通っていない」キリスト教的な模範解答は通じません。そのような環境で、「聖書が人生の土台について何と言っているか」についてなんとか伝えられぬものかと聖書講話をしました。今朝読んでもらった聖書箇所から話をしました(マタイ7章24節)。「砂ではなく、岩を土台とする」というあの有名な箇所ですね。

日曜礼拝が終わったあと一人の生徒が話しかけにきてくれました。修養会で僕が参加した話し合いのグループのなかにいた生徒でした。彼はこう言った。「頌さん、今日の話を聞いて、自分は自分の土台を一から作り直さなきゃいけないと思いました。今自分の土台は砂の上にあるなって。その上に、いくら積み重ねても……。だから話聞けてよかったです」。彼はこれまで、精一杯彼なりの「自分」を作ってきたのだと思います。真面目な青年です。一生懸命、試行錯誤しながら自分自身を構成するものを積み重ねてきた。けれど、講話を聴き、「この頑張って積み上げている自分自身は、一体どんな土台に立っているか」という問いが生まれた。そして、「自分は砂を土台としている。そうであれば、どれだけ高く、かっこよくそれを積み上げても、そんな自分は脆く崩れ去るぞ」と気付いたわけです。

彼の言葉を反芻するうちに、気付いたことがあります。それは、問われているのは他ならぬ僕自身であるということです。

「この青年の問題意識にあらわれた真摯さを、お前は持っているか」「お前自身の土台はどこにあるのか」。僕が受け取らざるをえなかったのは、キリスト者を自認している者にもまたこのことが問われているということです。なぜならイエス自身の語りが、同じことをわたしに問いかけてくるからです。マタイ7章21節。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。22節以降を読むと、戦慄せざるを得ません。イエスに「主よ主よ」と呼びかけ、御名により預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったと自認する者たちに、イエスはきっぱりと言う、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(23節)。

そのようなわけで、僕はこの共助会の夏期信仰修養会にあたって、もう一度このテーマに向き合いたいと思いました。それはつまり、わたしの土台の置きどころを聖書に問い直してもらうということです。

2 「岩に土台を据える」とは

今朝読んだマタイ7章21 ―27節は、福音書のなかでもとりわけ有名な「山上の垂訓」の結びにあたる箇所です。5章から7章にかけて、イエスは山上で、弟子たちを前にして、「この世にあって自分の人生を、天との関わりのうちでどのように受け止めたらよいのか、どのように生きていけばいいのか」について語ります。そしてその話の締めくくりとして、この話が登場するわけです。

改めて述べるまでもないかもしれませんが、たとえば次のような言葉が山上の垂訓では語られます。「心の貧しい人々は、幸いである」「復讐してはならない」「汝の敵を愛せ」「見てもらおうとして、人の前で善行をするな」「思い悩むな」「人を裁くな」「狭い門から入れ。広い門は、滅びに至る」。こうした、ときに非常に厳しい響きをもつ言葉の数々を述べた上で、イエスはそうした一連の言葉を、この「土台」の話をもって締めくくるのです。イエスは言います。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)。

イエスの言葉は、行いをともなった服従を要求しているように聞こえます。語られたことばを、ただ聞くだけで終わってはならない。「深くていい話聞いた」とか「刺さった」とか、あるいは「よく分かんなかった」とか、そういうレベルで終わらせてはならない。今どんなに感動していようと、あるいは理解不能であろうと、それは問題ではない。問題は、これらのことばが、あなたの生活にこれからどのように根ざしていくかだ。暮らしが変わって、雨風が吹き付けて、そのときに残るもの、そのときに自分を根本から支える土台を、お前は持っているか。私のことばをどう受けとめ生きるかということは、お前が生きる土台に関わる話なのだ。イエスはこのように語っているようです。

3 厳しさと愛が同居する言葉

ありがたいことに、僕たちはこうしたイエスの言葉が、厳しくはあれど深い愛と真実な生き方とに根差したものであることを知っています。また僕は共助会とごく限定的な関わりしか持ってきませんが、それでもここに集うメンバーと、こうしたイエス理解が共有できるであろうことは分かります。なぜならこの夏期信仰修養会で振り返ったように、僕たちには信仰の先達が与えられてきたからです。その信仰に根ざした生き様を通して、彼らは「厳しくも愛に満ちた言葉」というものがこの世に存在するということを、僕たちに教え続けてくれたからです。

独立学園生の言葉をもう一つ紹介します。独立学園では毎日朝夕と礼拝のときがあり、「感話」というかたちで生徒も教職員も、年に数回自らの思いを語ります。その朝拝の場で、数ヶ月前に、ある女子生徒が次のように語っていました。

私は最近よく思うことがあります。先生生徒を問わず、今の学園に、言葉や作品が何十年も残される程、「本気」の人はいるのでしょうか。もっと細かくいうなら、「本気」で他者に、自分の信じる価値観をぶつけられるような、ある種の傲慢さを持っている人、また、全力で自分の持っているもの全てで殴ったら、全力で殴り返してくれるような人はいるのでしょうか。

僕はこれを聞いた時、絶句しました。自分は今までこの学校で何をやってきたのか、どんな質の言葉を生徒に語ってきたのか、言葉を失うほかありませんでした。普段であれば、感話を聞いたあとで生徒に応答することもあるのですが、全くする気になれませんでした。自分が何事かを受け取ったように振る舞い、それによって免罪された気になってはいけない、と思いました。

イエスの語る言葉が、この生徒が意図したものと完全に重なるかは分かりません。けれど僕には、イエスが「本気」で、つまりその全存在をかけて言葉を発していたという確信があります。わからず屋の、腑抜けた、自己欺瞞のうちに沈みかねない弟子たちを、心から心配し、愛し、ときに叱咤をもって激励してくださっていることは分かる。なぜなら、そのように自分の存在をかけ、愛し、叱り、待ち、神の言葉を届けてくださった信仰の先達と出会ってきたからです。そのような生き方が実在するということを身をもって証し、その真実な人生を生き抜こうとされた人を私たちは知っています。

イエスの言葉が、空疎な理想論でも、「〇〇すべし」という「道徳訓」でもなく、存在を賭した愛する者へのメッセージだと分かる(しかも心から腑に落ちる仕方で!)ということは、なんというめぐみだろうかと思います。

そして同時に、そのような質の言葉を具体的他者からこれほどもらいながら、僕がそうした言葉の発信源となっていないという事実を突きつけられるのです。省みるとき、僕はその人生の歩みのほとんどにおいて、自分が安全にいられる場所から、聞こえのいい、そつない言葉を隣人とやりとりしているに過ぎません。

4 「従うこと」と「信じること」

話を戻します。今朝僕たちは、服従をうながすイエスの言葉を読みました。その言葉の真剣さをまともに受けとめようとするとき、僕は同時に不安を覚えます。言わば、「新たな律法主義」とでも呼びうる状態に陥るのではないか、という危険を感じるのです。「イエスが語ったことを守らなければならない」「そうしないとイエスのいのちに与ることはできない」と自分を奮い立たせ、「よし頑張るぞ」と意気込む。けれど、そうした観念に自我を支配させたとしても、結局十分には従えていない自分自身に落ち込んだり、どうせ無理なんだと諦めたり、あるいは逆に偶々うまくできたことをもって「自分はやったぞ」と自らを誇ったりすることになるのではないか……。そのような危惧を覚えるのです。

「服従をうながすイエスの言葉の真剣さは私を縛りつけるのでなく自由にする」ということを、僕は頭では知っています。けれどあまりに多くの場合、「ではそれが一体どういうことなのか」と問われると、分からなくなってしまうのです。

最後に、服従がもたらす自由について聖書から受け取りたいと思います。ヨハネによる福音書15章1―5節です。

1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ここでイエスが命じていることは、おそらく「わたしにつながっていなさい」ということに尽きます。確かにイエスは、いくつものことを弟子に命じました。山上の垂訓にも多くの命令がありました。けれどおそらく「イエスに聞き従う」とは、数多の「やるべきことリスト」を一つ一つ消化していくことではないのです。それはきっと、ただ一つの内容しかもたないのだと思います。求められているのは、「イエスとつながる」ということ、ただそれだけなのです。

しかもそれは、弟子自身の力で、どうにか「つながれ」「したがえ」と言われているのではありません。4節を読めば、「わたしにつながっていなさい」の直後に、「わたしもあなたにつながっている」というイエスの宣言が続いていることが分かります。「つながっていなさい」という命令の前提に、イエスがその弟子をすでに捉えてくださっているという事実がある。

5節最後を読むと、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と書かれています。これは、自分の力を信じたい者にとっては、絶望的なことばです。「神抜きでなんとかやりたい」と心のなかで思っている僕にとっては、もっとも聞きたくない言葉です。けれども(というより「だからこそ」なのでしょう)、イエスのこの言葉は人間の存在のあり方を変える希望の言葉となるのです。自分の力を越えたところにある、神によって可能となる自由な生き方へと「私」は呼び出されている。律法主義はそこでは問題にさえならない。

罪と不信とを嘆く「私」に、イエスが語りかける。お前の不信をなげくのをやめよ。思い悩むな。心を騒がせなくていい。なぜなら、わたしの言葉によって、あなたがたは既に清くなっているのだから(3節)。「これから清くなる」ではなく、既に清くなっているのだ。そしてお前は、いつか必ず実を結ぶ。豊かに、実を結ぶ。(基督教独立学園高等学校 教師)