証し

私もイエスさまを十字架につけている すずき りさ

【早天礼拝・奨励】

フィリピの信徒への手紙1章3〜11節

洗礼を受ける前の私には、自分なりの信仰のあり方に自信が持てないような気持ちがありました。普段から言葉が多いのに自分の内面は見つめきれず、何かを探したいけれど、その方法も探していました。「求道者」でありたい、歌を通してなら私も祈れるかもしれない、そして自分自身を縛らず神さまの前にほんとうの姿の私でいられるようになりたいと語るようになった時、「私はどのように生きていきたいか」ということを本気で考える一歩を踏み出しました。

洗礼を受けるに至った私は、神さまを信じ、自分も神さまを愛したいと願い、神さまに愛されているほかのひとたちを愛したいと願うようになりました。歌うことを通して祈る生き方をしたい、礼拝では自分が歌を捧げたいと強く願っていることも自覚しました。

しかし、これまで十分に向き合えていなかった、私の大きな課題の一つは、イエスさまの十字架と復活の意味です。自分のものになっていない感覚がありました。私たち人間はイエスさまを十字架にまでかけてしまうような存在だということが、まるで「聞いたことがあること」かのように頭の中にありましたが、自分もそのような人間であるという自覚、実感がありませんでした。「先生」のように感じるイエスさまから学び、イエスさまが愛したように私も愛したい、と思う一方で、十字架で殺され復活したイエスさまという存在を捉えられず、これからの信仰生活での課題だと感じていました。

それが今、イエスさまの十字架は以前よりもずっと私の近くにあり、私も十字架につけている一人なのだということを否定できなくなりました。これには、パレスチナのことを知るようになったことが大きく関係していると思います。

留学で出会ったパレスチナ出身の友人がいながら、私はパレスチナのことをよく知りませんでした。昨年十月以降、これまでの歴史と現在起きていることを少しずつ知るようになり、私も声を上げなければいけないと感じ、私は小さく個人として活動に参加するようになりました。パレスチナで起きている虐殺に私も繋がっていて、私も社会の中で加害者側だと知りました。社会の仕組みの中で生きていて、意図しなくても加害を支援・加速する力に無関係でいられないからです。自分ができることを探して少しずつ実行しようとしていくとき、これまで私が触れてきた他の社会問題とも繋がっていること、似たような活動や選択を知っていると思いました。

例えば、虐殺を行うイスラエル国を支援している身近な企業があり、私たちの身の回りで、虐殺を「とめられない、やめられない」この社会の構造に色々なものが繋がっていると気づきました。虐殺反対の意を示すためのボイコットを知りました。

確かに、「買い物は投票だ」と言うように、私たちの日常の選択は、近くの世界とも遠くの世界とも繋がっているのでした。私は大学時代、カカオやコーヒーの生産の背景に児童労働を含む人権侵害があると知り、チョコレートとコーヒーをボイコットしていた時期がありました。買わないだけでなく、誰かがくれようとしたものも「私は食べられない」と断っていました。自分の知識も足りず、上手な説明もできず、周りの人と分かり合えないと感じたこともあります。今は方針を変え、誰かが差し出してくれたものは断りませんが、買う場合にはフェアトレードのものを選ぼうと思っています。そのほかにも、環境への負荷を減らすため、化学繊維の服を洗濯する際にマイクロプラスチックが流出するのを防ぐ洗濯用ネット、植物素材のキッチンスポンジ、プラスチック容器を減らせる石けんや固形シャンプー、竹製歯ブラシなど、ここ数年で私がより良い選択を心がけてきたものがあります。

これらの買い物でできる行動は、「黙ってできること」かもしれません。自分のお金の使い道に自分が決定権を持つのなら、情報さえ得られれば、「買うこと」や「買わないこと」そのものはすぐにできそうです。

一方、署名活動やデモに参加することも含め、立場を表明することは、一つのハードルになりえます。私も、「パレスチナ、特にガザで行われている虐殺に反対します」と表明する、もしくはそう表明するのに等しい発信をすることに、最初は少し慎重でした。しかし、今起きていることを少しずつ理解しようと努めた結果、また「沈黙することは虐殺に加担することだ」という言葉を何度も耳にしたことも後押しとなって、私は虐殺反対の声を小さくあげるようになりました。オンライン署名は一番静かに参加できる活動かもしれませんが、誰かに「こういう署名があるので、よければ賛同してほしい」と言うとき、私の立場は明らかになります。紙媒体の署名を周りの人に呼びかけた時、思ったよりも多く賛同してくれる人がいて、少し安心しました。しかし、いくつ署名をしても、虐殺は止まらないことには絶望感を覚えます。

今までも、自分なりに「命を大切にする世界になるように」と思って、国際人権NGOのオンライン署名など、静かにやってきたことがありました。でも今回、三百日近くに渡り、毎日ではなくても情報を追い、できることは何かと考えて行動し、小さく可能なところで発信をする中で、私も立場を表明することができるようになってきたような気がします。

そして、その後押しとなった一つは、洗礼を受けることによって信仰の立場を明らかにしたという事実です。自分から「私はキリスト者です」とは畏れ多くて言えない気がしますが、キリスト者とならせてほしいと祈りたい私にとって、洗礼を受けることは神さまからの呼びかけに応答することを表明するものでした。誰かから「キリスト教ではこう考えるのが普通だから、それに基づいてこう行動するのが正しい」と言われて、それに従うような形で行動するのは、私の考える信仰に基づいた歩み方ではありません。聖書に書いてあることを、自分の都合のよいように解釈して行動の理由にするのは危険です。聖書を通して、神さまは私に何を伝えようとしているのだろうか、神さまからの愛を受け取ろうと思う私が、他者に対してどのような姿勢でいるのがよいのだろうか、と考えていたいです。

私はクエーカー(フレンド派)の大学に交換留学した際、クエーカーについて学び、学外での集会にも参加していました。アメリカのクエーカーの人々が奴隷制に反対したことなどを聞き、社会の中で声をあげ、行動する人たちのことを知って、信仰に基づいた生き方として、自分もそのようでありたいと思いました。

このような背景もあり、私はキリスト者として歩みたいからこそ、今私たちが止められずにいる虐殺に反対だと声をあげなければならないと思いました。2023年のクリスマスの頃に聞いたことが、私は忘れられません。それは、パレスチナで人々が虐殺され、瓦礫の下敷きにされているそこに、イエスさまがいたなら、イエスさまは瓦礫の下にいるのだという言葉です。イエスさまはこの世で小さくされた者として生まれた、とよく聞いてきました。苦しんでいる人たちに救いの手を差し伸べ、癒すイエスさまの姿は印象的ですが、宿屋に空きがなくて馬小屋で生まれ、社会的な地位が低いとされていた人たちに誕生を祝われたイエスさまは、世界中で行われる戦争、虐殺、占領、抑圧、差別の現場で、命の危険にさらされている側にいるのではないかと思います。そして、それらに私も「知らないうちに」加担してきたのだということが、今明らかにされています。知らせてこなかった人たちがいますが、私は知らなかったことを言い訳にしたくありません。

私が今起きている戦争、虐殺、占領、抑圧、差別に加担してきたのなら、そこにイエスさまがいるなら、私はイエスさまを十字架に今もかけています。ここまでひどい状況になるまで気づけないくらい、私は自分のことで精一杯であるだけでなく、この状況に直接影響を受けていないかのように過ごせてしまう「特権」の中にいるのだということを思い知ります。

また私は、これらのことを他の人に知らせなければならない立場にいると思います。自分が学生の頃、学校の学びや家族・親戚の話から、また教員としても戦争の歴史を学ぶ機会をもらってきました。私はたくさんの話を聴いてきて、するべきことがたくさんあると知っているはずです。これらの聴いた話を直接伝えることができたら幸いだし、それ以外にも、これらの話を本当に生かすためにできることを考えたいです。

パレスチナのことを知ったことで、これまで知っていたはずのこと、それでもきちんと向き合ってこなかったことを知られているように思います。昨年十月以降、パレスチナの西岸地区に住んでいる友人としばらく連絡が取れず、本気でおそろしくなり心配したことがありました。パレスチナ連帯を示している友人に、祈ってほしいと頼みました。あとで無事が確認でき、本当に安心しました。その時と同じ温度で常に何事にも向き合っていたら、自分の生活ができなくなりますが、その気持ちを忘れたくありません。

冒頭にお読みした聖書箇所の一部を、もう一度読みます。

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。

この祈りを、私の祈りにもしたいと願います。こう祈りながら、私には何ができるのかを考え、少しの勇気を持って、仲間とともにひとつずつ行動していきたいです。

(中高英語科教員、国際基督教大学教会員)