佐久学舎2020 応答2 井川結希

皆さま、お久しぶりです。皆さまはお変わりなくお過ごしでしょうか。

私は今、富山の実家にて家族と共に日々を過ごしております。私は通常でしたら、京都市立芸術大学に京都の下宿から通っているはずでした。しかし、新型コロナウイルスの話題が出始めてすぐの二月半ばに春休みに入り、富山の実家に帰省。その後、あれよあれよと感染が拡大して、前期の授業を富山からオンラインで受けることとなりました。私は高校時代から寮生活をしており、一年間の浪人生活も家を出て祖父の家で行っておりました。また、私が中学生のころは父が単身赴任。家族五人が揃って暮らすのは、実に6年ぶりのことです。新型コロナウイルスの流行がなければ、こうした時間は持てなかったと思うと少々不思議な心地がします。

今回は、佐久学舎にて皆さまにお会いできなかったこと、とても残念に思います。と、同時に、同じ日、同じ時に祈る仲間のいることのなんと心強いことでしょうか。一人部屋で祈るときも、同じく神様の方を仰ぎ見ながら祈る仲間がいると感じることで、私の小さな祈りに大きな力を与えられるような気がいたしました。そして、それによって私は改めて祈りの力について考えさせられました。

今、この新型コロナウイルスの流行や、災害、紛争、貧困の溢れる世界の中で、より多くの人々が祈っている時代なのではないでしょうか。より暮らしやすい、不安のない、幸せな世界を。それは、キリスト者はもちろんのこと、キリスト者ではない人々もそうだと思います。誰もが、平安に幸せの中で生きたいと願い祈っています。しかし、それとは裏腹に、より弱いものがより強いものに搾取され、混乱や暴力が広がっていっているように感じます。だからこそ、私はキリスト者の祈りは特別であり、大切なものだと思うのです。どんなに苦しいときでも、呪いではなく平安を祈れるということはとても幸せなことです。そして、隣人のために祈り、助け合い、愛し合おうという心を持ち続けられると言うのもまた、とても幸せなことです。苦しさはやがて、怒りや悲しみに変り、果てには暴力へと繋がっていきます。私には、今、混乱の中にある世界がどうしても仄暗い方向へ転がって行ってしまうのではないか、と思われてなりません。だからこそ、私は祈りの力を信じたいです。神の国の真の平安を祈るものが、また一人、また一人と強められて大きな力となっていくことを切に祈ります。自分が無力に思えるこの頃ですが、それでもなお神様が私を強めてくださることを信じ、今この時、与えられた交わりを大切にしていきたいです。

話は変わりますが、今年の夏は初めて富山鹿島町教会の教会学校キャンプに参加する事が出来ました。例年の夏は部活動などで忙しく、教会行事への参加が少なくなりがちでした。今年は新型コロナウイルスによって、教会学校キャンプの開催は取りやめになるかと思われました。しかし、例年泊まりがけで行うキャンプを日帰りで行うことで決行できました。私はスタッフとして、小学校低学年の子供達とともに聖書の学びの時間を持ちました。箇所は天地創造。全てを神様が創り、全てを神様が良しとされた。神様はこの人間を見て極めて良いとされたのです。その事が私の胸を打ちました。素直な子供達と共に学ぶと、自分も子供に戻ったかのように聖書の御言葉がすとんと胸に落ちました。全てをご存知なのは神様なのです。そして、私達の知っているような気になっている物事のなんと多い事でしょうか。私達は、自分が正しいと思い、諸悪の根源を突き止めようとし、相手を正そうとし、糾弾しようとします。しかし、世界は視点を変えるだけで全く違う見え方をするものに溢れています。私はこの前期、オンライン授業により今まで発言をほとんどしなかった学生が自分の意見をはっきりと言うのを聞きました。それまで私は、対面して会話したり体験したりすることが良いことだと考えてきました。そして、容姿やその他のコンプレックス、障がいによって、その場所に立つ事が苦痛であり、対面という形式自体に体験を制限される人がいるという可能性を重要視していませんでした。ですが、私の身の周りだけでも新型コロナウイルスによる生活の変化で生き生きとし始めた人を何人か知っています。今までは、彼らは苦痛を感じていても声を上げられなかったし、上げることすら考えたことがなかったかもしれません。今回の新型コロナによって、私の常識は砕かれました。そして、自分が無意識のうちに、常識の中で順列がついてしまうことを受け入れ、常識によって見えなくなっていた大切な物が沢山ある事を知りました。小さな事かもしれません。しかし、小さな事と大きな事は紙一重だと私は思います。自分が常識であると思っているうちは、その常識を疎外する問題は何でも小さく思えるものです。私達には、常に己を問い直すということが必要です。謙虚さや柔和さを見失ってはないか、敵を傷つけるために行動してはいないか、自分の中の常識や正義を振りかざし気付かぬところで誰かを傷つけてはいないか。悔い改める日々です。子供達と学ぶ時は、とても満ち足りた時でした。賛美の歌を歌い、神の国の栄光と平安が来ることを祈り、神様を愛し隣人を愛して生活する以上に喜ばしい事はありません。どうか、愛と平安が世界に満ちますように。それを、強く強く願う夏となりました。

最後に、また皆さまにお会いする時は、健康で、笑顔でお会いしたいと願ってます。主の平安と恵みがいつも皆さまのもとにあって、主が共に歩いて下さいますように。(京都市立芸術大学美術学部工芸学科2年・日本基督教団京都大宮教会出席)