東日本大震災と私〜西川 良三
2011年3月11日は、自分が青山学院高等部部長に就任して最初の卒業式を無事終えたその翌日であった。生徒は年間の授業をすべて終了していたが、当日クラブ活動等で三百数十人ほどの生徒が学校に来ていた。青山学院高等部は関東大震災の翌年に完成した80年以上経つ校舎を近年まで使用していたが、校舎を全面的に立て替えることになり、2010年春に新しい校舎が一部完成して使用を始めていた。その新しい校舎の窓枠が突然ガタガタ言いだしたので不思議に思ったが、その時は地面や建物の揺れは感じなかった。実はいた場所はトイレだったのだが、外に出るころになってやっと地震と気づき廊下で感じた揺れでこれまで経験したことのない激しいものだということがわかった。その時ふと妙に平安な気持ちになって、ああ、これで自分の命が終わるのかなと思ったことを思い出す。ところが、次の瞬間、教員の一人が、教員室のドアをバタンと開けて震災時の初期対応をしっかりやったことで我に返って、まず「生徒を守らなければいけないのだ」と最初に思わなかったことを恥じた。
教員も年度末の成績処理の業務等で多数出勤していた。全校放送で全生徒を校庭に避難させた。校舎の上の階に上ると、どこかで火災が発生したのか、煙が立ち上っていた。近隣、更には渋谷駅周辺から避難してくる人が相次ぎ、青山学院大学の記念館という大きな体育館に避難者を収容することになって、一部教員がそちらに誘導した。一方、生徒達は寒くなってきたこともあって、校舎の各教室にクラブ別、男女別に分かれて入ることになった。携帯電話はまったく通じなくなっていた。生徒が無事であるという連絡を各家庭に緊急メール配信で行い、更に、交通機関が完全にマヒしていて家に帰れる状況ではなかったので、生徒を校舎内に宿泊させることにしてその連絡もした。学校に来ていた教職員は皆、交代で夜通し当番に当たった。
翌朝、七時頃から私鉄が動き始め、保護者の許可を得られた場合帰宅させることとし、最後の生徒が帰宅のために学校を離れたのは午前十一時三十分頃であった。ニュースでは津波による大変な被害が東北地方を中心に起こっていることが伝えられていた。
3月19日が終業式であったが、余震が続く中、交通機関も不安定であり、来ることができる生徒だけ登校するようにと伝えたが、実際、かなりの生徒が出席した。そのような中で、生徒達が自分たちで被災地への募金を行ってくれて、なんと一日で75万円以上も集まり、感激したのを思い出す。
学校では春休みに予定していたクラブ活動等は一切中止にした。一方津波の被害を受けた地域の惨状がテレビ等を通じて伝えられ、我々も何とかできることをしなくては、と追い立てられる思いであった。
自分の所属する千葉県市原市にある京葉中部教会主任担任教師山本光一牧師は、かつて北海道奥尻島で津波による被災があった際に現地入りして長期に渡って支援活動をおこなった経験があった。そのため、被災地にまずなにが必要なのか(また何が必要でないか)心得ていた。教会の礼拝後、支援に関する打ち合わせが行われ、まず、ボンベのガスコンロ、その他被災地で緊急に必要と思われるもの等の寄付を教会員らに呼び掛けた。呼びかけは教会員のみならず、教会と関係のある地域の人たちにも及んだ。問題はそれをどう被災地に届けるかということであった。ガスコンロは、宅急便では送ることができなかった。車で新潟まで運んでそこから日本海側経由で貨車で東北まで送ろうという案が山本牧師よりいったん出され、自分が春休み中でもあるので、持っているミニバンを提供して運転していくことをかってでた。ところがその後、新潟に通じる関越自動車道路にかなり降雪があることがわかった。自分は雪道には慣れていなく不安なので、結局仙台の日本キリスト教団エマオ支援センターまで、直接届けようということになった。教会で物資を積み込み、山本牧師と共に三月二十六日朝に出発した。途中のサービスエリアで市川三本松教会の牧師先生と待ち合わせて、そちらの教会で集めて下さった物資を追加して、一路仙台を目指した。京葉道路から首都高速経由で東北道に入り、宇都宮まで進んだが、その先、一般車はまだ通行が許可されていなかった。そのため高速道路を降りて、国道四号線を北上した。道は途中かなり込み合っていて、なかなかスムーズに進めない状況であった。道路沿いのガソリンスタンドは、すべて閉鎖となっていて、帰りのガソリンが確保できるか不安な状況のまま進んだ。仙台に近づくにつれて壁や屋根などが崩れている家が目に入るようになってきた。「エマオ」に着いたのは夜かなり遅くなってからで、一二時間以上かかったと思う。日帰りを目論んでいたが到底無理で、支援センターにその夜は泊めていただいた。大変有難いことに、センターにはガソリンが備蓄してあって、その中から、市原まで帰ることのできる十分な量を分けていただくことができた。更に運よく、ちょうど翌日から東北自動車道が一般車に開放されることになり、帰りは行きの時と比べてはるかに短時間で無事市原に帰り着くことができた。
一方、青山学院としても支援の取り組みを開始しつつあった。その春卒業式を終えたばかりの青山学院高等部生徒の一人が学校の同窓会の事務局を訪ね、何か同窓会として被災地支援ができないかと呼びかけたそうである。その結果、津波の被災地でボランティアが活動するのに大変役立つということで、自転車の寄付を募ることになった。呼びかけに応じて、渋谷のキャンパスに同窓生、教職員らからたくさん自転車が集まった。三月三十日にそれを同窓生で運送業を営んでおられる方がトラック二台を提供して積み込み、同窓生三名と四月一日付で高等部に宗教主任として就任されることになっていた相良昌彦牧師(やはり同窓生でもあり、またかつて八戸教会で牧会をされていた)が夜通し東北道を走って岩手県の宮古教会まで届けた。
5月になって、青山学院の大学、短大及び高等部の宗教主任、高等部の共生委員会という、その後被災地支援の取り組みを行うことになる組織の長の教員一名、そして私で宮古、釜石、大船渡の視察を行い、これから青山学院としてできることはないかを探った。起点としたのは内陸の岩手県花巻で、花巻に泊まりながら、花巻教会の牧師先生の車をお借りして、教会を中心に訪ねた。教会の牧師や教会を起点として支援活動を行っていたYMCA、あるいはチャイルドファンドジャパンの方々から現状のお話し等を聞き、そしてまだ津波の傷跡が残る沿岸部を見て廻った。宮古の鍬ケ崎では、まだ大きな船が陸地に乗り上げて残されている状況であった。また大船渡に来ると、それまで存在した駅が津波で跡形もなくなり、まがった鉄の駅の表示が横たわっているのを見て声を失った。そのような光景を目にする一方で、岩手県に初めて来て、海岸の際まで伸びる、緑豊かな懐の深い山の景色に大変印象付けられ、今まで自分が全く知らなかった日本の地域との出会いを経験したと思った。
視察を終え、青山学院高等部は相良宗教主任の提案で、学校間交流という形で被災地と関わったらどうかということになった。たまたま京葉中部教会の会員で岩手県立宮古高校出身の方がいて、その方のアドバイスで直接宮古高校の校長に手紙を書いて交流を申し出た。最初は先方も少々ためらっていたが、宮古高校の生徒会担当の先生の提案で、青山学院高等部の文化祭に生徒会の生徒を招待してもらえれば励みになるという申し出があった。この先生のお母さんは宮古教会の会員で、更にあとで分かったことだが、そのご主人は昭和三陸津波で孤児となられた方であった。青山学院高等部同窓会が、被災地支援にあたって学校の行う活動に協力する姿勢を表明されていたため、宮古高校の生徒の交通費と宿泊及び滞在にかかる費用の寄付をお願いし、快く承諾してくれた。
2011年の9月に青山学院高等部文化祭に岩手県立宮古高校の生徒会生徒らが生徒会担当の先生の引率のもとに来校し、青山学院の生徒と交流の時を持った。更にこの時は宮古の生徒を生徒のボランティアが浅草などの都内の名所に案内した。以来、文化祭時の宮古の生徒の訪問が継続している。その後数年間は同窓会の寄付、さらに後援会(PTAに相当)の寄付をいただいて、宮古生徒の本校訪問を実現してきた。加えて、2年目以降は被災地との交流を学校の教育活動の一環として位置づけし、予算化をおこなって、こちらから生徒と教員が宮古を毎年訪問することし、青山学院高等部「共生委員会」がその企画、実施に当たるようになった。結果、高等部生徒は二〇一二年夏、ラグビー部が、その翌年は野球部が宮古に行き、宮古高校の生徒と交流試合を行い、そして被災地の見学を行った。
2013年に宮古高校の野球部との交流を行う際、学校の生徒会長、副会長らが同じ時期に訪問して生徒会同士の交流を行いたいということになり、野球部の訪問に先立って、夜行バスで私と共生員会の教員とで生徒五名を宮古まで引率した。生徒会同士交流を行い、宮古高校の生徒会執行部と話し合いを持ち、生活協同組合の店舗で、仮設住宅に住む人たちのために行っているアワビのストラップづくりを一緒にやろうということになった。それを行って行く中で、これまで出来たものも含めて、製品を両校の文化祭で売ろうということになり、実施した。本校の文化祭は一般公開を行っていて、表参道という便利な場所にあることもあって、多数の入場者に恵まれている。そのため、ストラップはまたたくまに売れて収益を被災地支援の寄付とすることができた。
2014年度においては、青山学院創立140周年の事業の一環として、被災地、特に宮古市のために青山学院全体として合同の企画が実施された。この時も高等部は加えて宮古高校に赴いて先方の生徒会執行部との交流を実施した。話し合いを行った結果、青山学院高等部と宮古高校の校章及び両校の文化祭のテーマを記した缶バッジを共同でデザインして造ろうということになった。そしてそれを、それぞれの文化祭で販売して売上金を被災地支援のため寄付しようということになり、実施した。
続く2015年度は、宮古高校との交流が先方の都合で実施できず、代わりに初めて宮古市田老地区にある宮古北高校との交流となった。この高校は大変小規模の学校で、海岸から少し山の中に入ったところにあり、津波の被害を免れたとのことである。夏に生徒会執行部生徒ら九名が私を含めて3名の教員の引率のもと、訪問して共同の缶バッジ作成を行ったが、更に両校の生徒がグループになって「津波てんでんこ」について考え、話し合い、それを発表してまとめる機会をもった。秋に宮古北高校の生徒らを青山学院高等部の文化祭に迎えた際は、缶バッジに加えて、地元の田老漁協のわかめの販売を高等部文化祭で行い、多額の収益を上げて寄付ができた。
青山学院高等部に通う生徒達は普段大変経済的にも恵まれた生活を送る生徒が多い。学校生活の中でも、大学の内部進学制度があるおかげで、この世の「弱肉強食」の世界から守られて、大変素直に育っている生徒が大半である。そのような生徒にとって、大地震の経験、そして映像を通して伝えられる津波の被害の悲惨さは、柔らかい心にえぐるような「爪痕」を残したであろう。キリスト教学校として、祈りつつもこの時こそ体を張って何かを生徒と共に「行わなくては」と考えた。しかし、現地で聞いたことは、ボランティアが「津波のように」押し寄せ、その対応で受け入れる側が精神的にかえって参ってしまう事実があるということであった。こちらが「何かをしてあげる」というのではなく、現地に足を運び、現地の良さを知り、「交流をする」という相互の関係づくりによって、被災地の側もこちらの側もつながる「喜び」を共有できるのではないかと感じている。実際、宮古との交流を通して、生徒達の中に成長が見られる。宮古では、地域を活性化しようと取り組む高校生のボランティアグループが立ち上がり、その中心を担っているのは宮古高校の生徒である。また、宮古に行った、青山学院高等部を卒業して青山学院大学に進学した生徒らが中心となり、大学で「FOR会」というグループを立ち上げ、被災地支援等の活動に今も取り組んでいる。彼らはさらに高等部に来て、後輩らに自分たちの取り組みについて「サービスラーニング」という観点からの意義を説明している。
今年、あの3月11日から5年目を迎える日に、このFOR会の卒業生らが中心となって、青山学院高等部のPS講堂を会場として、歌手の五木ひろしさんを招いて宮古支援チャリティーコンサートを実施した。その際、コンサートの前に、宮古のボランティアグループで活動している宮古高校の生徒三名にはるばる来てもらい、彼らの活動について報告してもらった。この時、このボランティアグループを立ち上げた宮古の生徒が、自分がそのようなことを率先して行ったきっかけを語ってくれた。一つには、自分の学校の生徒が「宮古嫌い」と言っていたことを耳にしたことであったそうである。自分は宮古が好きで、自分たちで地元を何とかしなければと強く思ったからだということであった。もう一つは、前年度の青山学院高等部生徒たちとの出会いとのことだった。本校の生徒会生徒らがはるばる宮古に来て、被災地支援のイベントに取り組む姿を見て、高校生でもこんなにできるのだと刺激を受け、自分たちもできるのだと励まされたからだということであった。
キリスト教学校として「傷ついた人の傍らにたつ」という取り組みを、今後も、相手の立場を考えつつ行うことを継続していければ、将来のこの社会を担う若者が更に育っていくのだということを確信している。
(青山学院高等部部長)