私の歩み―六つの選択と変曲点 堀内泰輔

共助会と出会って早10年、一昨年12月の久我山教会で入会を認められ、一年半を過ぎました。昨年3月に、45年間の長きに渡った母校での教員生活が終わり、ようやく自分と向き合う時間が得られるようになり省みたところ、6つの変曲点があったようです。時系列に振り返ってみたいと思います。

(1)学校の選択=マイナーな高専へ

私は昭和29年1月、長野県須坂市に生を受けました。家業は専業農家で、リンゴ約300本と稲作という大農家でした。しかし、実際には「生きていければ十分」というスタンスで、農業経営という考えが皆無で、草取りだけが褒められる、という有様でした。他人の手を借りない主義で、私も学校から帰ると弟の世話と炊事、休日は一日中畑の手伝いの日々です。特に消毒作業が大変で、手袋やマスクもしないで、危険な農薬散布する手伝いをさせられました。このように、向上心も危機管理意識もない親のやり方だったため、絶対に百姓は継がない、という意識が小学生のときに芽生えていました。私が初めて聖書に出会ったのは、小学校高学年の頃、図書館から借りた『聖書物語』でした。ところが、祖父から、「何だ、そんなもの読んでいやがって。家は仏教なんだぞ!」と、ものすごい剣幕で叱られたのを思い出します。小学校の算数は苦手でしたが、中学校時代には担任に恵まれて、担当科目の数学が好きになりました。運動神経が鈍くスポーツは水泳とスキー以外は大の苦手で、鉄棒、マット、跳び箱、球技……すべて悪夢の思い出です。

さて、高校進学となるわけですが、当時流行した、アマチュア無線やラジオ製作(真空管)に興味があったので、将来は電気系のエンジニアになりたいと思っておりました。担任から「それなら、高専を受けてみないか。」というアドバイスがあり、国立なので授業料も安い、大学進学も必要ない、という親の意向もあり、電気科を受験しました。しかし、競争率は約4倍。合格発表日に自分の名前がないのにしょんぼりして帰宅したら、知り合いから「機械科に名前があったよ。」との電話。どうやら、第二志望に受かったようです。さて、高専に入学したときに最初の「新約聖書」との出会いがありました。ギデオンという団体から和英対照のそれを学校で受領し、最初のページから読み始めてすぐに挫折しました。永遠に続く系図。これを覚えないと理解できない、と思い込んだようで最初の聖書とは別れを告げました。

さて、私のコンピュータとの出会いは4年生の時でした。但し、実物は大会社か都会の国立大学にしかない時代です。数学の時間に「Fortran」というプログラミング言語を習ったのですが、チンプンカンプンで、高専時代に唯一の赤点を取った苦い思い出があります。今なら、パソコンでもスマホでさえもプログラミングの勉強ができますが、コンピュータがなくてそれを行うのは至難の業です。そんなわけで、「僕はコンピュータとは無縁の仕事に就くだろうな。」と思いましたが、その翌年にその予想は見事に崩れました。5年生の卒業研究では、コンピュータがないと研究できないという研究室を偶然にも選択してしまったのです。前述のように、当時は高専にも近くの信州大学にもコンピュータはありません。一番近いのは東京大学です。まさか、頻繁に上京するわけにもいかず、パンチカードを郵送する形で、私の人生初のプログラミングが始まりました。東大では、それを処理してその結果であるラインプリンタ用紙を郵送してくれます。つまり、結果がわかるまでに一週間もかかるのです。 さて、最初に送られてきた用紙には、見事に計算結果のグラフが描かれていました。ところが、次回はなんと小包で返ってきました。100ページ近くのエラーリストが入っているではありませんか。やはり、プログラミングはそう簡単なものではありません。

(2)職業の選択=コンピュータ+教師

いよいよ、自分の職業を決める、人生の2番目の変曲点に差し掛かります。プログラミングの魅力に取りつかれ、このままでは機械の業界に就職することになってしまう、情報産業へ進むにはどうすれば良いのか。編入するにも情報系の学部が少なく、最終的に富士通が経営する東京蒲田の専門学校を選択しました。最初の一年は、昼間のコースで3つの言語をみっちり学習しました。そのまま就職も可能でしたが、引き続き夜間の半年コース(研究課程)に入りました。担任の薦めもあり、それまでいた昼間のコースで助手のアルバイトをすることにしました。これが、教職というその後の職業を決める起点となりました。6カ月が過ぎて、いよいよ就職となりますが、ある日、高専時代の担任から電話がかかって来ました。母校にコンピュータが入ったけど教える人員がいなくて困っている、とのこと、「二つ返事」で母校に戻ることを決めました。就活を一切しないで、瞬間的に将来への道が定まったのです。1975(昭和50)年10月、母校に戻り、その後の長い長い45年に渡る教員生活が始まりました。その頃のコンピュータ業界では、マイコンという小さな、かつ個人でも所有できるコンピュータが登場します。それまでは、一台数千万円もするものでしたから、高専時代に、自分専用のコンピュータなんて自分の生きているうちは無理だろう、と思っていたのが、僅か数年で実現できるとは。もちろん、国産のマイコンはなく、アメリカから輸入しました。それまでは、計算を目的にコンピュータが使われていましたが、マイコンならどんな目的にでも使えます。当時の私の趣味は楽器演奏でした。幼少時にはハーモニカ、中学校では当時流行していたフォークソングやグループサウンズの曲を独学のギターでつま弾いていました。高専時代は吹奏楽部でクラリネットを5年間吹きました。東京では、アパートで大きな音を出すわけにも行かず、近くの多摩川の土手でリコーダーを吹いていたのを思い出します。

このように、鍵盤楽器にはまったく縁がなかったため、コンピュータと電子楽器を繋いで演奏させることが東京での夢でした。うまい具合に、シンセサイザーという電子楽器が国産でも入手できるようになり、40万円出して購入しました。当時、いわゆる自動演奏をしていた人は世界でもそんなにはおらず、日本で唯一の大学教授の雑誌記事を元に、両者を繋ぐ装置とプログラムを独自に開発しました。この記事を、日本で初めて発刊されたマイコン雑誌『Iア イオー╱O』(1976年10月)で発表したところ、NHK教育テレビから出演のオファーが来ました。かまやつひろし(スパイダースのメンバー)が司会をする番組で、私の作成した彼らの日本レコード大賞受賞曲「夕日が泣いている」の伴奏に合わせて彼が歌う、というものでした。私の初のTV出演で、良き思い出です。数年してパソコンの登場となります。これもアメリカでの話で国産はまだありません。幸運にも、国の日本青年海外派遣の長野県代表に合格して、北米に約20日間滞在できることになりました。各地の領事館などの表敬訪問の最後がロスアンゼルスでしたので、PET2001 というパソコンをシリコンバレーの店に足を延ばして購入予約をしたのが思い出されます。その後、インターネットが登場して、私の専門である情報処理教育がますます重要なものとなり、いろいろなプログラミング言語教育を行いました。特に、タッチタイプ教育にはこだわりました。その昔、中学入学のときの親からのプレゼントが、英文タイプライターでした。これを使ってアメリカの女の子と文通を何回かしたのが懐かしいです。そんなこともあり、キーボードを見ないでプログラムが打鍵できることが、プログラミング習得の近道と信じて、いくつかのトレーニング用プログラムを開発し、学生を使って実験をしていきました。コンピュータはますます小さくなり、『IoT』(Internet of Things)の時代になったのが約10年前です。学生にも必須と考え、イタリアやイギリスの組み込み用マイコンを輸入して全国高専に先駆けてその教育を行いました。その頃、これを使うと3Dプリンタが自作できることを知り、部品をネットでかき集めて製作を行いました。もう一つの応用はレーザカッターです。私の最大の趣味はジグソーパズルでして、過去に最大一万ピースで遊んだ記憶があります。レーザカッターはプログラム次第で、紙や木材上でどんな形でも切断できます。当時世界で売られていた最大のピース数は約三万でした。

これを上回る数のパズルを自作して、文化祭のクラス企画に出そうという担任をしていたクラスのルーム長の熱意もあり、数か月かけてプログラミングとカット作業を行って、ホームルーム内で完成を見ました。ただ、その大きさたるや、縦2m、横4mという代物で、廊下に展示するまでには大変な苦労でした。

(3)妻の選択=国際結婚

さて、3番目の変曲点は何といっても結婚でしょう。国立高専には内地留学という制度があり、希望して認められれば約一年間、自分の好きな大学などで研究ができます。私の場合、29歳でそれに恵まれました。行先は、東京大学の石田晴久研究室でした。先生はコンピュータの世界では超有名人で、アメリカから、Basic 言語、C言語、インターネット技術を日本に導入した方で、NHK教育テレビに出演できたのも先生のお陰だったのです。5月初旬に、台湾から研究生が入ってきました。「堀内君、Basic を教えてやってくれないか。」との依頼で、私の研究室は二人住まいとなりました。その彼女が後の妻、というわけです。二人の気が合いすぎて(?)翌年3月には挙式を行いました。彼女は、日本での大学院時代に東京で洗礼を受けていたこともあり、自然と日曜日には教会に同行することも多くなりました。その時、そこで歌われる讃美歌に高い感動を覚えました。前述のように、私は器楽が得意でしたが、歌の方は全くダメでしたが教会でなら歌える、という自信を持つようになりました。

(4)人生行路の選択=親との訣別

4月から、長野での二人の生活が始まりました。その後、長男、長女と二人の子宝に恵まれ、仕事の方も順調な毎日でした。しかし、親との関係は、国際結婚ということもあり妻は両親から冷たく扱われることの連続でした。私は長男ですので、将来的に相続する必要があります。広大なリンゴ畑は、親の老齢化もあり、規模が小さくなり空き地が目立つようになっていました。問題は相続税です。当時の試算で何と4億以上、到底相続できる額ではありません。そこで、空き地の一部を造成して売り出すことにしたのです。ただ、父は不動産業者が嫌いな性格なようで、結果的に妻が会社を設立して販売するスタイルを採ることにしました。計画の翌年には造成を終え、場所にも恵まれたこともあり、12区画の物件のほとんどが、一年程度で売却できました。父との最初の約束では、収益は長女の学費(歯学部)に充てることになっていましたが、途中からそれに文句をつけるようになり、挙句の果ては、父からの借金である造成費用が当初の約束通りにいっていないことに腹を立てて、父親と私の弟がグルになって、妻の会社を訴えることにまで発展しました。親から訴えられる、という信じられない事態に対し、この時点で親との訣別を決心しました。人生最大の変曲点でした。

(5)宗教の選択=教会と共助会

長野に戻ってからは、妻は特に教会に誘うことはありませんでしたが、15年前ごろ、讃美歌をまた歌いたくなったこともあり、今度は私の方から誘いました。その結果、二年ほど通った後、洗礼を受けるという大きな変曲点に達したのでした。教会に行くようになってから、教会で聖書を読むときに感心したことがあります。それは、万国共通の章番号と節番号が付けられている点です。これは今日のデータベースやキーワード検索など、コンピュータでおなじみの機能の原型であるからです。そこで、ICT(情報通信技術)と聖書の関連についてインターネットを検索してみたのですが、欧米では早くから聖書がテキスト化されていて、インターネットから無料でダウンロードできたり、聖書中の語句を聖書全体から検索できる無料サービスがたくさんあることを知り、聖書とICTとの相性の良さを実感しました。そこで、大学院時代(通信教育)の研究テーマだった「言語コーパス」を聖書に適用してみることを思い立ちました。コーパスというのは、デジタル化された文書を多数集めたものです。どこかに日本語の聖書コーパスはないものか探したのですが、日本語の聖書は著作権の関係で、聖書の検索はできるものの単一の書物内の検索に留まり、聖書全体の検索は認めていません。しかし、某キリスト教系大学が日本語聖書のテキストが自由に検索できるサイトを運営しているのを発見しました。著作権の関係で一回に10テキストしか結果が表示されないのですが、これを繰り返して行うプログラムを作成して実行してみたところ、数分で旧約・新約全体をダウンロードできてしまいました。データさえあれば、もうこちらのものです。プログラムを駆使して、各単語の頻度、固有名詞の抽出などをして、聖書を深く読んだようなつもりになっておりました。

さて、いよいよ共助会との出会いです。2011(平成23)年の夏、湯河原で行われた夏期信仰修養会に、妻の東京での友人の紹介で出席する機会を得ました。「何と格調高い団体の集会だろう」というのが当時の感想です。初対面の石川さんや飯島さんに私の仕事についてお話しましたら、「共助会の『九十年誌、資料編』の刊行を予定してるのですが、すべての記事をまとめた資料を作成しようと思います。しかし、やり方がわからず適任者もいなくて困っています」とのこと。私の就職のとき以来の、「二つ返事」で、そのプロジェクトに同意したのです。前述のように、私は聖書のような大規模なテキストを瞬時に解析することに人並み以上の興味を持っています。90年間の月刊誌のボリュームたるや容易に想像できました。これをやらない手はない。その後、佐久学舎での数年のやり取りを経て、2015(平成27)年にようやく資料編の原稿が完成し、発刊となりました。その翌年、今度は、全文をコンピュータで読めるようにできないか、という相談を飯島さんから受けました。これぞ大規模テキストの最たるものです。3回目の「二つ返事」となったのは言うまでもありません。このプロジェクトは2019(令和元年)に完成の運びとなり、12月の久我山教会でのクリスマス礼拝にて発表の機会を設けていただきました。特に、戦前版のテキスト化には苦労しましたが、良き思い出です。さらに特筆すべきは、このクリスマス礼拝において、私の入会が認められたことです。長年の夢が叶った瞬間でした。

(6)第二の人生の選択=ブドウ栽培

さて、11年ほど前から、第二の人生を考えるようになりました。これだけ長くコンピュータ教育をやってきたのだから、老後は全く異なる活動をしたい、というのが原点でした。妻は、長野に来るまで、土に触ったことがない都会っ子でした。しかし、自宅を25年ほど前に新築した時に、庭をイングリッシュガーデンのようにしたい、という願望から庭中に西洋バラを植えたのです。その後、野菜も作ってみたい、とのことから、近所の家庭菜園を借りるようになります。ある日、妻は「シャインマスカット」という、聞いたことのない高価なブドウを買ってきました。一粒食べた瞬間に6つ目の変曲点が到来しました。その美味しさ、上品さ、何ともいえない感動でした。「これが自分で作れたらすごいな」という夢の始まりでした。それには、まず農地が必要です。親と訣別していなかったら簡単に広い農地が使えたのですから、皮肉なものです。そこで立ちはだかった関門は、普通の人は農地を購入できない、という現実でした。数年の農業経験が必要だったのです。仕方なく広めの農地を借りて、いろいろな作物を栽培し始めました。約4年後には、いよいよブドウの苗も購入して、ブドウ棚もすべて自作しました。その成果が7年前に認められて、今度は農地購入の段階に進みました。運よく、JAの紹介で約1000坪の農地が安価で購入できました。ブドウには最適な環境で自宅からも近くにあります。神様は本当に我々を見ていて下さいます。一昨年からはようやく販売ができるようになり、昨年は口コミであっという間に現地にて売り切れる事態となりました。今は、今年度の収穫を目指し、インターネット販売や直売所の計画を立てています。「長野フルーツファーム」で検索すれば、すべての情報がわかるよう準備中ですので、夏以降はぜひご利用下さい。インターネット上と現地とでお待ちしております。

おわりに

他人よりは平凡な人生を送ってきた、と思っていましたが、こうして振り返ってみると、結構他人にはありそうもない経験をしてきたようです。これも神様の仕業と捉え、第二の人生を見守られながら有意義に過ごしたい次第です。最近は、教会での讃歌に飽き足らずに、3つの合唱団(混声合唱、男性合唱、3人のバンドのボーカル)での活動を行っています。ただ、コロナのために発表の機会が全くなくて、Youtube でのデビューを計画しています。こちらは、「チーム風」で検索をお願いします。昨年(2020年)の年末年始は、コロナの影響で子供たちの帰省もなく、二人+愛犬だけのお正月となりました。年末のある日、妻が嫌いなはずのサスペンスドラマを視聴していました(AmazonPrime にて)。「とても面白くて勉強にもなるよ。」というので、一緒に見たら確かに素晴らしいドラマでした。これは、イギリスのBBCで制作され今年が6年目となる、「Father Brown(邦題:ブラウン神父)」です。世界三大探偵のブラウン神父が大活躍する推理物ですが、毎回、神父は殺人者などの告解を受け、非常にためになる聖句を毎回披露します。これまでに50分のドラマが90本公開されていますが、そのすべてを1週間ほどで見てしまいました。

最後までお付き合いいただき感謝です。『共助』との時間が多く持てる年齢となりました。今後ともよろしくお願いいたします。

(国立長野高等専門学校 名誉教授 日本基督教会 長野本郷教会員)