私の証し(誌友)関根美鈴

20代の時、1年間のアメリカ滞在を契機に、私の聖書への関心が与えられました。当時は歯科衛生士としても自分の目標であった口腔衛生や予防歯科を日本の歯科診療で実現させたいと思っていたのです。滞在先のウィスコンシン州のマディソンで、やがて聖研の家庭集会に誘われ出席するようになりました。これも英語の勉強のつもりぐらいでした。けれど、心に残る聖句に触れながら、いつしか私にとって聖書が貴重な参考書のような存在になりました。苦手な患者さんにこそ、誠意を尽くして愛すること。どんなに正しいアドバイスにも語るに時、黙するに時があること。折りにかなって語る言葉を認識すること。詳細な指示ひとつにも心を和ませる柔らかい口調が必要なこと。聖書からの学びは、やがて生きた力となって私に訓練を与え、また、大きな心の支えになり仕事への自信につながりました。

帰国後は結婚をし、夫の歯科医院で予防歯科を実現させながら、娘3人にも恵まれました。そして子供たちの小学校入学時になり、キリスト教の小学校へと考えるようになりました。ですが、当時の私にはカトリックもプロテスタントも明瞭な認識はありませんでした。思い余って三浦綾子さんへ心の内を正直に、お便りを出したのです。すると投函してから4日目にお返事が届きました。三浦綾子さんは、以前の婚約者、前川正さんを通して日本キリスト教団に入られたことを再認識させてくださいました。それから調べてゆくと北区駒込にある聖学院小学校へ行き着いたのです。幸いにも合格したので、入学を前に、電車の通学時間を把握しようと、ある朝出かけてみました。閉じられた校門の前で佇んでいると笑顔の素敵な女性が、優しく招き入れてくださいました。その方こそ、後に共助の箱根の修養会で再会した角田芳子先生だったのです。

聖学院小学校には、父母会の聖研が月に一度あり、当時は聖学院中高の林田秀彦校長先生がお立ちくださいました。その中で忘れられないメッセージがあります。あの頃も子供たちに関する事件が多く新聞紙面に載り、それも一見平和な何処にでも見られる普通の家庭からの思いもかけない信じられないようなニュースがあり、小学生の親としては本当に不安な時でもありました。けれど、林田先生は心強く示唆してくださいました。

「皆さん、対面式の仲良しごっこだけしていてはダメですよ。ご夫妻も、親子も、顔は見ずとも横並びに、高みの同じ価値観を見上げて歩んでください。そして日々のその歩みの積み重ねで家庭を築いていってください」。

子育てに対話が一番と思っていた私に、初めて祈りの尊さを教えてくださった時のように思います。

それから、もうひとつ、忘れられないことがあります。ある年の夏休みを利用して先生方の研修旅行があり、その学習報告での出来事です。先生方のお話を聞きながら、ここまで児童たちのことを思っての旅行内容に頭の下がる思いでした。やがて、最後に一番若い女性教師が立たれました。他の先生方と同様に喜びと感謝で語る先生のお心を知らされながら、私はいつしか泣いていました。40代に入っていた私は、それまでの自分の人生を振り返りながら、私の20代は一体何をして生きていたのだろう。先生方は、仕事も学びも信仰の裏打ちがあるのに、私は一体何を支えにしていたのだろう。私のような何の価値観も無い親が何をどうして子育てをすればよいのだろうか? その日、帰宅途中の駒込駅の公衆電話から、子どもたちが教会学校に通っていたところの牧師先生に、受洗の決意を伝えたのでした。

やがて、その後、私は50代後半にC型肝炎の治療を受けることになりました。この治療に使われるインターフェロンは当時、三大悪薬と言われるほどの副作用の強い薬で、私はすっかり怖気づいてしまいました。そんな私に、父母会時代から親しくしていたSさんに聖路加病院への転院を強く勧められました。この女性は若い頃から体が弱く、会話の声も息でするような人ではありました。しかし、その時だけは、はっきりした口調で、「関根さん、貴方、聖路加に行きなさい!!」とほぼ命令口調で言われたのが、今でも鮮明に耳に残っています。私の闘病中は、Sさん自身は一日23時間の酸素吸入の身でありながら、ボンベキャリアーを引いてお見舞いに来てくれました。食事の摂れない私を、お寿司屋さんのランチに連れ出してくれたこともありました。そして、そのSさんに、私の受洗決意前、「関根さんにキリスト教の裏打ちがついたら鬼に金棒!!」と楽しそうに、嬉しそうに言われたことも忘れられません。そのSさんの告別式で、友人代表として、彼女の遺影に向かって「その通りになりました」と報告したことも、感謝な思い出です。治療結果は、医師たちも驚くほどの順調な完治になりました。

聖路加病院内には、日野原ギャラリーがあり、時々寄っていたのですが、何と後日、自分の個展をここでするとは思いもかけませんでした。色鉛筆画の草花のスケッチに好きな聖句を入れたものですが、10年間、毎年させていただき、その間に、これも思いもしなかった画集まで出版してくださいました。

私は、1945年、9月6日に中国の北京で生まれました。今、こうして、ゆったりと自分のクリスチャンとしての起点を思い返しています。大地で生まれたあの時から守られ、愛され、導かれてきたことが見えるように思われます。感謝。

(歯科衛生士・ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会)