表紙絵に添えて「葡萄園と農夫」和田健彦

マタイによる福音書 第20章1-16節

気象予報に、朝鮮半島や中国大陸の地図が映しだされると、雲の動きなどを見ながら、妻子とともに蒙古伝道に献身し、殉教された沢崎堅造と『熱河宣教の記録』などにある妻、良子姉の手記の貴重さを覚える。そしてこの伝道で、二人の愛児を天に送っているその消息を思いながら、信仰、伝道について考えさせられている。

1945年5月、私の父は中国伝道を志し、母と私(4歳)を伴って神戸港を発ち、福井二郎牧師のいる赤峰の教会に着く。しかし7月25日には応召となり、母と私は教会に留まっていた。状況が切迫する中、蒙古伝道に献身していた沢崎堅造の妻良子姉は身重でもあったが、不運にも夫と離れ離れとなり、望君(10歳)を連れて、同じ北白川教会員で共助会員でもある、母と私のいる赤峰の教会に苦労してたどり着かれた。

8月9日、ソ連軍の満州侵攻という情報のため、私たちは8月12日朝、赤峰の教会を発ち、沢山の日本人婦女子を載せた避難の最終列車(無蓋車)に、行く先も知らずに乗り、8月14日夜、国境を越え、翌日、北朝鮮の亀ク 城ソンに逃れた。多くの日本人婦女子は、いくつもの班に分けられ、避難所生活が始まる中、二日後の8月17日に、沢崎香ちゃんが生まれ、翌年の夏、ここを脱出するまで、困難な生活を共にした。薄暗く蒸し暑い避難所で、良子姉と母が、かわるがわる香ちゃんを抱いてあやしている姿や、高粱のおかゆ、トウモロコシを煮て花のように割れたご飯を覚えている。

手記によると秋ごろから、この地方の風土病といわれる血便を伴うはしかで多くの子供が亡くなり、私もやせ細り死にそうになった。二人の母は、体調や、前途への不安を抱えながらも、やせ細っていく香ちゃんの世話を懸命にしながら、時々見せる笑顔や可愛らしさに、力を与えられていたことを想像する。

8月10日、ソ連軍が日本人を本国に帰さないことが分かってきたので、私達は亀城にいられなくなり、命がけの脱出を決意した。香さんを背負い、野宿をしながら、30里(120㎞)を歩いて38度線を越え、17日に南朝鮮にある米軍のキャンプに収容された。そこからは汽車(有蓋車)で釜山を経、アメリカの貨物船で博多に向かうが、博多湾で停泊中に香ちゃんは父を知らずに亡くなった。

私自身が、人に問われて説明に窮していたイエスの譬え話に(マタイ20・1―16)、葡萄園の主人が、夕刻雇った者に、朝から長時間働いた者と同賃金を払ったという葡萄園の話を思い浮かべる。信仰をもって沢崎堅造の蒙古伝道への献身を思う時、この伝道の最後に登場し、避難所で二人の母親に元気を与え1歳1か月の短い生涯だった香ちゃんの存在と、生きて引き揚げ後に書くことができた妻良子姉による手記は、神様のご計画の中に用意されていたことのように思う。(日本基督教団 鶴川北教会員)