神さまの導きの中を歩む 大島長子

私が教会へ毎週通うようになって50年になります。母方の祖父母や親戚にクリスチャンが多くいましたので、母はその時は、まだ洗礼は受けていませんでしたが、私を新潟市の東中通教会の特別伝道集会やクリスマスのキャンドルサービスに小学校の高学年位から連れていってくれました。中学入学記念には、祖父母から革の聖書と讃美歌をもらい嬉しかったです。大学は信州大学に行きたかったのですが、新潟大学に合格し、自宅から通えるというので新潟大学教育学部音楽科で学びました。木曽奈良井の明治生まれの祖父、鈴木迪てきぞう三が長野師範で学びましたので、私も信州大学で学びたかったのですが、後に私の長男と次男が信州大学教育学部で学びましたので、それは感謝なことでした。

大学生になり、教会は東中通教会に通い始めました。聖歌隊の指導をしておられた澤田京子先生は教育学部の小学科課程の人に声楽を教えに来てくださっていました。私は中学課程でしたので直接は教えていただきませんでしたが、教会の聖歌隊で歌い方の指導や信仰のあり方など教えていただきました。ヴァイオリンの鈴木和子先生も大学に教えにきてくださっていて、自宅にも習いに行っていましたが、東中通教会にみえていました。

20歳になった最初の日曜日が9月15日の敬老の日でその日に大宮 溥牧師から洗礼を受けました。その時教会は会堂建築中で、すぐ近くのキリスト教主義幼稚園である二葉幼稚園で礼拝を守っていました.幼稚園児用の小さな椅子に多くの教会員がぎゅうぎゅうに座っての礼拝でした。

洗礼式に木曽から出て来た私の祖父を見て、「鈴木節三さんかと思った」と室崎陽子先生が言われました。鈴木節三は祖父の末弟で、共助会員でしたので室崎先生は修養会などで知っていたのだと思います。また、京都北白川教会の奥田成孝牧師と親しかった岩淵 止とどむ長老の奥さんの敏子さんがおられ、母や私のことを気にかけてくださいました。佐川真理子さんを私の洗礼式に教会に誘い、半年後に佐川さんは洗礼を受け、私と一緒に教会学校の中学科を担当し、青年会、聖歌隊、祈祷会と楽しく過ごしました。佐川さんは教育学部国語科で学んでいました。福島県出身で、私も生まれは福島県郡山なので、親しみを感じたと思います。群馬県伊勢崎教会での私の結婚式にも来てくださり、その後、ずっと私たち夫婦を物心両面支えていてくださっています。大学卒業後、東大阪市の中学校に勤めるようになった私は、日曜日は京都の北白川教会へ母と通うようになりました。母の叔父の鈴木淳平夫妻とも教会で顔を合わせ、クリスマス礼拝の後にはパレスサイドホテルで、会食をするのがクリスマスの楽しみでした。

私の父は陸軍経理学校を卒業後、「満州」へ行き、敗戦、シベリア抑留を経験して帰国しました。「満州」の寒さやキジを鉄砲で撃ったことや捕虜収容所でドイツ人の合唱が素晴らしかったことなど、辛いことはあまり話しませんでしたが、楽しかったことは時々話してくれました。もう少し戦争が長引けばモスクワに行けたかもしれないとも言っていました。私も小さい頃から外国には興味がありました。青年海外協力隊で音楽の教師としてコスタリカへ派遣するという話と牧師との結婚の話が同じ頃に起こり、奥田先生御夫妻に相談に行きました。奥田先生は、協力隊の話は賛成、恒子夫人は「あなたの信仰がだめになる」と反対。牧師との結婚は「まず、説教を聞いてきなさい。」と言われ、「自分は、十分に幸せであるけれど、牧師の妻になるのは、かわいそうな気がする。」と言われました。

海外協力隊の最終試験では、私よりずっとピアノの上手な音楽大学出身の方々の様子に、無理に私が行かなくともとの思いが起こり、協力隊行きは辞退をしました。牧師との結婚については、奥田先生が、芦屋浜教会の常田二郎牧師に、そこで働いていた大島純男伝道師のことを訊ねてくださったりしました。

私は海外で働くことはしませんでしたが、私の娘がOMという宣教団体でロゴスホープ船にのり世界各地をキリスト教伝道して回りました。今はスイス人と結婚をし、二人の男の子をバーゼルで育てています。ウクライナからの母子を数ヶ月家に迎えて過ごしたりしています。

結婚後は、群馬県の伊勢崎教会、宮崎県延岡市の延岡城山教会、愛知県の春日井教会、日進市の南山教会と4人の子どもを育てながら、それぞれの教会員の方々に助けていただき楽しく過ごしました。伊勢崎教会と延岡城山教会時代には雑誌『婦人の友』の友の会の活動で、教会で家事家計講習会を開催したり、パン作りや石鹸つくりをしたり、友の会の方々に色々教えていただきました。春日井教会では、スズキメソードのヴァイオリンの先生が教会員にいて、近くで教室を持っており、4人の子どもたちはそこで習うことができました。才能教育研究会を創立された鈴木鎮一先生は、戦前に長野県の木曽福島におられ、私の祖父はヴァイオリンのレッスンを見学させてもらったことを私に話してくれたことがあります。私のいとこたちは松本でヴァイオリンのレッスンを受けていましたので、子ども用の小さなヴァイオリンを譲りうけて、それでヴァイオリンを始めました。実は、私も中学頃にはヴァイオリンを習いたかったのです。近くにヴァイオリンの先生がいないのと、経済的にも、時間的にもピアノと両立はできなかったと思います。大学生になって、オーケストラに入っている友人の先輩からヴァイオリンを借りて、紹介してもらった先生が大学に教えに来てくださるようになり、教会にも来ている先生で驚きました。私は子どもたちに美しいものを美しいと思う心を持ってもらいたいと思い育てました。「音楽の徳に育てられる」とヴァイオリン教室で教えられました。ピアノは自宅で4人の子どもを教えました。教会学校でも讃美歌を歌って育ちましたので、歌うことも好きな子どもに育ちました。息子たちは中高生頃からはギターを弾いたり、大学時代はバンド活動をしたり、親の知らないうちに音楽の幅が広がっていきました。長女はスイスの教会の礼拝でヴァイオリンを弾くこともあり、感謝しています。

私は、体も声も大きく大変元気にみえますが、長女出産後二週間目に子宮筋腫が体内で壊死をおこし緊急手術を受けました。幸いなことに、筋腫が子宮の外側にできていたので、壊死した筋腫だけを切除でき、その後3人の男の子を皆普通分娩で出産しました。長女の妊娠中期に、子宮筋腫があることが判った時には、流産の可能性や、帝王切開になるかもしれないと言われていましたが。普通分娩をすることができました。手術前には、せっかく普通分娩で生まれたのに、この子を残して死んだらどうしようと、涙がでました。手術日が、手伝いに来ていた母の誕生日で、忘れられない思い出です。

第五腰椎分離すべり症もその後わかり、コルセットをつけていた期間がありますが、鍼灸、マッサージやキリスト教の癒しの十字式健康法にも随分通いました。手術をするなら50歳半ばまでと言われたりもしましたが、何とか過ごしてきています。2018年3月には、ついに私にも乳癌がやってきました。その時には孫の世話のために90歳の母も連れて半年前に名古屋市天白区に転居していました。母の介護がありましたのでショートステイを長くしてもらい、三男の結婚式の3日後に温存手術を受けました。母の介護を理由に、抗がん剤や放射線、ホルモン治療はしないことにしました。運動が私の薬だと考えて、週三日は名古屋市のスポーツセンターにストレッチや筋肉運動、ウォーキングマシーンをしに、電動自転車で20分通っています。

共助会員の青山章行さん、久美子さん御夫妻の家が近くで、庭や畑でできた野菜や果物をいただきます。青山久美子さんは、東中通教会で教会学校の中学科を佐川真理子さんも共に担当し、聖歌隊も一緒に参加していて、こんなに近くに家があり、自転車で行ける距離にあることを神さまの導きと感謝をしています。

私の毎日は、朝5時40分からのラジオのキリスト教番組「世の光」と、カトリックの「心のともしび」を聞くことから始まります。それから、夫婦で『信徒の友』の日毎の糧の聖書日課の聖書を主人は新共同訳で、私は文語訳聖書で一節ずつ交読し、その日に掲げられている教会のことや子どもたちのこと、友人、世界のことをお祈りします。文語の聖書では、今は使われていない難しい漢字があり驚きをもって読んでいます。

6時半から朝食、7時5分には、すぐ近くに住む長男宅へ行き、二人の男の子の孫に15分ずつピアノのお稽古をさせて小学校の5年生の孫を学校へ送りだします。小学生が家を出る前に、長男夫婦とも、6歳と1歳の孫をそれぞれの保育所に連れて行ってから勤めに行きます。私は8時には自宅に戻りますが、夕方は小学生の孫の習い事に送って行ったり、おやつを届けたり、自転車で行ったり来たりしています。

午前9時から一時間はチェロの練習です。車で20分の所に私の子どもたちも学んでいたスズキメソードのチェロの教室があり、その先生は大人も教えてくださるので、3年前に母が亡くなってから、通い始めました。子どもが弾いていた曲もあり、懐かしく思いつつ、練習をしています。

水曜日の午後は聖書研究・祈祷会があり、日曜日には日本キリスト教団尾陽教会に、自転車で17分、夫婦で行っています。月に一度は東海教会で奏楽をしていますので、オルガン練習を兼ねて聖書研究・祈祷会に参加をし、礼拝も出席しています。一か月に一度位は、木曽奈良井にある実家が空き家になっていますので、行って家の点検や草取りをします。祖父が書いていた大きな黒板に聖書の言葉を書いて玄関脇に掲げてきます。祖父は、松本の教会に毎週通うのが大変になった75歳から、自宅の玄関脇に、黒板を掲げて、毎週土曜日に、85歳で亡くなるまで聖句を書いていました。郷里伝道を考えていた祖父は、矢内原忠雄先生や植村正久牧師、植村 環牧師、奥田先生、椎名麟三氏など色々な先生方を招いてキリスト教の集会をしました。私は母が70歳を過ぎて奈良井の家に住むようになってから、毎週は無理ですが、春日井市や日進市から通って一か月に一度、聖句の黒板を書くようになり、もう30年になります。聖句をメモしていく人や写真に撮っていく人、立ち止まって音読していく人など、奈良井宿は塩尻市に編入されてから観光に力を入れていますので、多くの人が訪れるようになりました。

洗礼を受けてクリスチャンになり、信仰を持ち続けることは、なかなか大変です。「あなたの信仰がなくならないように」と多くの人の祈りと支えによってかろうじて、教会に連なり、交わりの中で教えられ、育てられてきました。人間関係でつまずくこともありますし、誘惑に負けてしまいがちなこともあります。肉体の弱さで心が萎えてしまいそうな時もありますが、聖書に帰り、恵みを数えつつ、歩みたいと思います。

(日本基督教団 尾陽教会員)

参考文献

 『なくてならぬもの 追想 鈴木迪三』大島長子編、1993年発行

 『九十年の歩み 恩寵の生涯』 鈴木淳平著1986年第二版発行