瞻望⑧―私はいかにしてキリスト者となったか―牧野 信次

ドイツ滞在中に日本国内や世界で重大事件が次々と起こったが、1972年2月の浅間山荘事件には本当に驚いた。テレビ・ニュースで放映され、そのことを知らせにきたドイツ人の友人とハラハラしながら見たのである。また5月にはテルアビブ事件があり、これもテレビで見た。その後にある教会で日本人キリスト者として証しをするようにとの依頼を受け、日本人としてとても恥しいとの思いから躊躇したが、その時に「日本人として君の気持ちは判るが、あの青年たちと君とは別だよ」と慰められて、私の小さな務めをどうにか果たしたことを想い起す。同じ年の8〜9月にミュンヘン・オリンピックが開催されたが、その期間の9月5日に「黒い9月」事件が起こった。アラブゲリラが選手村に侵入し、イスラエル選手11人を殺害した驚愕すべき事件であったが、競技はその後一週間、最後まで続けられたのである。私はその時、ドイツという国のタフさに非常に感心したことを記憶している。

その頃ドイツの首相であり、社民党党首であったウィリー・ブラントはソ連・東欧諸国との和解と平和を求める東方政策を精力的に推進していたが、特にポーランドの首都ワルシャワを訪問した際に、その旧ゲットー跡の記念碑の前で跪(ひざまず)いてドイツの戦争責任を深く謝罪した。その感動的な姿がドイツの新聞やテレビでとても大きく報ぜられ、そのことがあの1989年11月9日の、東西対決の象徴であった「ベルリンの壁」崩壊へと連なっていったのである。彼は若い時に反ナチス抵抗運動の一員であり、北欧のノルウェーに亡命して抵抗活動を続け、戦後ベルリン市長となって政治の表舞台に登場し、東西ドイツの統一と冷戦解消の世界平和政策に一身を捧げたのである。あの有名なコンラート・アデナウアー首相と並ぶ、真に尊敬すべき政治家であった。私は当時ドイツにいて彼から最も大切なことを学んだと思っている。

ヨーロッパの中央に位置するドイツ、殊に北西部ドイツから汽車で近隣諸国へ旅するのはとても容易である。週末や休日を利用して、私は幾度かオランダやベルギー、ライン河沿いのフランス東部の街々を訪ねた。オランダの運河の大都会アムステルダムでは全く気儘(きまま)に歩き回り、美しい建築物である国立美術館ではあの有名なレンブラントの「夜警」をゆっくり鑑賞し、またエルサレムの滅亡を悲しむ預言者の「エレミヤ」にも思いがけず出会うことができ、本当に心から魂を揺すぶられた。フェルメールの「台所女中」を始め豊富なオランダ絵画に圧倒された。それからまた国立ゴッホ美術館では、年代順に並ぶゴッホの数多くの作品、とりわけ「馬鈴薯を食べる人々」、「ひまわり」、「アルルのハネ橋」そして最晩年の「カラスのいる麦畑」など息を呑む思いで観ることができた。アムステルダムから、季節は確か5月中旬頃であったが、キューケンホフの素晴らしく美しいチューリップの公園をたずね、旅の心がとても慰められたことを懐かしく想い起こす。そこからさらにライデンへ向かい、シーボルトハウスで日本からの沢山のコレクションをじっくりと観賞した。それからかつてここからアメリカへ向かった17世紀のピューリタンたちの記念館へも行った記憶がある。ハーグを経て、ベルギーのブリュッセルへ行き、あの世界で最も美しいと言われる大広場、グラン・プラスへ足を運んだ時は本当に驚嘆した。美しく飾られたみやげ物屋通りを歩いて、町のシンボルである小便小僧にも挨拶できた。美術館では16世紀フランドルと北ネーデルラントの絵画を楽しみ、とくにメムリンク、ボッシュ、ブリューゲルがとても印象的であった。美しい運河の町ブルージュからゲントを訪ね、聖バーフ大聖堂でフランドル絵画の最高傑作といわれる「神秘の仔羊」(ヤン・ファン・アイク作)の祭壇画を観た。芸術はその地で触れるに限ると思い知った。

私が1971年夏に単身ドイツへ行ったことは以前に書いたが、ドイツ滞在中にキリスト教美術の絵画、彫刻、版画そして教会建築など現地を訪ねてできるだけ時間をかけてゆっくりと観たいと願っていた。「ヨーロッパとは何か」について学生時代からM・ヴェーバーや日本の中世史家の著作を読み考えてきていたので、とりわけドイツの諸都市や地域の歴史に関心と興味を抱いていた。滞在は僅か2年半であったが、かなりよく旅をすることができた。シュヴェービッシュ・ハルにいた頃、バスと汽車を乗り継いで、ロマンティック街道の北の起点、マイン川の両岸に開けた教会の多い古都であるヴュルツブルグを訪ねた。11〜12世紀のドイツ建築を代表するロマネスク様式の大聖堂はとても静寂な敬虔さに満ち、とくにティルマン・リーメンシュナイダー(1460年頃~1531年)の石に刻んだ大司教の墓碑レリーフは群を抜いて素晴らしかった。1720~44年に大司教の宮殿として建てられた、世界文化遺産のレジデンツは豪華なバロック風の間が幾つもあり、ベネチアのティエポロが描いたフレスコ天井画は実に見事なものであった。マイン川対岸に旧市街を見下ろして立つ、丘の上のマリエンベルク要塞にあのリーメンシュナイダーの彫刻が幾つもあり、彼の悲劇的な生涯をも深く想わされた場所であった。

私は次にそこからさらに南の、タウバー川畔の城壁に囲まれた中世そのままのローテンブルグに向かい、聖ヤコブ教会でリーメンシュナイダーの木彫りの「聖血の祭壇」を観て、市庁舎や広場と街中を心楽しく散策した。その後バスでクレクリンゲンを訪ね、この旅の最大の目的である町外れのヘルゴット教会でリーメンシュナイダーの最高傑作、木彫の「聖母マリアの祭壇」を独り静かに鑑賞し、心が洗われる思いであった。彼の作品に以後ハイデルベルグやベルリンに於いても出会った。(日本基督教団隠退牧師)